第9話 人出品子
朝だ、ラジオ体操ではないが新しい朝が来た。
空は澄んだ青を余すことなく自分へと見せつけてくる。
しかしつぐみにとっては希望の朝だとはとても言えない。
昨晩から泣きすぎたせいで、つぐみの顔とまぶたはいつも以上に腫れていた。
だが講義をサボるほどのメンタルは持ち合わせていない。
重い体を布団からずるずると引きはがし、顔を洗うために洗面所へ向かう。
鏡で見る顔は、それはもうひどい
沙十美の言葉を思い返しては、狭い布団の中でゴロゴロと動き回ったため、髪はボサボサだ。
「あれ? ショートボブのこの髪でも、こんなにボサボサになるんだな。ここまでくると、ショートボブというよりショートボムじゃん」
こんなことを言える位までは、心の回復はしていると考える。
簡素に準備を終え、いつもより少し早めに学校へと向かう。
教室に入りぐるりと見渡せば、早めに着いたおかげでまだ沙十美は来ていないようだ。
「指定席の講義でなくてよかったよ」
呟きながら、そそくさと一番前の席に座ると机に突っ伏す。
沙十美が来ても、自分より後ろの席に座るだろう。
これで、目が合うこともない。
その為だけに、つぐみは早く来たのだ。
こんな腫れた顔を、彼女に見られたくない。
何より、まだ会う勇気が出ないのだ。
このまま講義が始まるのを待とうと、目を閉じ小さな闇を作る。
もう少しだけ顔の腫れと心が落ち着いたら、沙十美と話をしてみよう。
あんな喧嘩別れは、絶対に嫌だ。
淡い暗闇の中でつぐみが考えていると、頭に何か触れる感覚がくる。
ゆっくりと顔を上げれば、そこには沙十美がいた。
「ほ、ほえ?」
二度三度とまばたきをする。
そこでやっと目の前の現実と沙十美を認識し、
「あなたねぇ、『ほえ』って何よ」
呆れたように呟くと、彼女は隣に座った。
ふわりと広がる香水に、距離の近さを感じる。
つぐみは思わずドギマギとして、返答に
その様子を沙十美は、怯えていると勘違いしたようだ。
少し悲しそうにうつむき、小さな声で言う。
「そんなにビクビクしなくても大丈夫よ。……悪かったわね、昨日」
「え、ち、違うよ! 謝るのは違うよ! 私が何か、嫌な思いさせてしまったんでしょ? だから……」
言葉を遮るように、沙十美は小さな青い包みをつぐみの目の前に差し出した。
「これ、私とお揃い。着けてくれるでしょ?」
綺麗にラッピングされた包みを、そっとつぐみは受け取る。
「ここで、開けてもいい?」
その言葉に沙十美はうなずき、自分の右腕を上げた。
白く
嬉しさと信じられなさで、つぐみの心臓は大きく跳ねた。
包みから出したブレスレットは、確かに同じもの。
「これ昨日、買ってきたの。私なりに一生懸命選んだつもりよ。だ、だから。もちろん今、着けてくれるでって……。ええっ!」
沙十美が話している言葉の途中で、彼女を思いきり抱きしめる。
「ちょ、ちょっとつぐみ……」
「ありがとう、ありがとう。嬉しい、嬉しすぎてどうしたらいいかわからない」
「お、落ち着きなさい。周りの視線が恥ずかしいから!」
それでもつぐみは、沙十美から離れない。
もう少しだけ、沙十美から香る淡い香水の匂いに包まれていたい。
自分に触れている彼女が、幻ではないことを感じさせてほしい。
もう少しだけ、あともう少しだけ。
私と沙十美だけの、時間が欲しい。
そうつぐみは思うのだが、さすがに彼女の限界が来たようだ。
「お! ち! つ! け!」
一文字ずつ区切りながら、つぐみは押し返される。
「とにかく! よかったら着けて頂戴。私もしばらく、これを使っていくつもりだから」
「うん、うん!」
首がちぎれんばかりにつぐみがうなずくと、ようやく沙十美は笑った。
今ならば、昨日の喫茶店に誘えるではないか。
そう思ったつぐみは沙十美へと提案をする。
「あ、そうだ。沙十美! 昨日のタルトリベンジ行こうよ! このブレスレットのお礼もしたいし! 私、今日は早めに行って席を取るからさ! だから……」
「おーい、ここに千堂くんはいるか?」
入口に現れた女性が教室を見渡しながら、近くにいた生徒達に呼びかけている。
「あ、人出先生。おはようございます!」
数人の女生徒が、嬉しそうに周りに集まっていく。
選択科目でつぐみも受け持ってもらっているので見覚えがある。
無造作に束ねられた、ビロードのような美しい黒髪。
化粧も社会人のマナーだからするが、最低限で結構! が信条らしく、いつも薄化粧だ。
その分、資質が表れるというもの。
ライトグレーの涼し気なパンツスーツをさらりと着こなし、集まった生徒たちに微笑む姿。
凛とした顔立ちと女性らしからぬ話し方に、他の先生にはない魅力を感じると男女関係なく人気のある教師だ。
複数の生徒の視線が、つぐみ達に注がれる。
それに気づいた品子は、沙十美へと声を掛けてきた。
「お、いたいた。千堂君。すまないが、少し時間を貰いたい」
品子の手招きに沙十美は立ち上がる。
「ごめん、ちょっと行ってくるわ」
沙十美は足早に、入口の方に向かっていく。
つぐみは二人が並んで話しているのをぼんやりと眺める。
絵になるなというのが、第一印象だ。
現にほとんどの生徒が、二人を眺めている。
廊下から入る光を受け長身の品子が、真っ直ぐに沙十美を見つめ話している姿。
それはまるで、映画の一シーンにでもなりそうな光景だ。
対する沙十美も品子を少し上目遣いで見つめながら話しかけ、少し困ったようにうつむいて唇に手を当て考え込んでいる。
その姿の美しさに、そこだけ別世界になっているような感覚に皆もとらわれているようだ。
ほぅ、とつぐみの口から無意識にため息が出てしまう。
目の保養にはいい。
だが何というか、自分と彼女達のステージの違いを、ひしひしと感じてしまうのだ。
そう考えているつぐみを、二人がおもむろにみつめてくる。
さらにはそろって、にこりと笑いかけてくるではないか。
天使のほほえみとは、彼女達のことに違いない。
つぐみもつられて笑顔になりながらも、ふと気づくのだ。
いや、あれはにこりではない。
あれは、なにか企んでいる「にやり」であると。
沙十美の唇の端がプルプルと震えているのを、つぐみの目は捉える。
妙に嫌な予感が、頭の中で甲高い警報音を響かせはじめた。
心なしか彼女らの後ろで小さな七人の天使達が、ラッパを構えて吹く準備をしているようにすら見える。
「さ、さて。講義の予習を、しなければならないなぁ」
上ずった声で、すべき行動を口にする。
おどおどした手つきで筆箱を開け、前を見据えたその時だ。
「おーい、冬野! お前も招集な!」
それからすぐにつぐみは、天使の顔をした二人に抵抗むなしく廊下に連行されることとなるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます