第204話 人出品子は、戻る

 目前で柔らかく微笑む里希を見つめながら、品子は握られた手をゆっくりと離していく。


「確かに十年前、君と私は自分達の意思ではなかったとはいえ。……許婚いいなずけの関係であったこと。それが君にとって望まざるものなのに背負わせてしまったのが、今までのこの状態の一つの原因だったのか?」


 品子の問いかけに里希は口元に浮かべていた笑みを消し、何も話そうとしない。

 沈黙に耐えられず、品子は言葉を続けていく。


「私達がおかしくなった時期は、マキエ様の死後まもなく。同時期、この許婚の話も破棄になった。それから君の態度が、少しずつ変わり始めたのだと私は認識している。……なぁ、里希。君の本当の気持ちを、聞かせてはもらえないか? 君は私に今更、詫び言かと問うた。つまり私に思うことがあるということなのだろう? 私は、十年前のように戻りたい。君と一緒に笑い、共に過ごしていきたい。だから……」


 ひたすら話し続ける品子に、ようやく里希が答える。


「そうですか? そんなに聞きたいならば僕に『話させれば』いいではないですか。……あなたのその力を使って。簡単なことでしょう? その髪をほどいて『私について思うことを話せ』と一言、命ずるだけでいい」


 ようやく聞けた彼の言葉に、品子はかぶりを振り答える。


「そんなもの使わない。直接、君の本心を聞かなければ。そんなものには、何の意味もない」

「本心、ですか。……ふぅん、そんなきれいごと言われてもねぇ」


 言葉と同時に里希は、人差し指を品子に向けると小さく振った。


「え、里希? その、動きは私に発動を?」


 直後、品子の髪を結んでいたヘアゴムがぷつりと音を立ててちぎれ、数本の髪と共に床へと落ちていく。

 広がる髪を押さえようと伸ばした品子の右手を、里希の左手が掴む。

 同時に彼の右手の人差し指が、品子の額に触れた。


「里希っ! 何をしてい……」

「先輩、『大人しくしてほしいだけですよ』僕は」


 品子の額に、小さく風が吹いた。

 里希の指が離れると同時に、体の力が抜けていく。

 手をだらりと下げ、品子はそのまま体はソファにずるずると座り込んでいってしまう。


「十年前に戻りたいですか。……そうですね。じゃあ、今から戻りましょうか? そういえばもう先輩はいいお年なのに、まだ結婚もしていませんね。あぁ、そっか。先輩は男性が『苦手』でしたものね」


 なんと残酷なことだろう。

 彼はその理由を知っていて、自分にこんなことを言ってくるのだから。


「じゃあ僕が、そのお相手になって欲しいということですか? ふふ」


 愉快そうに笑う里希を、品子は見上げる。

 体が動くようにと力を入れてみるが、全く動かせる様子はない。


「あぁ、綺麗ですねぇ。その髪も姿もとても綺麗だ。これが相手の心を奪うという『妖艶』の発動ですか。確か本人の意思に関係なく、髪を解いた時点で発動するんでしたっけ? 便利ですねぇ。……とても」


 里希は顔を近づけると、品子の髪をそっとすくい上げる様に触れる。

 そのまま髪に口づけ、もう一方の手で品子の頬に触れながら微笑んできた。


「里希っ。同じ組織の人間に、発動を使うのは服務規程違反だ。どうしてこんな、……こんなことをする、必要がある!」


 とぎれとぎれにしか、話すことしか出来ない自分。

 もどかしさを抱える品子に、里希は淡々と答えてくる。


「あなたがあまりにも愚かなことしか言ってこないからですよ。背負わせてしまった? 冗談じゃない。そんな軽々しいものでくくらないでください。非常に不快です」


 里希の唇が品子の頬に、次いで唇に触ると、首筋へとなぞるように進む。

 品子はただ、それを見つめることしかできない。


「里希、止めろ。……止めてくれ」


 もはや懇願と言っていい品子の声に、里希は先程までの笑みを消すと、厳しく言葉を放つ。


「止めろですか? そもそも戻りたいって何なのです? 別に僕は十年前から何も変わっていない。何一つとして! むしろ変わってしまったのは、あなたの方でしょう!」


 里希の言葉に、その冷たい眼差しに。

 品子の感情は、『揺れ動く』といった生やさしい言葉ではあらわせないものに、次第に飲み込まれていく。


 はたしてこれは動揺からなのか。

 あるいは今まで蓋をしていた感情。

 これらが一度に出ようとしているからなのか。

 動けないながらも、品子は必死に顔を上げる。

 今まで隠し、こらえていた感情を品子はもう、止めることが出来ない。


「それならばなぜ、私との許婚の破棄をした! ……そんなに私が嫌いと言うなら、はっきりと言ってくれればよかったじゃない! ……嫌いだ! 里希なんて、大嫌いだ!」


 まるで駄々をこねている子供のように品子は、ずっと言わなかった思いを。

 十年もの間、言えなかった感情を里希にぶつけていく。

 そう、十年前の破棄は……。

 自分は里希に断られていたのだから。


 最初に、清乃から破棄の件が伝えられたあの時。

 すんなりと自分の口から、「わかりました」という言葉が出てきたことに自分自身が驚いたものだ。

 その様子を見た清乃はそれ以降、その件を口にすることは一度たりとも無かった。

 清乃が気を遣っているのが分かり、心苦しい思いはあった。

 その優しさに甘え、自分からも今日まではその話に触れることは無かったのだ。


 一方で里希が自分に対して次第によそよそしく、明らかに避けていくのも感じていた。

 それなのに「なぜ?」の一言を里希に聞ける勇気も無く、十年という年月だけが経ってしまっていたのだ。


「もうやだ。……嫌いだもん。里希なんてっ! ……大嫌い」


 零れていく言葉と涙に羞恥心が芽生え、品子は目を開けることができない。

 里希は今、どんな顔で自分を見ていることだろう。


 そんな自分の耳に、パチンと指を鳴らす音が響く。

 里希が発動を解除したのだ。

 体が動くのを確認し、涙を拭うと里希の姿を探す。

 彼は部屋を出ていくようで、扉に向かう後ろ姿が品子の目に映った。


「覗きが趣味の方が何人かいるようです。……どうやら少々、こちらにも勘違いがあったようですね。その確認も必要となりましたので、私はここで失礼いたします」

 

 振り返ってきた里希の顔には、動揺とまではいかないが、明らかな戸惑いが表れている。

 だがそれ以上は何も語ることなく去っていく後ろ姿を、品子は黙って見つめることしか出来なかった。

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