第82話 冬野つぐみはおもう

「はい、コーヒー。私のとっておきを一本あげるから飲みなさい」

「……ありがとうございます」


 ひんやりとした缶コーヒーが、手に心地いい。

 つぐみはふたを開けて一口飲む。

 

 甘い。

 とてつもなく甘い。

 コーヒーはここまで濃厚に甘くできるものなのか。

 衝撃的な味に言葉を失う。

 

「美味しいでしょ? それ」


 満面の笑みで信じられないことを聞いてくる品子に、どう返したらいいかとつぐみは悩む。


「ええと、これ甘す、……はい」


 何だかこの笑顔を、否定してはいけないような気がするのだ。

 気まずさも一緒に飲み込むかのように、つぐみはコーヒーを再び口にする。


「さて、今後の話をさせてもらうよ」


 品子からは笑顔が消え、真剣な表情へと変わる。


「奥戸はもういない。今後このような行方不明者が出ることを、君が止めてくれたんだ。本当にありがとう」


 表情をゆるめ、品子がふわりとつぐみに微笑んでくる。


「次に千堂君の件。彼女に限らずなんだけど、この件の行方不明者は事実を公に出来ないんだ。なので、そのまま行方不明扱いになると思う。彼女の場合、私が友人達に調査のために関わってしまったからね。表向きはそのまま病気が悪化し、退学して療養という形になるだろう」

「そうですか。……あの、沙十美のご家族には?」


 問いかけに少しうつむきながら品子は答える。


「そのまま行方不明の扱いになる。ご家族からの連絡で警察に届が来るまでは、こちらからは特に何もしない。警察に連絡が来た時点で私の組織が、『少しだけ介入』することになる」


 品子の言葉にチクリと胸が痛む。


「そして君のこれからについて。今回の件でとても危険な目に遭わせてしまった。今後はこのようなことがあってはならない。だから君は、今後は私達との関りを絶つべきだと考える」


