第76話 人出品子と室映士の場合
奥戸の店から現れた男を見て、品子の口からは渇いた笑いがこぼれた。
(おいおい、あんたいつの間に店にいたんだ。いたならそう言ってくれよ)
そう思いながら、逃げ出しそうになる足を何とか止める。
いま下手に動けば、相手にこちらを見てくれと言っているようなものだ。
「ははっ、惟之も気絶なんかしてないで、ちゃんと私に言えよ。そうしたらこんなところに居ないで、さっさと撤収していたよ」
かすれた声でそう呟くと、品子は胸に手を当てて心を落ち着かせていく。
わずかであろうが動揺をしないように。
相手が少しでも不審を抱かないように、自分はふるまう必要がある。
十年前にマキエの命を奪い、惟之の片目を奪った男。
落月の上級発動者、
彼が自分を白日の人間と認識しているか。
まずはこれを知るべきだと品子は考える。
今まで互いに一度も面識はない。
知らなければ、そのまま彼がここを去るのを待つだけ。
もしも、そうでなかったら。
(――死ぬな、私)
さも日陰を探しているようなふりをして、皆のいるビルから品子は離れていく。
手に持っていたペットボトルを開け、心を落ち着かせるために目を閉じるとそのまま一気に水を飲み続ける。
閉じた品子のまぶたに浮かびあがるのはつぐみの姿。
ある程度、飲み終えたところでため息と共に目を閉じたまま口を離す。
明日人はどこまで彼女を診てくれるのだろう。
出来ることなら助かってほしい。
そう願いながら品子は、少し前に彼女と交わした会話を思い出す。
『はい、早く帰ってきてください。待ってますから』
『もちろんだよ~。では! ちゃちゃっとお片づけ行ってきまーす!』
へらりと笑って出て行く自分の姿を思い出して、ふとある考えを口にしてみる。
「……あれ? 彼女とのこの会話ってさ、死亡フラグってやつ?」
ぞわりと皮膚の上を悪寒が走る。
反射的に一歩さがり、品子はペットボトルを思い切り真下へと振り下ろした。
その手に伝わってくるのは、何かに当たる振動。
開いていた飲み口から水が。
いや、そこからではなくペットボトル自体から水が飛び散っていく。
広がる水の合間から見えるのは室の姿。
「ぐっ、……いつの間に、こんなに近くに来た?」
水とペットボトルの破片が体に当たるのを感じながら、品子は左足を曲げ右足を前に真っ直ぐ伸ばすと相手に向かい蹴りを放つ。
直後、品子の右足の太腿に激痛が走る。
歯をくいしばりながら見た自分の太腿は、室の肘と膝でがっちりと挟み込まれているではないか。
とっさに割られたペットボトルを、室に向けて再び強く振り抜く。
ペットボトル越しに、一度目ほどではないが何かに当たった軽い振動が手に伝わる。
室の顔を掠めたペットボトルは彼の拳により弾かれ、そのまま室は足音も立てることなく後ろへと下がっていく。
距離が開きほっとしたのもつかの間、品子の体からは冷や汗が吹き出してくる。
これは痛みからなのか、この状況の為なのか。
たった一撃で、相手と自分との力の違いを品子は見せつけられていた。
これだけ実力差があるとなると、もはや自分の力ではもうどうしようもない。
次の行動をどうすべきかと品子は考えていく。
右足は、動かない。
どれだけ左足で立っていられるか。
動揺をさらさぬよう、拳を強く握ると品子は室へと話しかけた。
「初対面の女性へのアプローチにしては、随分と強気なリードの仕方ではなくて? 落月上級発動者の室さん?」
室は自分の顔に触れ、品子が付けた傷の具合を確認している。
「少なくとも私の知る限りの話だが。初対面で
ちらりと見えた、相手の手のひらから手首にかけて描かれた赤い線のような傷。
彼の目的は白日に正体を知られた奥戸の後始末だったと、品子は傷を見て理解する。
「ひょっとしなくても、奥戸さんと楽しく過ごしてきた後だったのかしら? だったら、その手の傷の治療もあるでしょう。そのままお帰り頂いた方がよろしいのではなくて?」
「そうしたいところではある。正直なところまだ奥戸の置き土産が結構、響いているからな」
奥戸は室に、何かしらのダメージを与えたようだ。
だが、チャンスとは品子にはとても思えない。
ダメージを受けて、彼はこの動きなのだから。
「やつが、取りこぼしてしまった案件がある」
室は胸ポケットから、ステンレスのシガレットケースのようなものを取り出す。
そして中から黒い水の入ったガラス瓶を取り出すと、中の液体を一気に飲み干した。
「さて、仕切り直しだ。お前に聞きたいことがある。冬野つぐみという女性はどこだ?」
◇◇◇◇◇
「冬野つぐみという女性はどこだ?」
それは品子を動揺させるのには十分な言葉だった。
奥戸は室につぐみの存在を伝えていたのだ。
まずいことになった。
落月に彼女の存在を知られてしまうとは。
ましてあの子は、今回の事件の目撃者なのだ。
とても落月がそのまま見逃すとは思えない。
動揺をみせぬよう、すぐさま笑みを室に見せながら品子は思考を続けていく。
まずは室が奥戸にどこまで聞いているのかを確認すべきだ。
「その女性を、どうして私が知っていると?」
「……奥戸から、白日にその女性を連れていかれたと聞いている」
「なるほどね。確かに彼女は今、我々が保護している。だが、奥戸の毒でかなり衰弱している。いつまでもつか」
室がつぐみやヒイラギ達を見つけ出し、向かうのは時間の問題だと品子は悟る。
サポート能力しか持っていない彼らを片付けるのは、彼にとってたやすいこと。
奥戸の与えたダメージも、先程の黒い水で回復しているのもその動きから把握できる。
――ならば、自分が出来ることは。
「冬野つぐみの件を知っているのは今の所、あなたと奥戸だけなのか?」
「なぜそれを聞く必要がある。そしてお前に私が答えるとでも?」
「……私の名は人出品子。
どのみちこのままだと皆、殺される。
かつて何度も読んだ、マキエの事件の報告書。
その中での生存者からの証言。
あれが正しければ、まだ道はある。
一つの決意を胸に品子は髪をほどいた。
しなやかな黒髪が風に乗って、静かになびいていく。
今からの行動、何一つとして失敗するわけにはいかない。
両膝をつけた状態でゆっくりと彼女は両足を曲げる。
右足からは、とてつもない痛みが品子を襲う。
だが構わずに続け、やがて品子は正座の姿勢をとる。
真っ直ぐに室の顔を見上げた品子は、その決意を、言葉を語っていく。
「冬野つぐみは、本人の自覚はなく私達が利用していた。彼女は白日のことは何も知らない。ただの一般人だ。……もしも。もしもあなたしか、彼女の存在を知りえていないのならば」
痛みがひどい。
ともすれば情けない声が出てしまいそうだ。
だが、それは決して見せまいと品子はふるまう。
「どうか、彼女を見逃してほしい。代償は、……私の命を
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