第243話 笹の葉は如何様に揺れるのか その2
「惟之さん、目の痛みは大丈夫なの?」
ヒイラギが彼の顔を見てまず思ったのはそのことだった。
「……あ、あぁ。どういった訳か痛みは全くないんだ。……不思議なこともあるもんだな」
戸惑い気味に答えた後、空を見上げながら惟之は目を細めている。
彼が明るさや痛みを気にせずに、空を見上げるのはいつ以来なのだろう。
そう言った意味では、いい夢というべきなのかもしれない。
とはいえ、今日の空は太陽が主役ではない曇り空だ。
晴れだったらもっと良かったのに。
陽の光を痛みを感じることなく、惟之に浴びてほしかった。
ヒイラギはそう思いながら隣にいるつぐみへと目を向ける。
同じことを思っていたのだろう。
空を見上げている惟之を嬉しそうな、でも少しだけ寂しそうに彼女は眺めていた。
だがヒイラギの視線に気づき、はっとした顔をすると惟之の前へと向かう。
珍しくきりりとした表情になると、つぐみは緊張気味に彦星が仕事に戻るための説得を始めていく。
「うつっ、……じゃなかった彦星さん、私は今日あなたに話をするためにここに来たのです」
「なぁ冬野、お前『
呼び方くらい、気にしなくてもいいのではとヒイラギは思う。
ヒイラギはさきほど普通に『惟之さん』と呼んでいるし、惟之も普通に返事しているというのに。
「あなたが牛飼いの仕事をしないと牛さんがやせてしまって大変なのです。お仕事をきちんとして頂けませんか?」
「う、牛さん? 牛にも『さん』をつけちゃうんだな、お前」
ヒイラギは思わず突っ込みを入れてしまったが、相変わらず彼女の目は真剣そのものだ。
その発言に惟之も目を丸くし、口を軽くむずむずさせながらも黙って聞いている。
笑いたいが、つぐみが傷つくと思って我慢しているのだ。
その惟之の優しさにヒイラギは感心する。
「うしっ、牛さんはきっと彦星さんがお仕事をしっかりするのを待っているはずです! だからっ、えっと。かつてのようにうしさんライフに戻ってあげて欲しいのですっ!」
真剣だ。
つぐみはいたって真剣なのだ。
その表情や目を見る限り、それは間違いない。
だがヒイラギ達にとってはこれはある意味、拷問と言える状態だと言える。
笑いたい、でも笑えない。
笑ったらつぐみが悲しむのは間違いない。
そもそも『うしさんライフ』とは何なのだ。
惟之が再び空を見上げている。
確かに今、つぐみの顔を直視するのは危険だ。
それなのに彼女は残酷にもその攻撃の手を緩めようとしない。
「そうです、空を見てください。夜になればおうし座が輝くのですよ。そして星座は言うのですよ。『もーもー、彦星さんにお世話してもらいたいもー』って!」
この攻撃はさすがにきつい。
つぐみが惟之にさらに近づいたので、ヒイラギの立っている位置は彼女の後ろとなった。
それをいいことに、ヒイラギは声を出さずに口に手を当てるとこっそりと笑う。
惟之がずるいと言わんばかりの顔をして自分を見ているが、ヒイラギとしても限界なのだ。
唇を強く噛みしめ、なんとか笑いをこらえようとしている彼の姿を見つめながら心の中で詫びる。
その惟之の姿を思い詰めていると勘違いしたのだろう。
つぐみが知らず知らずのうちに惟之にとどめを刺しにいこうとしていた。
「いいのですよ、こらえなくっても。……心の全てを、さらけ出してくれればいいのです」
どうやら惟之の限界を超えたようだ。
彼はつぐみに背を向け肩を震わせていた。
さらけ出したいだろう。
それはもう、さらけ出したくて仕方ないだろう。
ヒイラギはそう言いたくてならないのをぐっとこらえる。
こんな時こそサングラスがあったら、表情も隠せるだろうに。
だが、それよりもまずヒイラギが。
何も知らずに、惟之の背中をそっとさすっているつぐみを見た時点でもう限界だったのだ。
ヒイラギは
声も聞こえないであろう所まで走り、草むらに仰向けに倒れこんだ。
そうして足をバタバタとさせながら、ありったけの声で笑う。
「ひゃははっ、あればヤバイ。ごめん惟之さんっ! ぷくくくっ、何でそうなるんだよっ! うしさんライフって何だよ! おうし座がもーもーって何だよぉぉぉ!」
笑いすぎて息が吸えない。
このままでは息が出来なくて死んでしまう。
そうは思うのだが、目を閉じれば真剣な表情でもーもーと言っているつぐみが浮かび上がって来るではないか。
服が汚れるかもしれないという考えも忘れ、体を右へ左へと倒れこませながらヒイラギはただ笑い続ける。
そうして数分後、ふぅと小さく息をつき立ち上がると再び二人のいる場所へと戻っていく。
こころなしか戻って来る前よりげんなりとした惟之が、こちらを恨めしそうに見ている。
一方のつぐみは、成し遂げたという表情をたたえてヒイラギを迎え入れた。
「あぁ、ヒイラギ君。どこに行っていたの? 彦星さんはね、きちんと牛飼いの仕事をするって約束してくれたよ! やっぱり話せば、わかりあえるものだよね!」
「そ、そうか。よかったな。えぇと、分かりあえたのか。それはなによりだったな」
「うん、最後は私のために泣いてくれていたんだよ。うつっ、……彦星さんは優しい人だね!」
そうだな、確かに優しい人だ。
最後までつぐみに気付かれずにやり過ごせたのだ。
すごいよ、惟之さん。
自分には無理だったから、本当に尊敬するよ。
そうヒイラギは心の中で惟之を称える。
「さ、さぁ。次は織姫の所に行かなければいけないのだろう? 急いでいった方がいいのではないか?」
惟之の震え気味の声が聞こえる。
彦星をやり切ったこの人物の真の限界が近いのをヒイラギは悟った。
つぐみの手をぐっと引っ張り、手短に別れの挨拶を済ませる。
「わかりました。俺達は使命のために急ぎます。行くぞ、冬野!」
そう言って彼女の背中を押して惟之から目を背けさせた。
次の瞬間には彼は後ろを向きしゃがみ込むと、こぶしで自分の膝を叩き肩を震わせている。
――頑張ったね、惟之さん。
ヒイラギは今、自分がとても優しい眼差しで彼を見つめていることを自覚する。
振り返ったつぐみは、何だか感無量といった表情で惟之と自分を見つめていた。
悪いな冬野。
残念だが、お前と俺達は全く違う思いだ。
心でそうヒイラギは独り言をつぶやく。
嬉しそうにしている彼女を先へと促しながら、ヒイラギの頭の中にはある懸念が浮かぶ。
彦星が惟之だった。
つまりは織姫もヒイラギの知っている人物ではないのだろうかと。
「さぁ、後は織姫様の説得だね! 頑張ろうね、ヒイラギ君!」
目的の一つを達成した満足感からか、眩しい笑顔を見せつぐみが嬉しそうにずんずんと先へと歩いて行く。
目が覚めるのはいつだろう?
そんなことを思いながら、ヒイラギは彼女の後を追うのだった。
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