解決編第一章 榊原恵一

 二〇〇四年六月八日火曜日。東京・青梅市西部、ちょうど奥多摩地区の山間部と隣接する辺り。

 先日より降り続けた豪雨により、東京西部地区のいくつかの地域には避難勧告が出されていた。青梅市にも大雨洪水警報が発令され、市内のいくつかの川が氾濫しかねない状況に陥っている。すでに雨は上がって久々の日差しも見えているが、依然川の状況は予断を許さない状況だった。

 奥多摩署の職員たちも、この台風に匹敵する災害に対して出動要請が出され、連日河川の見回りや住民の避難誘導などに借り出されていた。この日も、奥多摩地区と青梅市の境付近を濁流となって流れる多摩川の横を、パトカーに乗った二人の制服警官がパトロールしていた。

「せっかくの非番だったのに、やってられないッスよ」

 運転する若い警官が愚痴をこぼす。

「まぁ、そう言うな。東京じゃまだ被害は出ていないが、埼玉では死人が出ているらしい。見張っておくに越したことはない」

 助手席の年配の警官が諭すように言う。彼は元々奥多摩署の刑事課にいたが、数年前に体を壊して刑事を続けるのが困難になったため地域課にまわされていた。

「そりゃ、そうッスけど……」

 と、不意にその若い警官は思い出したように言った。

「そう言えば、何日か前に起きた路線バスの失踪事件、あれ、解決したんですか?」

「まだみたいだな。八王子署の連中が必死になって探しているらしいが、まったく行方がつかめんらしい。一応、家族なんかの申告から乗員乗客と思われる連中のリストを作ったらしいが、どこまで正しいのかわからないから苦労しているみたいだな。うちの署にも協力要請があったみたいだが……」

 そう言いながら轟々と音を立てて流れる川の方を見た年配の警官だったが、唐突にその目が鋭くなった。

「おい、止めろ」

「え? はい」

 若い警官は咄嗟にブレーキを踏んでパトカーを止める。年配の警官の目が厳しくなる。

「人だ! 人が流されてる!」

「何ですって?」

 若い警官も慌てて川の方を見る。見ると、川の流れに奔流されながらも、板のようなものにしがみついてぐったりしながら流されている人影がはっきり見えた。

 何かを言うよりも先に、年配の警官の手が無線機に伸びた。

「こちら奥多摩8(奥多摩署所属パトカー8号車)。奥多摩地区××多摩川において人が流されているのを発見。これより追跡する。応援、求める。どうぞ」

『了解』

 若い警官はすぐさまハンドルを切り、流される人影の追跡を始めた。同時に、年配の警官が逐一現在位置を知らせていく。

 と、それからしばらく流されているうちに、人影はだんだん河川敷の方角へと流されていった。この分なら、自分たちでも引き上げられるかもしれない。

「おい、先行して引き上げるぞ」

「了解!」

 若い警官がアクセルを踏み、パトカーを少し先まで走らせる。川を横切る橋の少し手前でパトカーを止めると、警官二人は河川敷を駆け下り、豪雨で増水した川に近づいた。幸い、相手は岸のすぐ近くを流れている。

「よし、やるぞ!」

 年配の警官が川辺に近づき、若い警官が落ちないように手を引っ張る。やがて人影は二人のいる場所まで近づき、年配の警官は水に濡れながらも必死にその人物の体をつかむと、一気に岸まで引っ張り上げた。その人物は意識がないようだったが、何とか無事に引っ張り上げられてそのまま河川敷に寝かされる。事件性があるかもしれないので、若い警官は念のため彼がしがみついていた板切れも回収してその人物の横に置いておいた。年配の警官はまずその人物の意識を確認すると、無線で本部に連絡した。

「奥多摩8より連絡。大川橋近辺にて対象者の引き上げに成功。救急車の出動を求める」

『対象者の意識は?』

「意識はなし。ただし、死亡はしていない。一刻も早い治療が必要」

『了解、すぐに救急車をそちらに向かわせる。被害者の身元は?』

「現在、確認中」

 そう言いながら、警官たちは身元がわかるようなものがないか衣服をチェックしていく。板を握り締めていた方の手は今も何かを絶対に放さないといわんばかりにきつく握り締められており、警官たちにも開く事はできなかった。

 と、そのときだった。

「う……」

 その人物が呻き声を上げた。

「大丈夫ですか!」

 警官の一人が呼びかける。その人物はうっすらと目を開けると、まるでうわ言のように言葉を発した。

「バスが……じこを……しらがみ……むら……ころされて……たす……けて……」

 何とか振り絞るようにそれだけの事を言うと、その人物は再び気絶してしまった。

「白神村だと」

 年配の警官の表情が変わった。長年この辺りでずっと勤務しているこの警官にとって、白神村という名前は忘れたくとも忘れられない名前だ。

 何かとんでもない事が起こっているのかもしれない。年配の警官は白神村付近の調査を依頼すべく、すぐさま無線機を手にとって本部にこの事を報告した。

 

