カゲロウ

@rasutodannsu

第1話

    カゲロウ            高木洋子


 どこの精神科病院でも同じことを言われた。

『あなたが、自分の貌を醜いと思い込んでいるだけですよ』

頭では、医師が言う通りなのだろうと思う。でも、どうしても自分の貌が気に入らない。いじめられたとか、何か言われたとか、はっきりした理由はないのだが、小学校4年の夏から家に閉じこもってしまった。


 両親は、ぼくが幼い頃、ドライブ中に事故を起こし、2人とも即死だったと聞かされている。ぼくは、クルマに酔うたちなので、母方の祖父母の家に預けられていて、難を逃れたということだった。

そのころは60代の初めだった祖父母は、娘と婿を同時に失うという悲劇に遭遇した。さらに、幼い孫を引き取って育てなければならないという切羽詰まった現実も迫ってきたわけだが、逆に救われた面もあったのだろう。残された孫を育てることが、自分たちの心の支えになったのだと、祖母から聞かされたことがある。


 幼稚園、小学校低学年と順調に育ったかのように見えたぼくは、これといった理由もなく、小学4年の夏から一歩も家の外に出なくなってしまった。

専業主婦だった祖母は、専門家を頼って、あちこち駈けまわったようだ。

ぼくも、精神科を受診したり、カウンセリングを受けたりしているうちに、『自分の貌が醜くて、どうしても気に入らないから、外にでられないのだ』というストーリーを作り上げていた。自分についての物語ができてしまうと、妙に安心したような気分になってしまう。


 だからといって、ぼくも祖父母も、このままでいいと楽観していたわけではない。

18歳になるまで、閉じこもりが長引いてしまった理由のひとつに、ぼくの計算されたずるさがあったと思う。ぼくは、細心の注意をはらって、祖父母を刺激しないような暮らし方を心がけてきた。

祖母が作った食事を完食し、挨拶や言葉使いは丁寧に優しく、衣類などもネット通販で安いものを最低限の枚数だけ購入した。毎日、風呂に入り、髭もそり、髪も自分でカットした。娯楽も、なるべくお金をかけないように心がけた。

パソコンで無料のゲームをしたり、記事を読んだり、ユーチューブも眺め、年会費が安いサイトに入会して無料のDVDだけ観るようにした。

食事は、高齢になった祖父母向きの、菜食中心のものだったので、完食しても太る心配はなかった。運動不足でイライラしてはいけないと思い、夜中に1時間ぐらいジョギングする日課も守った。


 ぼくが、おとなしく、トラブルが少ない引きこもりであっても、家庭内は重苦しい雰囲気だったことは間違いない。

祖父母は、事態が長引く前に、自分たちがもっと奔走すればよかったのかもしれないという後悔や、今後の心配に押しつぶされそうになっていたに違いない。

ぼくも、老いてゆく祖父母にとんでもないストレスを与え続けているという負い目や、一日でも早く自立しなくてはという焦りに苛まれていた。



 ついに、18歳の誕生日の3日前、ぼくは祖父母の前に手をついて頼み込んだ。

「美容整形を受けさせてください。自分の貌を変えることをバネにして、外に出て、必ず自立してみせます」

祖父母は口もきけないほど驚いたが、ぼくはその日までに出来る限りの準備はしていた。

ネットで、美容整形外科のランキング、口コミ、名医情報などを集め、通院可能な場所にある評判がよさそうな病院に的を絞っていた。費用は、祖父母が管理している、亡き両親の保険金を借り、働きながら返す。


 呆気に取られていた祖父母も、数日間、2人で話し合った結果、決断したようだ。このまま、ずるずると引きこもりが長引いたらもっと後悔するだろう、イチかバチか、本人のいうことを信じてみようということになったのだ。


*      *       *


 「で、ご希望の貌は?」と、感じのいい雰囲気の、中年の医師は、さらりと訊いてきた。

「あの、昔の画家で、竹久夢二という人がいて」

「ああ、はいはい」と、医師はパソコンで検索した。

「夢二の絵、これですね。儚げな、雰囲気たっぷりの美女」

「はい、それの男性版でお願いしたいのですが」

「大きな目元に陰りがある、愁いを帯びた美形ですね。なるほど。メランコリックな雰囲気というのは、モテるための大きな要素みたいですね。母性本能や支配欲をかきたてるとでもいうのでしょうか」

