第208話 人出品子は助けを求める

 ポーチの中から、予備のヘアゴムを品子は取り出す。

 いつもなら手早く髪を結い直すのだが、上手くいかない。

 手の震えが止まらないのだ。


 力が上手く入れらずに、ヘアゴムを取り落としてしまう。

 小さな丸い円は転がり、自分からどんどん離れていく。

 追いかけることも出来ず、誰もいない部屋で自分の体を両腕で強く抱き立ちつくす。

 小さく何度も「落ち着け、落ち着け」と繰り返しながら、震えが止まるのをただ待ち続ける。


 わすれよう忘れよう忘れるの忘れるんだ。

 あれは、もう終わった。

 全てが終わったことなのだ。

 品子の頭の中で同じ言葉がぐるぐると回り続けていく。


 里希が自分に、先程したことも。

 ずっと昔に、初めて『妖艶』を発動させてしまった時も。

 みんな、忘れればいい。

 そうしないと、自分の心は死んでしまう。

 死んだ心はもう、戻らない。

 そう考えてから品子は目を閉じる。


 いつもの暗闇の中、品子はこの後に来る二つの未来を待ちわびている。

 一つ目、この震えが止まり、髪を束ねることが出来ること。

 二つ目、このまま震えが止まらずに意識を失い、治療班のところへ運ばれていくこと。

 どちらでもいいから早く来てくれと強く願う。


 震えは酷くなる一方だ。

 強くまぶたを閉じて、更に腕に力を入れ自らを抱きしめるとそのまま床に座り込む。

 不幸中の幸いと言うべきか。

 入室時の里希の指示により、この部屋には誰も入って来ないようになっている。

 今、この部屋に人が来ることはとても危険だ。

 特に男性が来ると、大変なことになってしまう。

 

「怖い、怖いよ。ねぇ、誰か助けてよぉ……」


 口から出るのは、弱く頼りない言葉達。

 そこから心の欠片も、ぽろぽろと一緒にこぼれ落ちていくようだ。

 それなのに。


 ――まだこの世界は、品子に意識を手放すことを許さない。



◇◇◇◇◇



「惟之さん、どうしてですか? 品子さんは、早急に迎えに行かないといけない状態なんです! なのに、どうしてここで待機していろと言うのですか!」


 惟之へと向けられる明日人の声が怒りに震えている。

 ここは一条の管理地に一番近い応接室。

 里希と別れてすぐに、惟之はこの部屋を手配した。 

 この部屋も彼女がいる部屋と同様の大きさだ。

 机を挟み二人がけのソファが二つ、設置されている。

 対面に座る明日人は、とがめるような視線を自分へと向けてくる。


「先程も言いましたが、彼女の発汗量と呼吸のペースが明らかに異常です。痙攣けいれんを起こしている可能性もあります」

「それでいま、品子の意識は?」

「……あるようですよ。何なら惟之さんが、鷹の目で見ればいい。僕に聞かずとも、すぐに分かるのではないのですか?」


 惟之の問いかけに、怒りと不信感が混じった声で明日人が答える。

 

「……なぁ、明日人。お前は品子の発動はどの程度、認知しているんだ?」


 惟之は明日人に、今ここでは適さないであろう質問を投げかける。

 彼はむっとした表情を浮かべたあと、自分を見て大きくため息をつく。

 

「先日の品子さんの言葉を、お借りしましょうかね。僕には惟之さんの意図が、全く分かりませんよ」


 この発言はこの間の夕食会の後の、つぐみの部屋での一件で聞いたものだ。


「その時に、この言葉を言われた相手はお前だったな」

「そうでしたね。……それを考えると。今、あの部屋に向かうのは何か都合が悪いのですね」

「理解が早くて助かるな。今一度、聞こうかね。明日人、お前は品子の能力をどれだけ知っている?」

 

 惟之の問いかけに、明日人は「うーん」と呟く。

 そうして人差し指で、こめかみを軽くとんとんと叩きながら答える。

 

「僕が知りうる限りでは、記憶の操作。後は人の心を奪い、操る力でしたっけ?」

「そうだな。問題は後者の能力。『妖艶ようえん』の方だ」


『妖艶』

 この呼び方も、本来のものではないのだ。

 惟之はそれを思い返しながら、明日人に説明を始めていく。


「今、品子はそれを発動した状態にある。そして発動を彼女自身が、解除できない暴走状態にあると考えられる」

「自身が解除できない、ですか。それはまた厄介な発動ですねぇ」

「普段ならそんなことはない。だが、今回は里希によって強制的に発動をしている。更には品子本人がひどく動揺した為に、制御が出来なくなっているのだろうな」


 惟之の話を聞き、明日人はうつむき少し考えこむ様子を見せる。

 顔を上げた明日人は、惟之へと問いかけていく。


「そんな状態で僕らが、その部屋に向かったらどうなるのですか?」

「推測でしかないが、俺たち二人は自分の意志で動けなくなる。それだけなら、まだいい。最悪の場合」


 十年程前に起こった事件。

 想定外に品子の発動がなされ、それは起こってしまった。

 当時を思い出しながら、惟之は明日人に説明を続ける。 


「理性を失い、二人して品子を襲うなんてこともあり得るんだよ。……冗談じゃないだろう?」  

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