愛は不倫より出て不倫より純なり

鳥谷綾斗(とやあやと)

愛は不倫より出て不倫より純なり

 唇が離れた瞬間、熱い吐息が漏れる。明美あけみはわざと咎めるような目で、上木うえきを睨んだ。


「もう……資料の整理をするって言って出てきたのに、こんなことするなんて。バリバリ働いてる部下に悪いと思わないの、課長さん?」

 口をとがらせて、乱れた服装を整える。上木が耳に心地よい甘い声音で「ごめんごめん」と謝り、閉めきっていたカーテンを開けた。

 途端に周囲が明るくなる。スチール棚に大量のファイルケースや紙の束が詰め込まれたここは、明美と上木が働く会社内の資料室だ。しかし古いものばかりなので、ほとんど人は寄りつかない。

 だからここは、絶好の場所だった。

 明美と上木の、禁断の愛の逢瀬に。


「でも明美は、いつものホテルよりこの資料室の方が好きだろう? 興奮しちゃって、心臓の音がうるさいくらいだったぞ?」

「もし誰かが来たらってヒヤヒヤしてたの! いくらあなたでもバレたら終わりなのよ?」


 明美は、上木の左手の薬指にある指輪を見やった。


「不倫なんて……」


 その言葉を使う時、明美の胸はいつもひどく痛んだ。字面からして嫌な言葉だ。まるで悪いことをしているかのよう。

 ――私は悪いことなんてしていない。ただ、人を愛しただけ。


「俺は誰かに見られても構わないけどな」

 上木が明美の肩を引き寄せて、ゆるく巻いた髪にキスする。

「明美は俺のものだって、会社中に知らしめたい」

 きゅううん、と明美の胸が高鳴った。甘い言葉もだが、間近にある上木の顔のせいでときめきが止まらなくなった。

 三十歳の明美より十歳上の四十歳だが、肌にはツヤがあり、シワもシミも少ない。瞳は少年のように輝き、髪型も若々しい。明美にとっては芸能人ばりのイケメンだ。

 上木はこのルックスと、上司の受けのよさ、部下の面倒見のよさで、総務部システム課きっての人気者である。そんな素敵な人が私の恋人なんて、と明美はいつも思う。


「知らないだろうけど、明美を狙ってる男は多いんだ。少し地味だけど真面目で思いやりがあって、なんだかんだ言って男はやさしい女が好きなんだよ」

 誉められて、明美の心があたたかくなる。

 真面目なだけが取り柄の自分なのに。もう一度抱きつこうとしたが、上木が立ち上がる。

「そろそろ戻るか。早くしないとマズい」

 就業中だが閑散期なので、「昔の資料の整理をしてくる」と言って二人で抜け出してきたのだ。入室した瞬間からお互いを求め合ったので、この大量の紙には手すらつけてない。が、どうせ使わないものばかりだから問題ないだろう。

 ネクタイを締めた上木がドアの施錠を解いた時、


「――ねぇ、いつ奥さんと別れてくれるの?」


 無意識でそう言ってしまった。しまった。これは愛する人を困らせてしまう言葉だ。けれど、この秘密の関係を始めてから三年、「妻とは離婚する」と彼が言ってから一年だ。最近の明美は少々焦れていた。