さらに、医師は、ぼくの全身を舐めるように観察し、「うん、君は色白で華奢な体つきみたいだから、儚げな貌に代えても、貌と体のバランスが崩れるという心配もなさそうですね」と笑顔をみせた。「ただし、時間とお金はかかりますが、大丈夫ですか? 何回も手術することになりますから、その都度、ご家族の責任者の同意が必要になります。こちらから、ご本人に直接、お電話をさせていただくこともありますが、よろしいですね」

「はい」

医師は、五枚つづりの、説明と同意の書類を手渡してきた。


*      *       *


 3年後、ぼくは21歳になっていたが、望み通りの貌を手に入れた。

さあ、外に出るぞ! 10年も引きこもっていたので、世間に慣れることから始めなければならない。深夜に行っていたジョギングを、思い切って、早朝の時間帯に変えてみた。梅雨が終わりかけた時期で、まだそれほど暑くもなく、若葉の緑と香りが清々しい。午前4時に家を出て、住宅街を抜け、街で一番大きい森林公園を一周して帰宅すると、6時になっていた。

散歩をしている高齢者たちは挨拶を交わしていたが、幸い、走っている者には声をかけてこないので助かった。


 1週間後、恐る恐る、昼間の繁華街にも出てみた。

祖父母から、とりあえずの活動資金として、10万円渡されていた。これを使いきる前に、バイトを見つけて働こう。

祖父から、『整形のことは秘密にしておけばいいが、今まで引きこもっていて社会経験がないということは、正直に話したほうがいい。働き始めれば、未経験だということはすぐにバレてしまう。だから、事情を話して、努力しますから使ってくださいと頼み込んでみるんだ』と、アドバイスされた。

祖母も、『焦らないで、根気よく探していれば、理解してもらえる職場にめぐり合えるかもしれないからね』と、励ましてくれた。

整形に、とんでもない大金を使ってしまった。これ以上、祖父母に負担をかけてはいけない。出来るだけ節約しよう。

街の地図を眺め、我が家を円の中心に据えた。片道30分のところまで歩き、周辺を散策しながらアルバイト募集の貼り紙を探し、見つかればメモする。翌日も、角度を変えながら歩くというやり方で、地図を潰していった。


 店を眺め、街を行き交う人たちを観察していて、ぼくは仰天した。21歳になっているのにもかかわらず、中学生でも、「お兄さん」という感じがするのだった。10年間閉じこもっていたぼくは、小学4年生の、あの夏の時点で、気持ちが止まっていた。

少年たちが、お互いのスマートフォンの画面を見せ合い、冗談を言い、背中や肩をたたき、頭をこつんとはたいたりする様子が、まぶしく、羨ましさがこみあげた。

初めて、失ってしまった10年間を悔いた。ああ、もう、時間もお金も取り返すことはできない。大金を払って貌をかえるのではなく、内面のトレーニングをするべきだった。

悔いて、悔いて、悔いて……ひたすら歩いた。


 気がつくと、気味が悪いほど閑静なお屋敷町にいた。

古いセピア色の映画のような、不思議な雰囲気だ。全てが廃屋で無人ではないかと思えるぐらい静かだった。しかし、どの家も、広い庭園は手入れが行き届き、新緑の植栽や芝生、花壇は生き生きとしている。小鳥の声もした。

あたりを眺めると、年代物の大きな屋敷が並んでいるなかに、一軒だけ、こぢんまりとした洋風の家があることに気がついた。暖炉があるのか、レンガ作りの煙突があるのも、童話の挿絵のようで可愛らしい。

喉が渇いていた。喫茶店だったらいいのに。期待しながらその家の前に立った。木製のドアに中身が見えるポストがついていて、薄緑色のチラシが5、6枚入っていた。『ご自由にお持ち帰りください』と貼り紙もしてある。

それでは遠慮なくと1枚抜き取り、急いでその家から離れた。


*      *       *


 その日から3日間、ぼくは頭がおかしくなるくらい、考え抜いた。マッサージや整体、ハンドパワー、気功などについても、ネットで調べてみた。

あの日、手に入れたチラシには、住所と手書きの地図、電話番号、簡単な内容説明は印刷してあったが、ネットで検索をかけても、その施療院の情報は出てこなかった。やはり詐欺まがいの怪しい商売なのだろうか?

