第8話 ある路地で(アルオトコタチノハナシ)

 日も沈み、橙色だった空が追いやられてからしばらく。

 じわりとした暑さだけは置き去りにされ、肌を撫でる空気はねっとりとなめるように絡み付いてくる。

 それは夜になっても収まることもない。

 風もなく、ただ暑さを押し付けてくるように。

 夏の夜はそこに居る人間に対し、じわりとした汗を浮かび上がらせていく。


 そんな中、人気ひとけのない路地裏には三つの人影がある。

 暑さとは違う意味で体中から発汗し、息を荒く吐く存在がそこにはあった。


 二人の男と一人の女。


 それぞれの人物はひどく興奮した状態にある。

 ただし、それを起こしている原因は違った。

 そのうちの一人の男、中林なかばやしはこの状況をいたく楽しんでおり、口元には喜びの弧を描いている。

 同じく自分の隣にいるもう一人の男である山本やまもとも、女の様子を見やり嬉しそうだ。


 対して女の方は。

 青ざめた表情で自らの体をひしと抱きしめ、退路を塞いでいる自分達を怯えた表情で見上げている。

 女が着ているさらりとした生地の白いブラウス。

 そのボタンの一番上は引きちぎられ、今は中林の手の中にある。

 これはもういらない。

 そう考えた中林は、そのまま手のひらを広げボタンを地面へと落とした。

 かつんと一回、軽い音を立ててアスファルトに落ちたそれが転がっていくのを女の目が追っていく。

 ブラウスの下のタンクトップが、彼女の最後の砦といわんばかりに汗を吸って、ぴったりと密着している。


「服、ごめんなぁ。俺の服、貸してやろうか?」


 自分の着ているベージュと黒のシャツを、ぐっと引っ張りながら山本が女に言っている。

 その言葉に、女からの返事はない。

 目に涙を浮かべ怯えている女を、中林は袋小路へとじわじわと追いやっていく。

 行き止まりの己の背後と、目の前にいる自分達の向こう側にある逃げ道。

 それを交互に見つめる女の姿を眺め、中林はわらう。

 

「あぁ、どうしてそんな顔をするんだい。だって、お前が俺を誘ってここに来たんじゃないか」


 さらに一歩、女へと足を進めながら中林は話しかける。


「つまらない、本当につまらない毎日の繰り返し。そんな自分にあんたが、この路地で俺のことを待っていたんじゃないか」


 路地の前で中林と目が合った途端に、ふわりとこの女は柔らかく微笑んできたのだ。


 女はさらりと結んでいた髪をほどくと、中林を見つめてくる。

 自分が今まで見てきた、どの女も持ち合わせていない色香を漂わせて。


 その時、世界が止まったのではないか。

 そう思わせるほどの衝撃を受け、めまいすら中林は感じたものだ。

 そのまま女は、路地の奥へと一人で進んで行く。

 これはつまり、ついて来て欲しいと言っているのと同じ。


 そう理解した中林は、山本に目配せをすると女の後を追う。

 心得たもので山本もにやりと笑うと、自分の後ろに続く。

 二人は路地に入るやいなや走り出し、中林は追いついた女の肩に触れる。

 振り向いた女は、中林へと驚きの感情をみせてきた。


「そんな顔するなよ」


 にやりと笑うと中林は『いつも通り』に。

 相手の恐怖におびえる表情を楽しみながら、出会えた記念にと女の胸元を強く掴む。

「いやっ」と小さく叫ぶ声が響いた。

 手に触れるボタンの固さが鬱陶うっとうしいと言わんばかりに、中林はボタンを引き千切る。

 女の目に恐怖が映し出されていくのを、中林は満足そうに見守っていく。

 自分の中に押し寄せる感情を、こらえることもせず笑みとして解放し女へと語りかける。


「そうそう、こういうのが『つまらない毎日』からの解放だよ。大丈夫さ、姉ちゃん。今のお前の綺麗な姿、その写真を撮って俺達のことを誰にも言わないように約束したらさ。すぐに逃してやるよ」


