第191話 木津兄妹は研修を受ける

 ほんの少しのためらいの後、ヒイラギは扉を開き部屋に入っていく。

 シヤには先に行かせない。

 あの視線を浴びるのは、自分だけで充分なのだから。

 腹に力を入れ、足を一歩前へ踏み出す。


 自分達が部屋に入り向けられたのは、一部の人間からの冷ややかな視線。

 同時にくすくすという笑い声と、ひそひそ声が聞こえだす。


 いつもならば、その声に押しつぶされるかのようにうつむき席に向かっているところだ。

 だが今日はなぜだか反抗したい気持ちが芽生え、ぐるりと周囲を見渡す。

 目が合うとにやにやしてる者、自分と視線が合うと慌ててそらす者。

 ならばはじめから、こちらを見なければいいのに。

 そう考えながら、一番後ろの部屋の入口から一番遠い席にヒイラギは向かう。


 ここが自分達の指定席。

 過去の研修において言われたことをヒイラギは思い返す。


「おまえ達が見えると、集中力が途切れるやつがいるかもしれない。研修の阻害になるから」


 ある時に研修担当をしていた講師からそう言われ、それ以来自分たち兄妹はこの席に座るようになった。

 席に着いたヒイラギは、隣に座ったシヤを眺める。

 彼女はいつも通り表情を変えることなく、ただ前を見据えるのみだ。

 視線に気づいたのか、ヒイラギをちらりと見る。


「目をそらすくらいなら、最初から見なければいいのに」


 小さく呟くのが聞こえる。

 同じことを考えていたのだと分かり、おかしくなり思わず笑ってしまう。

 自分の笑い声にシヤも小さく笑うと、鞄から筆記用具を取り出していく。


「なんだぁ。負け犬は遠吠えだけじゃなくて、笑うこともあるんだなぁ!」


 明らかに自分達に向けたと思われる言葉。 

 あれだけざわついていた部屋がしんと静まり返り、シヤはぴたりと手を止めうつむいてしまう。

 下を向いているシヤの表情は、うかがい知ることはできない。

 ヒイラギは声のした方向を見る。

 声の主は自分達の席から、四つほど前に座っている男。

 部屋に入って見渡した時に、にやにやとしてこちらを見ていたうちの一人だ。

 相も変わらず品の無い、にやつき顔でヒイラギ達を見ている。


 自分だけならば、何を言われてもいい。

 だが今の言葉は、決して許せるものではない。

 荒々しい感情が自分の中で、とどまることなく膨らみ始めるのが分かる。

 ガタリと大きな音を立てて席を立つ音。

 しかしそれは、ヒイラギからではなく少し前の席からのもの。

 その音の主はゆっくりと、先程の発言をした人物に向かっていく。

 そうして、にやにや男の正面に立つと、凛とした声で言った。


 「謝れ」

 

 ヒイラギを含めその場にいたほとんどの人間は、その行動をただ驚き見つめることしかできない。

 どうして彼は、この行動を起こしたのだろうと。

 ヒイラギ達にとっては見覚えのある人物。

 奥戸の事件の時に会った九重ここのえ連太郎れんたろうが、どうしてこんな行動を起こしているのだろうと。



◇◇◇◇◇



「なんで? 何に俺は謝ればいいの? 別に何も悪いことはしてないんだけどさ」


 男の言葉にヒイラギは我に返り、再び連太郎達へと視線を向ける。


 男は「なぁ?」と隣に座った仲間に話しかけながら笑っている。

 声を掛けられた相手は、この行動を想定していなかったのだろう。

 あいまいに頷きながら、連太郎を怯えたような目で見つめている。


「……自分は二条にじょう所属の九重連太郎だ。お前は?」

「え、なんで? なんで俺は名乗らなきゃいけないの? 嫌だよ、お前なんかに教えてやらない」


 明らかに挑発した態度で、男は連太郎を見上げていた。

 先ほどから男は「なんで」を連呼して彼をあおっている。

 真面目なタイプの九重には、分が悪い相手だ。

 そう考えたヒイラギは、シヤの耳元に「ここから動かないように」とささやくと席を立ち、連太郎の隣へと向かう。


「あれ~。逃げ兎って跳ねてくるかと思ったら、普通に歩けるんだなぁ。知らなかったよ」


 名前も分からないので、こいつはもう「なんで君」でいい。 

 ヒイラギは彼の呼び方をそう決め近づいていく。

 その姿を見て、なんで君は悪意たっぷりの笑みと皮肉な言葉をぶつけてくる。

 