でも、『性格は変わりません。しかし、身体が完全に変革すれば、あなたの行動は自然に変わります。私の的確な手技で、ソフトなマッサージを5~6時間行います。苦痛はありません。たった1回の施術で、あなたは心身ともに生まれ変わります』という説明は魅力的だった。

5万円という額も、高いのだから本当に効くのかもしれないという、信頼性みたいなものを感じてしまった。建物はあの場所に実在するのだし、知る限りでは、良くないニュースになったという記憶もなかった。閉じこもってはいたが、パソコンで、ニュースは丹念に読み込んでいたし、興味を持った事件や事故は続報もチェックしていた。


 3日目、ぼくは自分の部屋にある子機から電話してみた。

『はい、こちら、ポール施療院でございます』

訓練された正確な日本語だが外国人らしい。落ち着いたやわらかな男性の声だ。

「あの……チラシを見たのですが」

『ありがとうございます。体調が良くないとか、痛みとか、なにかお困り事がおありなのでしょうか』

「あ、いえ……体というよりは、精神的に、ちょっと」

「……例えば、対人関係の訓練みたいなことをお望みなのでしょうか」

(ええっ! なんでわかるの?)

「まあ……そんな感じで」

『体や心は、鍛錬すれば強くなるという考え方が一般的でございますが』

「はい」

『わたくしの考えでは、鍛えて強くするのではなく、柔らかく、軽く、透明にする。心身が、まるで空気のようになれば、どんな環境でも、誰とでも、自由自在に対応できると考えております』

「……そのために、半日かけてマッサージを?」

『さようでございます。どうぞ、ゆっくりお考えになって、わたくしの考えにご賛同いただけるようでしたら、また、改めて、お電話くださいませ』


 

 電話した日から一週間、ぼくはまた街を歩き回った。ポールという男の考えはなかなか魅力的だとはおもう。しかし、本当に、半日で効果がでるものだろうか。

朝夕、祖母が作ってくれる食事を腹いっぱい食べるので、昼ご飯は、自動販売機の飲み物とかコンビニエンスストアのサンドイッチぐらいで充分だった。10万円の活動資金はそれほど減ってないので、5万円の施術料金はすぐにでも払うことはできる。しかし……。


 気がつくと、最近できたショッピングモールの前に来ていた。もしかしたら、新規開店で従業員もみんな初顔合わせみたいなお店があるかもしれない。出来上がった人間関係ではなく、これから一緒にやっていこう! というような、そんな職場が見つかればいいのに。

 

 都合のいい妄想を抱きながら建物の中に入った。1階から、ゆっくりと丁寧にひとつひとつの店を見て回る。


 間口が広い、たくさんの食器を並べた店の前にさしかかった。いかにも専門店という感じがする。

店内を眺めた。あれ? 

若い女性店員が老夫婦にぺこぺこと頭を下げている。

クレームをつけられたのかな、気の毒に。

そっと様子をうかがう。

すぐに店の奥から中年の男が駆け寄ってきた。男は老夫婦に深々と頭をさげ店の奥を指し示した。

そこには簡単な応接セットが用意されていた。

老夫婦をソファーに案内した男は床に片膝をつき、客の話を聞いている。

やがて、立ち上がった男は店の奥のカウンターの中に入り、トレイをもって出てきた。男は広い店内をすばやく歩き回り、金属だけでなく木やプラスティックで作られたスプーンやフォークをトレイに集め、待たせていた老夫婦の元に戻った。