 行き止まりにまで追いやられた女は、中林の言葉に反応がない。

 恐ろしさのあまり、声を出すことも放棄している。

 とうとう女はうつむいたまま、何も言わなくなっていた。


「さて、はじめようか?」


 中林は女の正面に立つと、あごを掴み上を向かせる。

 いい表情を見せてくれるかな。

 そう期待して見つめたその相手の顔に、中林の思考は止まってしまう。 


 女は無表情で自分を見つめていた。

 先程までの怯えた様子は消え去り、ただこちらを見ている姿。

 その状態に思わず怯んでしまったその一瞬。


 女はすぅと小さく息を吸った後、まるで礼でもするかのように。

 正面に立つ中林の胸をめがけ、勢いよく自身の頭を思い切り振り下ろした。

 直後に襲う胸の痛みに「があぁ」という声が中林の口から飛び出る。

 予想外の衝撃に中林は体が仰け反らせ、倒れそうになるのを何とか堪えようと右足を一歩うしろに引く。

 すると女はもう一方の前に出ていた中林の左足をかかとで思い切り踏みつけてきた。

 引き続く痛みに混乱して、中林は思わず痛みを訴え続けている左足も一歩さげる。

 それにより出来た空間をまるで喜ぶかのように、女は笑う。

 体をかがめて中林の腰に手を回すと、腹を狙って膝で鋭く蹴りを叩きこんできた。

 

 どうしてだ?

 次から次へと襲い来る痛みに、中林の頭の中にはその一言しか生まれてこない。

 女の行動に驚いた山本は情けない声を上げながら、やって来た道へと一人で逃げだしてしまっていた。

 女の動きに沿って流れるようにしなり動く、長い黒髪を見つめながら反撃を試みようと中林は相手の肩を掴んだ。

 女はピタリと動きを止め、中林を睨みつけてくる。


 互いに荒い息をつく。

 だが先程とは全く正反対の状況に、中林は女に強い眼差しを向ける。


「さっきまでは俺が楽しんでいたんだよ! たかが女相手に、こんなのはあり得ない!」


 ぐっと歯を食いしばり、女を壁に叩きつけてやろうと中林が腕に力を込めたその時。

 下から突き上げるように伸びてきた女の手が、中林の額をぐっと掴む。

 直後、女の後ろから風が吹いた。

 女はその風を受けながら、たった一言。


「動くな」

 

 そう呟いた。

 次の瞬間、中林は自身の体が全く動かないことに気付く。


「何だ? なんだなんだなんなんだこれは! どうして体が動かないんだよ!」


 動揺を隠しきれない中林の言葉に女は冷静に返す。


「弱者を狙ってさ。こんなことをして楽しいのかい?」


 女からの言葉に中林は逆上する。

 

「うるさい! うるさいんだよ! 女の癖に! 俺の体に何をした!」

「何をって? あなたの体に、お願いをしたのさ。『動かないでくれ』ってね」

「お願いってなんだよ! どうして言葉を口にしただけで、そんなことができるんだよ!」

 

 口から泡を飛ばしながら中林は叫ぶ。


「変なことしやがって! この化け物が!」

「変なこと、化け物ねぇ……。お前が私にしたことも、よっぽどだと思うんだが」


 小馬鹿にしたような相手の口調が、さらに中林をいらつかせる。

 涙とよだれで顔をべちゃべちゃにしながら、思いつく限りの言葉で女をののしり続ける。


「……もういいや。おまえ、いらない」


 一通り聞いた。

 そう言わんばかりに女は呟くと、再び中林の額を掴んだ。

 反射的に見た女の顔に、中林は今までに一度も感じたことの無い感情を。

 『戦慄せんりつ』と呼ぶであろうものが、自分の体を走り抜けていくのを自覚する。


「だっ、誰か助けて……」


 かすれた声しか出すことが出来ない緊張の中、女の後ろに気配を感じた中林は、そちらに目を向けて助けを請うた。

 