 上木が微笑んで、

「そんな質問させてごめんな。まだ時間はかかるが、必ず別れるから……待っててくれ」

 優しい返答に切なくなった。涙がにじむ。

「私、きっといい奥さんになるわ。娘さんとも仲良くして、いいお母さんになれると思う」

「そうだな。あいつなんかより、明美が母親になった方が娘の……アンジュのためにもいいだろうな。あいつ、母親のくせに仕事仕事で全然家にいないし、家事も手抜きだし」

 落ち込んだ気持ちが少し浮上した。

 上木の口から妻の愚痴が出ると、胸がスッとする。

「週末、アンジュのピアノの発表会なんだけど、ふたりで出かけるのは気が重いよ。行きたくない」

「そんなこと言わないであげて。娘さん、パパが来たらきっと喜ぶわ。ちゃんと家族サービスしてあげて」

 明美はことさら明るく振る舞った。寂しさを隠して。

「いつもどおり、週末は電話もLINEもできないけど。明美は何か予定あるのか?」

「友達の家で、DVD鑑賞会するの。朝から集まってドラマの一気見。佳波かなみ美智恵みちえ、あと後輩のえりちゃんとね」

 数年前に大ヒットした連続ドラマのタイトルを挙げた。

「不倫ものじゃないか」

「そうよ。皮肉でしょ」

 ふふっと笑った。正直言って、明美は不倫を扱った物語が嫌いだった。けれど。


「たまには女友達に付き合ってあげないとね。友情は大事にしなきゃ」



 気乗りしないまま、土曜日を迎えた。

 女だけの不倫ドラマ鑑賞会は、佳波のマンションで開かれることになった。佳波は映画鑑賞が趣味で、家にホームシアターがある。

「結婚して引っ越す時に荷物にならない?」と明美が訊くと、佳波は「結婚しないから」とクールに答えた。

 佳波はいつもこんな調子だ。我が道を行くタイプで、仕事はできるが、常に妙な壁を感じる。こんな風に休日に会うことも両手で数えるほどで、だから今日の誘いが来た時は少しばかり驚いた。

 場所提供のお礼として、飲食物は各々持ち寄った。大酒飲みの美智恵はワインを、後輩のえり香はいろんな味つけのカラフルなポップコーンを、明美は生ハムとチーズのセットを持ってきた。

 朝からきゃあきゃあ騒ぎながら準備をして、薄暗い中、大画面で全十話のドラマを楽しむ。ワインを飲む音、ポップコーンを漁る音、生ハムに舌鼓を打つ音、そして時々濃厚なラブシーンに黄色い声を上げる。

 最終回が終わると、身体がバキバキになっていた。


「あー、なんかすごい達成感!」

 ワインの残りを全部グラスに注いで、美智恵が一気に呷る。

「タク様、かっこよかったです~! 観てよかった。佳波先輩、誘ってくれてありがとうございました!」

 えり香は頬を両手で挟み、興奮した面持ちで礼を言った。『タク様』は主演俳優の愛称である。

「喜んでもらえてよかったわ。この俳優さん、いま大ブレイク中なのよね?」

「そーなんです! 私も最近ファンになって、昔の作品も観たいなって思ってたんです!」

「いい役者さんよね。この頃から光ってたわ」


 各自が感想を口々に言うのを、明美はワインをちびちび飲んで聞いていた。不倫ドラマを大いに楽しんだようで何よりだ。

 内容は、独身のヒロインが既婚者の男性上司と職場不倫をする様を描いた、ベタなメロドラマだ。明美と同じシチュエーションだが、脚本や演出がどことなく昭和のトレンディドラマを思わせる古くささだった。途中から退屈になり、何度か居眠りをした。


(……みんな、不倫ドラマは好きなくせにさ)

 決して口には出さない不満が鎌首をもたげる。

 不倫は悪いこと、犯罪同然だというのが世間一般の意見だ。

 それは不倫をした芸能人の凋落ぶりを見れば分かる。離婚の裁判でも、不貞行為は不利になる。

 親の仇のように不倫を憎み差別するくせに、イケメン俳優と美人女優が演じるドラマは絶賛する。

 何なんだそれは。その大きな矛盾に吐き気を覚える。だから明美は不倫ものが嫌いだった。


(ま、同じ不倫でも、私のはあんな自分に酔ったオママゴトじゃないから)


 純愛。

 そう、不倫だとしても明美と上木の間にあるものは純愛だ。

 運命が少し意地悪して、タイミングがズレてしまっただけの。


 女友達は、なおも不倫ドラマで盛り上がる。

「久しぶりにドキドキした。あたしも不倫したーい!」

「私もタク様とならしたいです!」

 美智恵とえり香の欲望全開の戯れ言に、冷笑が浮かぶ。

(たかがドラマでこんなにはしゃぐなんて。アラサーにもなってガキっぽいんだから……)