ああ、そうかと、ぼくは納得した。最近、祖父が、箸が使いにくくなったとこぼしていたことを思い出したのだ。

祖母はスプーンとフォークを出してきたのだが、祖父は手に取って、『んー、なんか、もう少し……こう、しっくりくるものがないのか』と首をかしげていた。

たぶん、あの老夫婦も、手に馴染み使い勝手のいいフォークとスプーンを探しに来たのだろう。


 老夫婦は、トレイに並べられたフォークやスプーンをひとつひとつ手に取って、あれこれ話をしている。

男はまた店の奥に行き、ドアを開けて出ていった。

ぼくも、祖父のために、使い勝手のよさそうなフォークとスプーンを探してみようと思い、店内に入った。


 やがて、店の奥のドアから出てきた男は、また、何本かのフォークとスプーンを並べたトレイを抱えていた。

ぼくに気づいた男は、微笑しながら軽く会釈してきた。

まるで、風のような、さりげなさ。その時のぼくにとっては、過不足のない応対だと感じられた。

男は応接セットのそばに行き、別室から探し出してきたフォークとスプーンを老夫婦の前のテーブルに置いた。

老夫婦は笑顔で語り合いながら、何本かのフォークとスプーンを手にして使い勝手を試している。


 先ほど、客に謝っていた女性店員はレジカウンターに入っていた。

男は、女性店員にもやわらかな微笑をおくった。

女性店員も笑顔で軽く会釈を返している。


 祖父も、この店にきて、自分で使い勝手を試してから買ったほうがいい。

ぼくは、レジカウンターの内側にいる女性店員に軽く頭を下げ、手ぶらで店を出た。

「ありがとうございました」と、女性店員の爽やかな声が追いかけてきた。


 ひどく、感動していた。店長か店主かはわからないが、あの店の男には、自分というものがなかった。客の立場になりきり、気に入ってもらえる物を探すことだけに徹していた。

『やわらかく、軽く、透明で、空気のような』と電話で語ったポールという施術師の言葉が、この時、納得できた。

その日の夕方、ぼくは、ポールに予約の電話を入れた。


*      *       *


 予約した日の午前9時10分前、ぼくは、ポールの家の木製のドアを開けた。

室内は、メンソールの爽やかな香りがした。引き出しがついた、小さなテーブルに椅子が二つだけの狭い部屋だ。

白衣を着た、180センチぐらいの、ほっそりとした中年の男性が待っていた。褐色の短髪、白い肌、虹彩は濃い緑色だ。

「いらっしゃいませ」

ポールは、ぼくに椅子を勧めた。

「なにか、お飲み物を……アイスティーなどいかがでしょうか」

「ありがとうございます」

ポールは、部屋の奥のドアを開けて出ていった。

 

 やがて、ポールは、飲み物を載せたトレイを持って戻ってきた。

「どうぞ」と、ぼくの前に置く。

「いただきます」

添えられていたストローで、ゆっくりとアイスティーをすすった。

今日は、バスを利用したので、家から30分ぐらいでついたのだが、緊張で喉はからからだった。


 飲み終えたぼくは、礼を言ってから、ジーンズのポケットから財布を取り出した。

ぼくが現金で五万円渡すと、ポールは万札を数えて、「確かに」と言い、テーブルの小引き出しから領収書だし、手渡してきた。

ぼくは、領収書を半分に折り、白いコットンシャツの胸ポケットにしまった。


 「それでは」と、ポールに案内されて、奥のドアから廊下に出て、突き当りの部屋に入った。ここも、メンソールの香りがして、低く静かに瞑想的な音楽が流れている。明かりは落としてあり、四畳半ぐらいの広さで、床は白いタイル張りだった。部屋の真ん中あたりに、病院の処置室にあるような細長いビニール張りのベッドが置かれている。

上の方に丸い穴があいていて、うすいドーナッツ型の枕が載せてある。丸い穴の下の床には、大きなポリバケツが置いてあった。

「うつ伏せになって、その穴に口元がくるようになさってくださいませ」と、ポールが静かな柔らかい声で指示した。

言われるままにベッドにうつ伏せになり、ドーナツ枕の穴に口元が当たるように体を調整した。

「頭からマッサージしてゆきます。鼻水やよだれが垂れても、吐き気がしても、遠慮なさらずにどんどん吐き出してくださいませ」


 サラサラという音がした。

ポールが手をこすり合わせているらしい。

やがて、後頭部が柔らかい両手で包まれた。信じられないくらい熱い手だ。熱と共に、じんわりとしたものが頭の中までしみこんできた。

ああ、これが、ハンドパワーなんだ!