「なっ……」と小さく、連太郎が呟くのがヒイラギの耳に届く。

 今の発言でさらに男に向けて怒りに満ちた目で睨みつけている連太郎の隣へと立つ。 

 ヒイラギはゆっくりと、だがしっかり周りに聞こえる声で彼に伝える。


「……ありがとう。九重さん」


 ヒイラギの言葉に連太郎は目をそらし、口をもごもごと動かすと顔をそむけてしまった。

 ここまでしたのは彼なのに、急に内気になったその姿にヒイラギは戸惑う。

 

 だが伝えたいことは、伝えたのだ。

 ならば次に言いたい相手に、しっかりと言ってやるとするか。

 そう気持ちを切り替えたヒイラギは、くるりと向きを変え「なんで君」の方を向く。


「まぁ。『なんで』しか言うことの出来ない変な奴と違って俺、人間だからさ。普通に歩けるんだよ。それすらも分からないみたいだから、教えといてやる。俺は逃げ兎じゃない。俺の名前は木津ヒイラギだ。おぼえておけよ。えーっと、確かあんたの名前は『なんで君』だっけ?」

 

 ヒイラギも最初は彼と同じように、にやにやしながら言ってやろうかと思っていた。

 だが、同レベルになるのは大変に不本意だ。

 そう考え真っ直ぐになんで君を見つめ、生れ出た決意をもって話しかける。


 決めたのだ、自分は彼女つぐみから学んだのだ

 ――もう、逃げない。


 ヒイラギの言葉に周りからは、こらえきれなくなったといった感じの笑い声が、あちこちから聞こえてくる。

 隣では「なんで君って。すごいな」とうつむきながら、耐えられずに笑っている連太郎の姿が見える。


 彼はこんな風に笑えるのだ。

 いつも真顔で堅苦しいという印象しかないこともあり、ヒイラギは驚いてしまう。

 連太郎の横顔を眺めていたヒイラギに、突然ドンという衝撃が胸に来る。

 想定していなかった動きに構える事も出来ず、背後にある椅子や机を巻き込みながらヒイラギは倒れこんでいく。

 背中や尻に、痛みを感じながら見上げた先。

 そこには両手を前に付き出して、荒い息を吐いているなんで君が見えた。


 ……油断していた、こうなる事も予想すべきだったのに。

 相手の顔を見つめながらそう思い、ヒイラギが立ち上がろうとしたその時。

 なんで君の顔が歪んだかと思うと、自分の視界からその姿が消えた。

 直後に派手な音が響き、先程の自分と同じように彼が倒れこんでいく。


 状況が理解できず、ヒイラギはただ呆然としてしまう。

 なんで君の前にはいつの間にか、呼吸を乱すこともなく見下ろしている連太郎がいた。

 こぶしを握り締めて立っていることから、彼が殴ったか突き飛ばしたかしたのだろう。

 そしてそのまま無表情で再びこぶしが静かに上がっていくのを見て、さすがにヒイラギもまずいと理解をする。


「ちょ、九重さん! 落ち着いて! 落ち着けって!」

 

 ヒイラギは慌てて立ち上がり、飛びつくようにして連太郎の手を抑え込む。


 その頃になってようやく職員達が、わらわらと部屋に入って来た。

 ヒイラギと連太郎は説明のために、別室へと連れて行くと職員から告げられる。

 じき呼び出されるであろう、品子と惟之になんと謝ろうか。

 ヒイラギはそう考え、横をちらりと見る。

 隣には今更に青くなり「すみません……、惟之様」と呟いている連太郎の横顔がある。


 今日は、めったに見れないものが見れる日だな。

 そんなことを考えられる自分の心の余裕に驚きながら、ヒイラギは別室へと向かっていくのだった。

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