「ねえ、明美は誰がいいと思う?」

「えっ?」


 唐突に美智恵から話を振られて、ワインをこぼしそうになった。

「だからぁ、もしうちの課で不倫するなら、誰がいいって話!」

「ああ、って何それ? 不倫したいの?」

 やめときなさいよ、大人にしか耐えられないわよ不倫の苦労は――と言外に含ませる。

「まっさか。たとえばの話よ。あたしなら大塚おおつかくんかな。年下だけど」

「大塚くんは超がつくほどの愛妻家でイクメンだからダメですよ! 私同期ですけど、奥さんとお子さんの話ばっかりします」

「あー残念。でも、そういうのいいよね。じゃあやっぱり、――上木課長かな?」


 ドキッと明美の心臓が跳ねる。


「他の部署で人気ですよね。スマートな大人の男だって言われて」

「結婚してなかったら、社内一のモテ男だったでしょうね」

 DVDディスクをパッケージに戻しながら佳波が言った。いつもクールで、男になんか興味ありませんといった態度の佳波が言うのが意外で、驚いてしまった。この冷めきった女にそんな感情があるとは。それと同時に、嬉しさで勝手に頬が緩んだ。

(やっぱり、あの人は魅力的なんだ……)

 そんな男に愛されているという事実が、明美の女の部分をくすぐる。もっと彼への褒め言葉を促そうとした時だった。


「――まあでも、ドラマや映画ならともかく、リアルで不倫してるやつはクズだけどね」


 DVDをレンタル用バッグに入れた佳波が、抑揚なく言い捨てた。

 明美の思考が、一瞬、固まる。

 場の雰囲気も凍った、かと思いきや。


「何言ってんの。そんなの当たり前じゃーん!」

「そうですよー。不倫なんて人として終わってる最低の行為じゃないですか!」

「ゲスの中のゲスよね、結婚してる男も独身の女も!」


 美智恵とえり香が賛同して、あっはっは、と大笑いする。


 クズ。人として終わっている。最低。ゲス。


(――なんでそこまで言われなきゃなんないのよ!)

 腹の底がカッと熱くなった。明美は努めて冷静を装って、さっきまで不倫で大はしゃぎしていた連中に向き直る。

「ふ、不倫でも、仕方がないケースとかあるんじゃない? ほら、好きになった人がたまたま既婚者だったとか」


 言いながら、頭の中で回想が流れた。


 明美が上木と初めて出会ったのは、派遣の採用面接だった。

 緊張のあまり気絶しそうだった明美を、上木がウェットに富んだジョーク混じりの会話でリラックスさせてくれた。

 ――なんて素敵な人だろう。

 そう思った。

 一目惚れだった。

 採用された時は飛び上がって喜んだ。

 けれど入社した当日に、上木が既婚者だと知ってしまった。

 それでも。


「それでも諦めきれない想いって、あるの。……じゃなくて、あると思うのよ!」

「いや既婚者の時点で恋人候補から外すでしょ。まともな常識のある大人なら」


 美智恵が、少し充血した目をこちらに向けて言った。

「常識っていうより、他人に対する優しさじゃないですかね?」

「好きな人とやらに奥さんや子どもを裏切らせて、蔑ろにさせるわけだしね」

 えり香と佳波が追い打ちをかける。

「自分のことしか考えてない、クズじゃん」


 三人が声をそろえて放った言葉は、ぐさっと明美の胸に刺さった――が。


「でも、諦めようにも、相手も自分のことを好きだと言ってくれたら? すごく好きな人が求めてくれたらさ、やっぱり拒めないものじゃない?」


 再び回想が始まる。

 一度は、明美も上木への想いを断ち切ろうとした。

 だが彼は、そんな明美を特別扱いした。

 接待や出張に同伴させたり、普段もちょっとしたミスを庇ってくれたり、理不尽な上司の横暴からそれとなく守ってくれた。


 ――「君は少し放っておけないな。俺の目の届くところにいろよ」


 そう言って頭をぽんぽんされた後、切なくて苦しくて、思わず後ろから抱きついた。


 ――「どうして私にだけ、そんな優しくしてくれるんですか」

 ――「そんな風にされたら、私、上木課長のこと諦められません」


 涙声で訴えると、上木が振り向いて明美を抱きしめた。そしてキスをひとつ落として、


 ――「分からないか……?」


 その時の上木の、切なげな表情。

 熱のこもった眼差し。

 言葉にせずともすべて分かった。その後、誰もいないオフィスでふたりは身も心も結ばれた――。


「いや既婚者の分際でなに他の女に手ぇ出してるのよ。下半身のマリオネットか」


 佳波がズバッと言い切った。海外映画を好むせいか、佳波の言い回しは独特で皮肉っぽい。

 美智恵とえり香が「妻をバカにしてるとしか思えない」と同意する。

 明美はとっさに、

「でもでも、奥さんと不仲だったら? ダメ妻だったら?」

「ダメ妻? 家事育児しない系?」

 少し考える。上木の妻は『手抜き』なだけで、してはいるはずだ。

「でも不倫する夫って、たいてい奥さんに家事育児丸投げしますよね」

「そもそも家庭に関心がないのよ。その身につけてるシャツや靴下や下着は誰が用意してるのかしら。家が住める状態なのも、子どもがすくすくと育ってるのも誰のおかげなのかしらね。まさか妖精さんが寝てるうちにやっているとでも?」


