第162話 少女は名乗る
「ほぅ、それでこの二人は縛られていると」
惟之は嬉しそうに。
それはもう楽しそうにつぐみと品子を見てくる。
「あはは。すごいね~、ちょっとおバカさんだよね~。二人とも」
明日人までもが、嬉しそうに二人を眺めている。
しかしその手はホットケーキをのせたお皿を抱え、話している間もフォークは休むことなく口へと運ばれていた。
「惟之さん。今まで品子に、積もり積もった思いがあるでしょ? 今ここでぶちまけてもいいけど?」
ヒイラギが、縛られている自分達の方を向きながらニンマリと笑っている。
男性陣が今日はいつになく、意地悪ではないか。
つぐみは悲しみをたたえ彼らを見上げ考える。
そんな中、惟之が品子の前へとしゃがみ込んだ。
「そうか、そうだな。……なぁ品子よ。どうやら今日は、おめでたい日みたいじゃないか? 俺としては今日の夕飯は、ぜひ豪華に祝うべきなんじゃないかと思うんだがね」
惟之は品子の肩をぽんと叩き、周りをぐるりと見渡す。
「そうだな。俺は今日の祝いに寿司が食べたい気分だ。おい皆、今日は品子が皆に寿司をおごってくれるらしいぞ」
「なっ、何でそんなこと。……惟之っ! お前あの時の寿司をおごらせたの、まだ根に持っているのかよ!」
品子の鋭い声が、つぐみの後ろから聞こえる。
話を聞いた明日人が、嬉しそうに会話に参加していく。
「あー、いいな! 惟之さん、僕も! 僕もいいですか?」
明日人の発言は、つぐみにはとても聞き覚えがある。
以前に惟之が寿司をおごるはめになったときの言葉だ。
それを再現している辺り、明日人は確信犯であるといえよう。
「もちろんいいぞ! 明日人も一緒に祝いたいだろうしな」
「もちろん祝いたいですね。そしてお寿司も美味しく味わいたいです!」
「くっくっく。素直なのはいいぞ。なぁ、品子さんよぉ」
その声に思わず、つぐみは惟之の顔を見上げてしまう。
悪い。
とても悪い顔をした惟之が、
背中合わせで見えないが品子は今、どんな顔をして惟之を見ているのだろう。
……見なかったことにしたほうがいい。
そう答えを出し、つぐみは前へと向き直る。
「そうだな。それならば、ほどいてやっていいんじゃないかぁ? なぁ、ヒイラギ?」
「惟之さんがそこまで言うのなら、ほどいてやってもいいかな。品子、どうする?」
「お、お前ら。……人として、やっていいことと悪いことの区別も出来んのか! 人ならば理性を持て、冷静になれ!」
品子の言葉につぐみは心から同情する。
だが品子が追い詰められているという、珍しいシチュエーションだ。
思わずそのまま聞き耳を立ててしまう。
「あ、あの……」
そんな中、おずおずとした声が台所の方から聞こえた。
シヤとさとみの二人が、リビングの方にやって来るのが見える。
シヤが何だか嬉しそうに、口をむずむずとさせている。
さとみの肩に手を置いて「いい?」と聞くと、さとみはこくりとうなずいた。
「さとみちゃんなんですが。思念ではなく発声が出来るようにと、大きな沙十美さんと練習していたみたいです。……じゃあお名前、教えてくれる?」
シヤがそう言うと、さとみは口を開けて、皆に向かって話す。
「し、……しゃとみ」
その瞬間、つぐみに衝撃が走った。
口に出せない思いが次々と心の中にあふれていく。
「しゃ」だよ。「さ」が言えなくて「しゃ」だよ。
可愛すぎるでしょ。
可愛いにもほどがあるでしょ!
そりゃシヤちゃんの口も、むずむずしちゃうのも分かるよ。
ああっ、シヤちゃん!