 顔を拭うことも叶わず、ぼんやりとしか見えない視界に一人の男が映る。

 背の高いその男は、中林の方へゆっくりと歩いてくる。

 かちりかちりとメガネのツルを折りたたむ音が中林の耳に届く。

 胸ポケットへとメガネを収める男を女が忌々いまいましげに見据えた。

 

「なんだよ。邪魔しないでくれる? お前の出番ではないんだけど」


 女の不満げな声。

 新たに来た相手が女の仲間だと知った中林は絶望する。

 そんな中林を見ながら、男はため息をつき口を開く。


「対象者に必要以上の恐怖や暴力を加えないで欲しい」


 男の言葉に中林は疑問を抱く。


「対象者? いったい、何のことだ?」


 混乱する中林に男が近づき、至近距離でその顔を見つめる。

 その男の目を見て中林は息をのんだ。

 彼の片目は、どうみても人の。

 人間の持っている色ではなかったからだ。


「ば、化け物どもがぁっ!」

 

 中林の叫び声を聞き、男は再び小さくため息をつく。

 

「驚かすつもりは無かった。……申し訳ない」


 そう言って男は目を伏せ、中林に背を向けるとスマホを取り出し電話をかける。

 中林の耳に、男が誰かに指示を出している声が聞こえてきた。


「あぁ、そのまま通りに沿って、うん。右に行ってくれ。……見えたか? そう、その男。ベージュと黒のボーダーのシャツを着た男が山本だよ。確保を頼む。中林は既に確保済だ」


 その電話の内容に。

 初対面である男が、自分達の名を『知っている』ことに震えながら中林は叫ぶ。

 

「おい! なんで俺の名を知っているんだ? それに山本までっ! 最初から俺達が狙いだったのか?」


 男に向かって叫んだにもかかわらず、中林の元にやって来たのは先程の女。

 そのまま中林の額に人差し指を当てると、低い声で呟く。


「もう、寝てろよ」


 言葉と共に風が吹いた。

 指が離れると同時に、中林のまぶたが急に重くなっていく。


「俺に何をした! お前らはいったい何者なんだ! こんなこと、普通の人間が出来ることじゃないだろう!」


 顔を上げた中林の目に映ったものは、ひどく冷たい目をした女。


「女なんぞは、大人しくこっちの話を聞いてりゃいいのによ……」


 そう言って睨みつけた中林に、女の手がぐっと伸びてくる。


「……らない、いらない、こいつやっぱいらない」


 馬鹿みたいに呟きながら、近づいてくる手。

 中林に届く寸前、女の後ろから伸びてきた華奢きゃしゃな手がそれを阻む。


「……落ち着いてください」


 限界を感じ目を閉じた中、中林に聞こえたのはどう考えても先程の男とは違う少女の声。


「らしくありません。冷静になってください」


 声に幼さを感じるのに、その言葉は随分と大人びた語り方だ。

 その声を聞いたのを最後に、中林の意識は途絶えた。



◇◇◇◇◇



 山本は走る。

 とにかく逃げるために。


 夜遅く、ましてやこのじっとりとした暑さのせいか周りに人の気配はない。

 少しでも先程の場所から離れよう。

 その一心で彼は走る。

 数十メートル先で明るく見えるのは大通りだ。

 そこまで行ったらタクシーでも拾って、とにかくここから逃げようと彼は足を進める。


 そんな彼の数メートル先に前に人が、突然に『現れた』。

 まるで魔法か瞬間移動でもしたかのように、唐突に人が現れたのだ。

 