 佳波がハッと鼻で笑った。


「そんな頑張っている妻を裏切って、自分は他の女とヨロシクやるとか、おいしいところだけつまみ食いしたいだけじゃない。猿以下よ」

「子どもが可哀想ですよね……」

「絶対に懐かないわね。で、それも妻のせいにするの。赤ちゃんの時も『やっぱりママがいいって』って抜かしてすぐ抱っこ代わろうとするパターン」


 猿の方がよっぽど子育てをしている。


 という佳波のパンチの効いた言葉が、明美の胸にぐさぐさっと刺さる。

 息も絶え絶えに、それでも明美は反論した。


「でも……奥さんや自分の子どもを裏切ってまで貫きたい想いってあると思」

「いや貫くほど強い想いなら、とっとと離婚してると思いまーす」


 明美の言葉を遮るようにして、えり香が手を上げて宣言、否、断言した。


「離婚するっつって何年も待たせてるなら、確実にピロートーク兼その場しのぎのでまかせよ」

「フツー重荷を負わせようとするぅ? 愛する人にさぁ」

「結局、愛人女に責任をとるつもりなんてゼロで、ただ遊びたいだけ――」


 ガタン!


 今度はえり香が言い終わらないうちに、明美が立ち上がって遮った。

 頭の中が茹だっていた。灼熱の怒りで目の前がチカチカする。

(違う、違う、違う!)


 遊びじゃない。

 だってあの人は、私を愛してるって。

 妻より私の方がいい女だって。

 こんなに愛せて、甘えられるのは私だけだって、馴染みのホテルや資料室でいつも言ってくれた。


 耳まで真っ赤なのが自分でも分かる。けれど声を荒らげるわけにはいかない。というか頭がぐちゃぐちゃで、何をどう言えばいいのか分からなかった。


「倫理観とか常識とか……分かるけど、そういうの全部吹っ飛んで、ただひたすら相手を求める……そういうのが『真実の愛』なんじゃないの……?」


 声が勝手に震える。


「あんたたちは軽々しく否定するけどさ、それって、本当に人を好きになったことがないから分かんないのよ……」


 涙をこらえるのに必死だった。

(なんでここまで好き勝手に、関係のない赤の他人にボロクソ言われなきゃいけないの)

 私がどんな想いで、この三年間、この愛を守ってきたと思うの。

 どれだけつらかったことか。夏もクリスマスも年末年始もカップルのイベントに行けず、女子会で恋バナをしても仲間に入れず、田舎の両親に「いい人はいないの?」と言われるたびに必死でごまかして。

 何でもない日だって、あの人の薬指の指輪が誇らしげに光るのを見るたびに、明美の心は傷ついた。

 それでも耐えてこられたのは、


「あんたたちは、本当に人を好きになったことなんてないのよ!」


 あの人を愛していたかr

「いや、人を傷つけて社会の迷惑になる愛なんていらないし」


 感極まる明美に、美智恵が手を振ってあっさりと否定した。パンパンに膨らんだ風船の表面にセロテープを貼って、針を刺して空気を抜くような調子で。


「そんなのが『真実の愛』なら、ゴミの日に捨てるべきだわ」

「今時ならフリマアプリで売れそうですけどね、『真実の愛』!」

 佳波とえり香は、もはや興味なさげにポップコーンの残りをボリボリ食べていた。

「そもそもさ、不倫なんかしたって意味ないって。両親に紹介できないわ、堂々とデートもできないわ。できるとしたら夜のアレソレだけじゃない?」

 ぐさぐさぐさっ、と言葉の刃が明美の胸に刺さる。図星だった。

「つまらない付き合いね。お互いの趣味とか知らなさそう」

 ぐさぐさぐさぐさっ、となおも突き刺さる。

 確かに、向こうは明美の趣味がハーバリウム作りなことを知らない。というか興味がない。「これ、新しい作品なの」と自信作のハーバリウムの写真を見せても、「ふーん」で終わって服を脱がせてきた。ちなみに明美は、上木の趣味は何かと尋ねられたら、「たぶんゴルフ」と答える。