やっぱり、さとみちゃんの頭を撫でているっ! ……ずるい。
いくらシヤちゃんだからといっても、これは許せな……。
「もう一度、教えてくれる?」
シヤがさとみを見て言う。
「え? もう一回、聞けるの? シヤちゃんありがとう! 許す! 大いに許すね!」
思わず叫んだ声に、皆が一斉に自分へと視線を向ける。
「すみません」と小さく呟き、恥ずかしさに顔を伏せていく。
そんなつぐみの耳に、再びシヤに促されたさとみの声が届いた。
「……しゃとみ」
つぐみは目を閉じると天を仰ぐ。
あぁ、世のお母さん、お父さん方。
子供が初めて発する「パパ」や「ママ」を、きっとこんな気持ちで聞くのですね!
そう思った次の瞬間。
凄い勢いでぐっと、体が後ろへと引っ張られていく。
「ヒイラギ、惟之っ! 寿司はおごる! おごるから好きなものを頼め! だからっ、だからこれをはずしてくれぇぇぇぇ!
……品子はとうとう、人であることを放棄してしまったようだ。
さっきまで自分が言ってた、理性と冷静さをこの人はどこに置いてきたのだろう。
再び目を閉じ、つぐみは呟く。
「逃げて、さとみちゃん」
せめてもの抵抗として、足を踏ん張り続ける。
凄まじい力で後ろに引きずられながらつぐみは思うのだ。
人であることは難しいと。
◇◇◇◇◇
「なんでだよ! 冬野君は解放されたのに! なんで私はだめなんだよ!」
「いや。この状況で誰が、お前を解放しようなんて思うんだよ」
「品子。俺はお前が従姉として、尊敬できる人であってほしいと願うのはわがままなのか?」
惟之とヒイラギが、呆れ顔で品子と話をしている。
結局あの後、つぐみだけが解放された。
品子はコードをさらに追加してぐるぐると縛られて、芋虫のようにリビングに転がされている。
先程に加えて足も拘束されているので、かなり
一方つぐみは夕飯の寿司に向けて、明日人のリクエストがあったお吸い物を作っていた。
つぐみとしても本当は、さとみと遊んだり話をしたい。
だがきちんと優先させることをしないと、第二の品子になりかねないのだ。
そのさとみの方を眺めれば、先程から明日人と二人で仲良く遊んでいる。
シヤは、課題を済ませたいということで少し前に自室に戻ったばかりだ。
「という訳で、ここでぴょーんとジャンプだっ!」
『じゃーんぷ、だぁっ!』
「いいよぉ。そこで体をぴーんとしてっ! そしてそれからの飛行機ターイム!」
『わぁ、あすと、はやいー! すごいー!』
明日人はさとみを抱きかかえて、部屋のあちこちへと走っていく。
さとみは両手を伸ばして、にこにことそれは嬉しそうだ。
さとみは先程の品子が怖かったので、しばらくは発声はせずに思念を使うという。
先程おこなわれた木津家会議にて、『さとみちゃんは発声は当分はしなくてよい』の議案に、品子とつぐみ以外の人達が賛成してしまったのだ。
つぐみとしては大変に無念だが、多数決により成立してしまったので仕方がない。
ちらりと品子を見て、再び料理に取り掛かりながら小さく呟く。
「先生。せめて今日のお吸い物は、他の人よりお麩を多めに入れておきます。ですのでどうか……」
そんな思いも知らず、品子は惟之達に叫んでいる。
「やだやだやだぁっ! 私も明日人みたいに、さとみちゃんと遊びたいんだよぉ!」
「小学生並みの駄々っ子だな。ヒイラギ、こんな大人にはなるなよ」
「もちろんです、惟之さん。しかしこれで二十七歳って……。品子、年相応って言葉を知るべきだよ、お前は」
男性陣二人の品子を見る目が、完全に可哀想な人を見る目になっていた。
そんな中でも品子は、さとみの方に向かおうとしているのだろう。
体をぐねぐねとさせながら、微妙な前進を続けているのをつぐみは見守ることしか出来ない。
寿司が届けば、きっと品子も解放されることだろう。
それまではどうか、諦めてそこに大人しく居てほしい。
そう願いながらコンロの火を切る。
「ぶんぶーん。飛びまーす」
『ぶんぶんぶー』
「あぁ、さとみちゃーん! こっちにぶんぶんぶーって飛んできておくれよー!」
……ひょっとしたら、お寿司が来ても無理かもしれない。
つぐみは惟之達に慈悲の心があるようにと静かに願いをかけるのだった。
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