 品子はソファーから立ち上がり、つぐみの正面へとやってきた。

 そっとつぐみの頭へと手を伸ばし、優しく撫ではじめる。


「今まで本当にありがとう。こんな言葉でしか私は君に感謝を伝えられないのが。……とても、もどかしいよ」


 品子が優しく触れている感覚。

 つぐみはその心地良さに、目を閉じ浸っていく。


「でも、先生。私は……」

「私の、……私の発動能力は」


 つぐみの言葉を遮り、品子は続ける。


「相手の記憶を、操り消すことができる能力。この発動をもって今から私達に関する記憶を消させてもらう。君の意思に関係なくだ」


 つぐみは目を開き、品子を見上げていく。


「きっと嫌だと言うのもわかっているよ。でも私達に関わるせいで。その為に君の心が傷ついていくのは、私達の本意ではない」


 わかってはいる。

 これは自分を思ってくれるからこその選択なのだと。

 そう、だからこそ……。


「そしてこれは、千堂君からの伝言だ。巻き込んで済まないと。君は千堂君の望みである平穏な日常に戻るべきなんだよ」


 皆の、優しいからこその選択。

 ならば自分はその気持ちを受け入れるべきであろう。

 つぐみは品子を見つめ小さくうなずいた。


「もしも、ヒイラギ達に何か伝えたいことがあれば、今のうちに聞かせてくれるかい?」

「伝えたいこと、……ですか」


 一緒に過ごした時は、本当に短い時間だった。

 けれども今、つぐみの頭の中に巡る思いは。

 彼らと出会い、話し、自分を知ってくれたことに対する感謝。

 つぐみを助けるために自らの命をも削り、守ろうとしてくれたこと。

 どれも自分にとっては、今までに決して知ることのなかったものだ。


 それを言いたいと思うのに。

 どうしたというのだろう。

 それを伝える言葉が、今のつぐみの口からは表せない。

 言葉にしようとすると、全てが軽くなってしまいそうなのだ。

 困って品子を見つめたその時、つぐみはシヤのハンカチのことを思い出した。


「先生。私、シヤちゃんにハンカチを返してないんですが」

「あぁ、そうだったね。……どうしたものか」

「……ごめんなさい。いいです、このままで。先生から渡しておいてもらえますか?」


 シヤの顔を見たら、きっと消されるのが嫌だという気持ちが勝ってしまう。

 そんなわがままで品子を困らせたくはない。

 そう考えたつぐみは小さく笑ってみせる。

 その表情で気持ちを知られてしまったのだろう。

 品子も少し寂し気な笑顔をつぐみへと向け口を開いた。


「わかった。必ず渡すからね」

「あと、皆に伝えてください。今まで私を必要としてくれてありがとうと。嬉しかったんです。今までは、人に求められるということがあまりなかったので」


 ……家族は、してくれなかったから。

 品子には言えない言葉を、つぐみは胸にしまう。

 代わりに伝えたい思いをつぐみは語り始めていく。


「本当に嬉しかったんです。皆からはたくさんの優しさを教えてもらいました。自分を必要としてくれる人がいるのだと。求められるという幸せを知ることが出来ました」


 今からようやく知れたそれらを、手放さなければいけない自分。

 それを思うとつぐみは、涙がこぼれるのを止められない。

 恥ずかしい気持ちもあるが、もうじき自分の記憶は消えてしまうのだ。

 ならば今は素直な気持ちでいてもいいではないか。

 それもありつぐみは、品子へと聞いてみたかった思いを尋ねてみる。


「あと、先生に聞きたいことがあります」

「何だい? 私で答えられるのならば何でも」

「今、先生の発動の力を教えてくれたこと。これは私のことを信頼してくれたからと思ってもいいですか?」

「……あぁ、もちろんそうだよ」


 優しく。

 とても優しく、品子は笑っていた。


「君の記憶は無くなってしまうけど、知っておいて欲しかった。どうも私は、君のことになると矛盾だらけになってしまうね。本当に、一緒に居られた時間はとても楽しかったんだ。……とても大切だったんだよ」


 嬉しいという感情がつぐみを包む。

 品子から大切と思われることが、こんなに心がふわふわとするものなんて。

 もっと、もっと早く知りたかった。

 なによりこの気持ちを失わずにいたかった。

 今だけしか覚えていられない儚い幸せを抱え、つぐみは続けて問うていく。


「もう一つ。私がこんな泣き虫ではなくて、先程みたいに取り乱さないしっかりとした子だったなら。これからも一緒にいられたのでしょうか?」


 品子は少し考えてから答える。


「うーん。わかんない。だって私は今の君しか知らないし。でもなぁ……」


 品子のとても悩んでいる様子に、おかしくなったつぐみは思わず笑ってしまう。


「えー、酷いなぁ。君の質問で、私がこんなに悩んでいるのに」

「あはは、すみません。先生の優しさが嬉しくて」


 つぐみの言葉に品子は、悲しそうな顔を見せる。


「違うよ。優しくなんかないんだ。これは優しさをまとった、ただの残忍なエゴだ。君が望んでいないことをしようとする、ただの、……身勝手でしかないのだよ」

「でもその身勝手は、私を思っての身勝手。ってあれ、よくわからなくなってきました。えーっと」


 上手くまとまらない気持ち。

 どうやったら伝えられるだろう。

 残された短く大切な時間。

 その中でつぐみは考える。


 ……そうだ!

 答えが出たつぐみは品子に尋ねる。


「もしも記憶を失くした明日からの私が、先生達に相応しい成長をしていたら。その時は私を連れていって下さいますか? 私は皆と一緒にいきたいのです」

「……そうだね、約束するよ。だから」


 品子はつぐみの頭に、そっと手のひらを乗せる。


「私達の事は全て忘れて、……少し休みなさい」


 ふわりと風が吹いた。


 頭がぼんやりして、何も考えられない。

 とても眠い。

 本当は、目を閉じたくないんだけどな。

 本当は、忘れたくないんだけどな。

 本当はもっともっと、皆の役に立ちたかったんだけどな。


 本当は。

 本当の私は……。

 頭に浮かぶのは皆の顔。

 たくさん話した言葉。

 ぐるぐると回る思い出を私は今、手放していく。


 さようなら。

 ありがとう。


 ――私のとてもとても大切な、愛おしい記憶。

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