 えり香が新しいフレーバーのポップコーンを開けて、言い切った。

「仮に略奪婚が成功したとしても、不倫男は何度でも不倫するものですし。何年かしたら別の若い女に走られて、因果応報食らいますって」


 ぐさっ――以下略。もはや明美は瀕死の重傷、虫の息だった。足から力が抜けて、床に膝をつく。


 しばらくの間、沈黙が場を支配した。

 やがて美智恵が、

「さっ、つまんない不倫談義は終わりにして、なんかデリバリー頼もー。あたし二本目のワイン出してくる!」

 佳波とえり香が賛成する。そして明美は、

「明美、どこ行くの?」

「ちょっと……外で電話してくる」

 スマホだけ持って部屋から出る。

 玄関から外に出る寸前に、


「ところでさ、『リアルの不倫は叩くのに、不倫ものドラマが人気なのは矛盾だ』って言うやついるけど、現実と創作の区別ついてなくてヤバいよねー」


 あっはっは、と三人の笑い声が聞こえてきたが、もう突き刺さることはなかった。


 異様に心が静かで、凪いでいた。

 早足でひとけのない階段まで行き、隠れるように電話をかける。

 スマホの画面に上木の電話番号と、『♡だぁりん♡』という登録名が表示される。

 散々待たされた後、上木が出た。

 甘くて素敵な声が聞こえた。だが何故だろう、なんだか『その辺にいるおじさんの声』に感じる。


 ときめきが、生まれなかった。

 たぶんもう二度と生まれない――確信に近い予感が、そこにあった。


『明美か? おまえ何考えてるんだよ。週末は連絡しない約束だろ? 嫁にバレたらどうするつもりだ。少しは頭使えよ。

 ――あ、アンジュちゃん、ちょっと待っててね。パパお仕事の大事な電話してるからママのとこ行っててね~。

 ほら、いま娘と食事中なんだよ! 用があるんならさっさと……え? 別れる? さようなら?

 は? おまえ何言ってるんだ、頭大丈夫か? おい明美、あけみ――……』



 不倫ドラマ鑑賞会から、数日後。

 昼休憩がそろそろ終わる頃。社内の化粧室で佳波が歯磨きをしていると、美智恵がやってきた。

「お疲れー」

 佳波は頷きで返事をする。

 美智恵がポーチから化粧直しセットを取り出し、言った。

「明美、上木のやつと別れたね」

 佳波は口をゆすぎ、

「『やっと』、ね」

 ハンカチで口元を拭うと、深くため息をついた。隣の美智恵も同様に。


 ――職場不倫をする人間というのは、

 何故周囲にバレていないと思い込むものなのか。


 佳波は常々、それが不思議でならなかった。今まで何度も不倫を目にしてきた――両親も含めて――が、何故か誰もが隠し通せていると思い込む。

 どこからそんな自信が来るのか。あなたはそこまで頭がよくないですし、周囲はそこまでバカじゃありませんよ、と諭してやりたい。

 明美と上木は、特にそれが顕著だった。


「二ヶ月にいっぺんは『資料の整理してくる~』つって二人で消えるのに、バレてないってよく思えるよねー」

「あれ、本当にやめてほしい。業務が滞って仕方がない」

「まあ、今日は何分で終わるかって部内で賭けになった時は爆笑したけど」

「あれは繁忙期だったから、全員忙しさでバグっていたのよ。まったく……」

 佳波の眉間のシワが深くなる。

 明美と上木の大人の火遊び――ヘソで茶を沸かせるレベルで笑える表現だ――の皺寄せは、だいたい佳波に来る。

 仕事が遅れて、急きょ残業になることも珍しくない。……そのせいで、映画館のチケットを事前購入していた上映に遅刻したことがあった。今でも恨んでいる。


 その時に思ったのだ。

 ――こいつら、どうにかしなきゃ。


「佳波の作戦、予想以上にうまくいったねー。押してもダメなら引いてみろ大作戦!」

 ひねりのない作戦名だ。

「だって、真っ正面から糾弾しても、明美は絶対にやめないじゃない」

 明美はそういう女だ。

 よく言えば頑固、悪く言えば人の話を聞かない。喩えるなら、計算で電卓を使えば早いと言っているのに、「私はこれでやってきた」と頑なにそろばんをはじくタイプだ。(そろばん名人なら早いかもしれないが)

