第214話 忘れたいコト その3

 ――声が聞こえてくる。


 ぺたりと床に座り込んでいる自分の耳に届く、たくさんの人の声。

 ふぁさりと品子の上に何かが掛けられた。

 そのまま自分を包むように掛けられた布越しに、人の感触を感じた瞬間に品子の意識は一気に覚醒する。


 ……ひと。

 人だ。

 人が私にさわってる!

 嫌だ嫌だ!

 止めて止めて触らないで。

 もう私に触らないで!

 あふれくる思いを品子は叫びとして出していく。


 「いやぁ! さわらないで! さわるなぁ!」


 叫ぶ。

 だがそれまでに、ずっと叫んでいたこともあり、喉の奥からはかすれた声しか出て来ない。

 せめてもの抵抗に品子は体を大きく揺すり、誰も自分に近づかないようにと暴れる。


「おい! 誰か女性を呼んでくれ! 急いで!」

 

 部屋に響くのは、せっぱつまった男の声。

 その声を聞き品子の心はますます混乱していく。


「いやだ! こないで!」


 品子は目を閉じうつむくと、自分の体を両手で強く抱き体を丸める。


「……品子様、落ち着いてください。私の顔が見えますか?」


 自分の名を呼ぶ、穏やかな女性の声がする。

 声の主を確認しようと品子は上を向く。


 眼鏡をかけたショートヘアの女性が、品子と目を合わせてくる。 

 見たことのある、女の人。

 彼女は三条の人だ。

 名前は確か……、小宮山こみやまさんだ。

 ようやく知った顔を見つけた品子は小宮山に問いかける。


「こみやまさん、わたしに、ひどいことしない?」


 そう品子が聞くと彼女は驚いた表情の後に、ぽろぽろと涙を流し始める。

 泣かないでいいよ。

 品子は手を伸ばそうとするが、体が動かない。


「ごめんなさい。てがいたいの。こみやまさんのなみだ、ふいてができなくてごめんなさい」


 言葉を聞き終えた彼女は、ずり落ちたブランケットをそっと品子の体に掛け直していく。

 そうして包むように抱きしめてくると、ぽつりと小さく呟く。


「帰りましょう、品子様。お迎えに来ました」

「……かえる?」

「えぇ、そうです。お家に帰りましょうね」

「かえれるの? わたし、うちにかえっていいの? もういたいのはおわり?」

「はい、一緒に帰りましょうね」

「……うん。かえりたいの。わたし、かえりたい。……かえりたいよぅ」

「はい、……はいっ!」


 小宮山の声は、そこで途切れてしまう。

 だがその間も品子が痛くないように、怖がらないようにとブランケットの上から、優しく体をずっと撫でてくれている。

 その行動に少しずつ品子の心は落ち着いていく。


「痛くてもいいから、ぎゅってしてもらっていいですか? 一人が怖いんです」

「わかりました。手を繋いでもいいですか? 品子様」


 品子は手を伸ばそうとするが感覚が失われた手は動こうとしない。

 困り果てた品子は小宮山を再び見上げる。


「はい、でも手が上がらないんです。動かせないんです」

「ではもう少しこのままで。車いすの手配を済ませてあります。ずっと隣にいますからね」

「ありがとうございます。どうか、お願いです。家まではずっといてください。私を一人にしないでください」

「もちろんですよ。では参りましょうか」


 運ばれてきた車いすに乗る時も、小宮山は誰の手も借りず一人で品子を車いすへと乗せてくれた。

 周りの人も自分と同様に、彼女がいてくれたことにほっとしているのが分かる。

 人、人と言えば……。

 品子の脳裏に三人の男の姿が浮かぶ。


「小宮山さん! あの人達! あの人達はどうしたの? 小宮山さん、ここにいたら危ない! 小宮山さんは逃げて!」


 彼女まで、自分のようなひどい目に遭ってはならない。

 早くここから離れてもらわねば。

 そう思い必死な表情で訴えかける品子に、小宮山は肩を優しく撫でてくれる。

 品子にも理解できるよう、ゆっくりと話を始めていく。


「もう心配はいりません。彼らは今、別の場所に居ます。もう品子様の前には二度と来ません」

「でも江藤さんと斉藤さんは、そんなに悪い人ではない、……はずです」

「彼らも陣原も今は自身を取り戻しています。陣原の件は別の方が『対応』しましたから。仕事の方も終わっています」


 小宮山の言葉に品子は自身の仕事を思い出す。

 仕事の途中だったのに、自分の発動で全てをだいなしにしてしまったのだ。


「ごめんなさい。お仕事だめにしてしまいました。……ごめんなさい。発動が知らないうちにしてしまいました」

 

 自分の口から出てくるのはひどい言葉遣い。

 どうしてこんな変な言葉でしか言えないのだろうと、自分自身が不思議でしかたがない。


「ごめんなさい。なぜだか、私は今、上手に話せません」

「大丈夫です。品子様が言っていることは、私にはきちんと分かりましたよ」

「はい。でもごめんなさい。小宮山さんにここまで来てもらって、ごめんなさい」

「ええ。分かりましたよ。さぁ、ここから出ましょうね」


 小宮山の声は、とても穏やかで優しい。

 ありがとうと言いたいのに、品子の口からはごめんなさいという言葉しか出せなくなっているのだ。


 ゆっくりと運ばれていく、自分。

 動かない体の中で、動かすことが出来るのは視線だけ。

 見えないけれど、後ろには車いすを押す優しい小宮山がいる。

 時折、品子の肩にそっと触れ、ここにいるからと伝えてくれるのだ。


 前には、誰もいない。

 品子の前には、もう、何もない。


 目を閉じよう。

 そうだ、目だけではなく、全てを閉じよう。


 そうして品子は。

 心を昏い昏い場所へ、全部、放り投げた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る