次は、こめかみから耳にかけて、熱い手に包まれる。マッサージというより、そっと、両手で包み込まれるような感じがする。ポールの手は、ぼくの頭部を包み込んでいるだけなのに、じーん、じーん、じーんと、全身にしびれのようなものが広がっていく。

やがて、まるで風呂に入っているかのような快感に襲われ、ぼくは半ば眠りながら、鼻水やよだれをたらしていた。

ぽつり……ぽつり……ぽと、ぽと、ぽと。

よだれが垂れて、ベッドの下に置かれているバケツに当たる音がする。

ああ、ぼくは、溶けていく。

       *      *       *

 ここは、どこ? まわりを見渡すと、夏草の茂みに、三角のはねを広げたカゲロウたちがびっしりとまっていた。

「こんにちは」と、隣から呼びかけられ、自然に応えていた。

「こんにちは」

あちこちから、挨拶を交わす声がきこえた。

仲間だ! 

とうとう、ぼくにも友だちができたのだった。


 風が吹いてきた。

カゲロウたちは、いっせいに舞い上がる。

透明な帯のように、柔らかく、軽やかに、川面すれすれに流れるように移動していく。

いま、ぼくは、仲間と一緒に、空気のなかに溶けこんで舞い踊っている。

この歓喜!

一日にも満たない儚い命を惜しむかのように、カゲロウたちは、ひたすらに、舞う。

      *      *       *

 ポールは施術を終えた。ベッドの上には若者の衣類だけが抜け殻のように残っている。ベッドの脇の床の上には、コーヒー色のどろりとした液体が入ったポリバケツが7個並んでいた。

ポールは、部屋の隅にある排水口の蓋を持ち上げた。暗い穴の底は見えない。

ベッドのそばから、重そうなバケツを一つずつ穴のそばに運び、中身の液体を流し込んだ。

液体の処理が終わると、空のバケツを重ねて持ち上げ、部屋から出ていった。


 部屋に戻ってきたポールは、ベッドの上に残された、抜け殻のような衣類をまとめて持ち、床にかがんで、白いスニーカーもつかみ、ドアを開けて廊下にでた。

向かい側の部屋のドアを開けると土間になっていて、暖炉が燃えている。

ポールは、抱えていた衣類とスニーカーを炎に向かって投げ込み、自分が着ていた白衣も脱いで火にくべた。

白衣の下は、神父が着るような黒い僧服だった。

ポールは土間にひざまずき、十字を切り、若者のために祈りを捧げた。           

     *      *       *

 小学四年生の、圭太(けいた)が帰ってきた。寒風の中、河川敷で凧揚げをしてきた圭太の頬は紫色になり皮膚は荒れていた。

「寒かったでしょ、入って」と、母親の美沙(みさ)は玄関先の息子を急かした。

圭太は母親の顔をうかがうようにしながら、「あのさぁ」ともじもじしている。

「早くしてよ、ママ、寒いんだから」美沙は玄関ドアを支えている腕を揺らした。

圭太は凧を巻いて腕に抱えている。凧を風に持っていかれたわけではなさそうだ。破れたのかもしれないが、叱るつもりはない。美沙はやわらかい声で訊いた。

「どしたの?」

圭太は、あいまいな顔をしている。

「いいから、とにかく入って」

圭太が振り向き、美沙は初めてその青年を目にした。

庭木の向こう、門扉の外に白い影のような人物がたたずんでいた。妙に存在感が希薄で、透明に近い白い羽根に包まれた蝶のようだと美沙は思った。

「あの人」と言いかけた美沙の声にかぶせるように圭太が小声で言う。

「すんごく困ってるんだ、あのおにいさん」

「困ってる?」

「ん」圭太は美沙の耳元でささやいた。

「記憶喪失みたい」

美沙は眉をひそめた。困るのはこっちだ。胡散臭い人物を連れ込まれては迷惑である。撃退しなくちゃ。美沙は敷石伝いに庭を横切り、門扉に近づいていった。

青年は、美沙の勢いに飲まれたかのように目を伏せ、軽くお辞儀をした。

ライトノベルの挿絵から抜け出してきたような超イケメン、美沙の胸がドクン! と反応した。同時に、懐かしさと痛みも感じていた。年の離れた弟、章(あきら)は美しい子どもだった。美沙が中学生の時、修学旅行に行っている間に、両親と幼稚園児だった章の三人は死んでしまった。交通事故だった。両親と章が乗っていた乗用車は、センターラインを越えて突進してきた居眠り運転のダンプカーと激突、家族三人即死だったと聞かされている。『一瞬のことで、三人とも苦しまなかったんだからね』と、祖母は美沙を慰めた。章が生きていれば、目の前にいるこの人のような美青年になっていたことだろうと美沙は思った。