 明美本人はそんな自分を『真面目』だと思っているが、とんだ冗談だ。そもそも真面目な人間が不倫なんかするか。


「やめるどころか、『みんなに反対される私可哀想』の思考になって、よりいっそう不倫に励みそう」

「励むわよ、あの女は。ヒトの忠告すら燃料にして、禁断で真実の愛とやらを脳内美化し続けるわ」

「絶対に『佳波や美智恵には関係ないでしょ!』って言うやつ」

「関係あるっての。事実、こっちは大迷惑こうむってるんだから」


 ギリィと佳波が歯ぎしりをする。想像するだけで不愉快だ。


「たぶん明美、上木課長が他の女子にちょっかいかけてるのにも気づいてないねー」

「えり香が迷惑がってたわね。彼氏いるって何度も言ってるのにしつこく誘ってきて、しかも自分をいつまでも若々しいイケメンだと思い込んでるのが死ぬほどキモいって――えらい嫌われようね。私も嫌いだけど」


 上木本人は後輩から慕われていると信じているようだが、実際はその女癖の悪さで、男女共に評判は最悪だ。

 一部の上司も煙たがっており、要はあの不倫カップルに人望はまったく無い。なのに全然気づかないのは、逆に尊敬に値する。


「そんなくだらない男に、二十代後半からの三年間を捧げるなんて……」

「他人事でもキッツイ。三十代から不倫は笑えなくなるのに」

 はあ、と二人して大きくため息をつく。

 どうにかして明美に不倫をやめさせたかった。

 だから佳波と美智恵は、一計を案じた。上木に迷惑するえり香にも協力してもらって。


 それがあの、『不倫を心底バカにする方向でボロクソに言う』という一連の言動である。


 計画のために特に興味のないドラマのDVDを借り、事前に打ち合わせもした。

 おかげでスムーズに事は運んだが、決して楽な道ではなかった。いかに明美に『不倫は不毛』と自発的に気づかせるか繊細な言葉選びを要求された。

 明美が関係精算の電話をかけに出た後、三人は気疲れのあまり、その場に突っ伏した。


「本来ならどうでもいいことなのに、苦労したわね」

「別に明美が不倫にかまけて婚期逃そうが貴重な時間を無駄にしようが、あたしたちにはどーでもいいもんね。本当なら」


 それなのに、どうして苦労してまで、明美に不倫をやめさせたかったのか。


 佳波の脳内に、昔の記憶がよみがえる。派遣で入社した当時、右も左も分からずに戸惑っていた佳波に、三ヶ月だけ先輩だった明美が話しかけてきた。


 ――「同い年なんだ。一緒にがんばろうね。目指せ正社員!」


 弾けるような笑顔を向けて。あの時、明美はまだ不倫する前だった。

 そして不倫が始まってから、明美はたまにトイレに隠れて泣いていた。

 それを見てしまったら、

 ――こいつ、どうにかしてやらなきゃ。

 という気持ちが、うっかり芽生えた。


 佳波はちらりと美智恵を見る。彼女も似たようなものなのだろう。


「でもまあ、……友達だもんねぇ」

「そうね。崖どころかドブに向かう友達を、みすみす放っておけないものね」


 三度目の、特大のため息が落ちた。

 明美が不倫なんかしなければ、彼女に対してこんな情を抱くこともなかったんだろうな、と佳波は想像する。

 当の明美はこんな自分たちの想いを、苦労を知らないだろう。けれど、別に構わない。数年後、笑い話にでもしてやろう。


「佳波、今日飲みに行かない? あたしたちのアツい友情に乾杯しようよ。こないだ言ってた日本酒バーはどう?」

「乗った。……でもこれ、友情っていうよりもはや『友愛』よね」

「友愛?」


 首を傾げる美智恵に、佳波は澄ました顔で続ける。


「そう。愛。不倫愛なんかより、ずっとずっと純粋な愛だわ」


【了】

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