「なっ、嘘だろ! 人なんてさっきまでそこにっ!」


 そう叫びながら、慌てて山本は立ち止まろうとする。

 だが勢いがついた足はそれを叶えてくれず、そのまま相手の方へと近づいて行く。

 急に速度を落とそうとしたために足がもつれ、山本はバランスを崩して転んでしまう。

 頬や腕が地面と擦れ合う、ちりちりとした痛みが襲う。

 顔をゆがめながら、あわてて山本は立ち上がる。

 とにかくこの気味の悪い奴から離れようと思い、その人物に背を向け走り出そうとしたその時。

 山本の体は唐突に何かが巻き付いた感覚を覚えると共に再び転倒していた。

 痛みによるものではなく、自分の体に起こっている様子に山本は叫び声を上げる。


「なんだっ! 何だよこれっ!」


 山本の体は紐状のもので、ぐるぐるとまるでミイラのように体を縛られていた。


「何だよ! この紐はどっから出てきたんだよ!」


 混乱して叫ぶ山本の真上から声が響く。


「山本の確保、完了」


 若い男の声が響き山本が見上げた先には、少年が立っていた。

 何より自分の名前を知られていることに、山本はひどく混乱する。

 さらに相手の手のひらを見て、山本は小さく悲鳴を上げてしまう。

 少年の手のひらは、どういうわけか青色の光を放っているではないか。


「一人でぶつぶつ言いやがって! その手の光は何だ! 気持ち悪い!」


 感情を爆発させて話す山本を、少年はじっと見下ろしてくる。

 その少年とは思えない冷徹な眼差しに、山本はぴたりと言葉を止める。


「……満足したか? おっさん。今から歯を食いしばっとけよ」


 そう言って少年は山本を担ぎ上げると、小さく息を吐いた。


 次の瞬間。

 山本の体は、ぐいっと後ろに引っ張られるように風を切る。

 彼の目に映る景色が、すさまじい速さで流れていく。

 少年は人を抱えているにもかかわらず、信じられない速度で道を駆け抜けていた。

 これは人間の出せる速さではない。

 気を失いそうになりながらも、山本は言われたままに歯を食いしばった。

 恐怖が勝り、思わず山本は目を閉じてしまう。

 自分の耳に届くのは、少年の足音と風の音だけ。

 信じてもいない神に祈りながら、一刻も早くこの状態から解放されたいと山本は願う。


 祈りが通じたのだろうか。

 再び体にがくんと抵抗を感じ、山本は思わず目を開けた。

 それにより少年が足を止めたのを理解する。

 この景色は最初の路地。

 女を襲った路地に戻って来ていることに山本は驚愕する。

 

「なんで! なんでここに来てるんだよ!」


 そう叫ぶ男を乱暴に下ろすと、少年は黙って数歩さがった。

 代わりに現れたのは、さきほど自分が襲った女と中学生くらいの少女。

 なんとか状況を。

 そう思い辺りを見た山本は、小さく悲鳴を上げてしまう。

 壁にもたれかかり、ぐったりとしている中林の姿を確認し山本は叫ぶ。


「こっ、殺したのか? 嫌だ、死にたくない!」


 助けを求めようと山本が再び口を開こうとした時、額に女の指が触れる。


「寝てて」


 声の後に山本の額に風が当たる。

 途端に襲い来る睡魔に、彼は抗うことができない。

 自分はこのまま殺されるのか。

 ならばせめて、最期くらいこんなことをした奴の顔を見てやる。

 歯ぎしりをしながら、山本が見上げた先には。

 先程の少年とその隣には少女。

 共に鋭い眼差しと、すっとした顔立ちが似ているところを見るに兄妹なのだろう。 

 街灯のぼんやりとした明かりに照らされた二人は、無表情で自分をみている。

 人でないような美しさをたたえた彼らは、まるで人形のようだ。


 そして自分の額に触れている女を睨みつける。

 山本が襲った当初にまとっていた怯えは消え、ただ疲れたような呆れたような表情を浮かべ、見下ろしているその女の姿に山本の口が小さく動く。

 

「化け物共め」


 そう呟き、山本は意識を手放した。 

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