「あの、なにか、お困りだとか?」

目を伏せていた青年は長いまつ毛をあげて美沙をみつめた。「ぼく、帰り道がわからなくて……それに、あのー」

助けてほしいと目で訴えている。

ゴールドのラインが入っている白いトレーナーの上下に、同じようにゴールドがアクセントになっている白のスニーカー。それほど高価ではないがブランド品ではあると美沙は青年の服装を値踏みした。河川敷でジョギングでもしていたのだろうか。帰り道がわからないとは奇妙な話だ。高齢者ならそういうこともあるかもしれないが彼は若者だ。怪我をしている様子でもない。

その時、減速した黒のワゴン車が近づいてきて、美沙のそばで止まった。

運転席から身軽に飛び降りてきた小柄な青年が、後部座席から降りようとしている老女を支えた。

「お帰りなさい」美沙はクルマから降りてきた祖母の里子(さとこ)に微笑みを投げ、介助してくれている青年、西村正樹(にしむらまさき)に向かい、「すみません、送っていただいたりして」と頭を下げた。

正樹はいやいやと手を振りながら「今日はすんごく寒いから」と返した。

「おばあちゃん、お帰り!」と、圭太も庭から駆け寄ってきた。美沙は孫、圭太はひ孫なのだが、二人とも里子のことを『おばあちゃん』と呼んでいる。

里子も、見知らぬ青年の際立った美貌には度肝を抜かれたらしく、目を見張るようにして、「お客様?」と美沙に尋ねた。

その時、白ずくめの青年は、「うちにも、おばぁちゃんがいた……いま、ふっと、そんな気がして」と、里子に向かって微笑んだ。

美沙は救われたと思った。気のいい正樹に頼んでみよう。

「あのね、正樹さん。この方、道に迷って困ってらっしゃるの。いま、」と青年のほうを見て「お家にはおばぁさまがおられると言われたでしょ」

正樹と青年が同時に頷いた。

美沙は強気になって正樹に頼み込む。

「お宅に集まってらっしゃるお年寄りの人たちから情報が入らないかしら?」

例えば、孫が超イケメンだと自慢している人がいるのではないか。

正樹は青年に訊いた。

「スマホでお宅に連絡しましたか? お家の人が心配しておられるんじゃ?」

青年は困惑した顔になった。「手ぶらみたいなんです。ポケットには何もなくて」

「じゃ、住所を教えてください。ナビで探して、お宅まで送りますよ」

その時、たまりかねたように圭太が声をあげた。

「あのね、この人、記憶がないの。あれこれ聞かないで」

その場が凍り付いた。


*       *       *

 

 数日後のこと。

夕方、西村家から帰った里子は、キッチンのテーブル席で、暖かいほうじ茶をすすりながら、美沙に経過報告をしていた。

あの時、とりあえずと正樹が自宅に連れ帰った青年は、西村家に居着いてしまったらしい。

「警察にも連絡してみたらしいんだけれど、捜索願い? とかは出ていないんですって。テレビやネットの話題にもなってないらしいわ」

「それで、ずるずると?」

「そうなの。あの子、儚い感じで、なんだかかわいそうなのよ」

「確かに、現実味がないというか、奇妙な感じがしたわね」

里子は思い出し笑いをしながら、「毛並みのいい白い犬みたいで、西村さんちのソファーの隅にひっそりと座っていて、それが絵になっているの」

美沙もわらった。

「犬って、そんな」

「頼まれない限り、なーんにもしない、話しかけられない限り、なーんにも言わない。ただ、居るだけ。でも、なんだか、なごんでいるの、みんなが」

「もともと、西村さんちはゆるいもんね、空気が。近所のお年寄りのたまり場になってるだけじゃなくて、不登校の子や、施設から逃げ出してきた子、ご主人の暴力がひどいとか、訳ありの人が何気に混じりあって暮らしてて、しばらくするといなくなったり」

「そうねぇ」と里子はうなずき、「あの家の規則は一つだけ。余計なおせっかいはしない」

「ま、そのうちに記憶が戻るかもしれないしね」

美沙と里子は微笑み交わし、ゆったりとほうじ茶をすすった。                      完



 




 











 




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