 警察が奥多摩の道路脇の崖下に転落しているバスを発見したのは、正午になってからの事だった。そこからさらに一時間程経って、ついに警官隊と救助隊がヘリと陸路から十年ぶりにあの白神村に突入した。

 だが、すべては終わった後だった。村に入った彼らが見たものは、村のあちこちに散らばる惨殺死体の山だった。百戦錬磨の刑事やレスキュー隊員たちにとってもそれは地獄のような光景であり、誰もが呆然とした様子で惨劇の後を眺めている。

 遺体はそれこそ村のあちこちから見つかった。比較的全身が残っているものからバラバラになっているものまで、村の家の中や森の中から次々と発見されていく。遺体の収集作業には相当の時間がかかると思われ、静かな廃村は一夜にして大量の警官によって埋め尽くされた。マスコミはこの狂気の犯行をセンセーショナルに報道し、同時に誰が犯人かという話に全員が食いついた。

 だが、全員の遺体が激しく損傷しており、身元の判断さえあやふやな状態である。真相解明が長期化するのは目に見えていた。自然と警察の疑いの目は救助された『生還者』……すなわち、今回の事件の『イキノコリ』へと向く。だが、捜査が進むにつれ警察はこの『生還者』に対する容疑を薄めていった。遺体の検視結果、現場の状況など何度も検討した結果、この『生還者』には犯行が不可能である事がはっきりとわかってしまったのだ。このため、それ以降はこの『生還者』は被害者という扱いになり、『生還者』の安全確保のためにその存在はマスコミに一切伏せられる事となった。

 やがて、事件から一週間が経過した。村内の遺体はすべて回収され、持ち物などから身元が明らかにされた上で、発見された遺体はすべて本人のものである事が検視や鑑定で立証されていた。そして、二度にわたる惨劇の舞台となった白神村の処置については警察や地方自治体によって真剣に議論される事となった。結果、事件が解決するまでは警察の厳重な監視下に置き、事件解決と同時に村の施設の全面撤去が行われることが決定。村への旧道は土砂崩れで通行不可能なため、急遽新山道から村へ向かって工事車両用の仮設道路の設置が決まり、そこに至るまでの木々が次々と伐採された。さすがの環境保護団体もこの非常事態には異議を唱えるわけにはいかず、この呪われた村は十年の時を経て白日の下にさらされた。

 だが、移り気なマスコミはすでにこの事件についてあまり報じなくなっていた。事件が長期化しそうな事もあって犯人逮捕までは静観する姿勢を示したのだ。

 そしてそんな中、一人の人物がある病院をこっそり退院した。そして、長期化の様相を見せていたこの事件は、ここから大きく動き出すこととなる。

 

 事件発覚から一週間後の六月十五日火曜日。東京はどんよりとした曇り空だった。一人の人物が、ある病院の玄関から出ると、その曇り空を仰いだ。一週間ぶりに見る外の景色はどこか乾いていて、無機質な感じがする。それが、白神村における今回の事件の『生還者』が最初に思った事だった。

 『生還者』は病院を出た後、まっすぐ自宅アパートに向かった。マスコミの姿はないが、用心するに越した事はない。『生還者』は周囲に気を配りながらも、その足を速めた。

 郵便受けには大量の手紙が差し込まれている。『生還者』は鍵を開けると、それを持って久しぶりに自室に入り込んだ。手紙を机の上に放り投げ、自身はベッドの上に寝転がる。故郷を離れて一人で住んでいる部屋だが、居心地はお世辞にもいいとはいえない。

 何もかもが夢のようだった。だが、あの村での出来事はすべて現実に起こった事である。『生還者』はしばらくそのままボーっとしていたが、やがてムクリと起き上がり、差し込まれていた手紙のチェックを始めた。

 広告やら新聞やらが大半だが、その中に一通だけ奇妙な手紙があった。一般的な封筒に入った手紙。問題はその差出人の住所と名前である。

『品川区×× 笹沼昇一』

 その名前に『生還者』は聞き覚えがあった。確か、これは十年前にあの村で大量殺人を引き起こした殺人鬼の名前ではないか。

 『生還者』は思わず緊張した表情をする。この男は逮捕され、今は東京拘置所で死刑を待っているはずだ。間違っても自分に手紙を送る事などできるはずがない。だが、いたずらにしてはあまりにもタイミングがよすぎる。

 『生還者』は慌てて封筒を開けて中身を取り出す。中には一枚の便箋が入っており、そこにはただ一言、こう書かれていた。

『今回の事件について話をしたい。六月十六日午後一時、当住所まで参られたし』

 白神村から生還したかと思ったら、今度は十年前の殺人鬼からの呼び出し状。おまけに、この手紙の主は自分が『生還者』である事を明らかに知っている様子である。『生還者』はベッドに座りながら、何か薄ら寒いものを感じていた。


 翌、六月十六日水曜日。『生還者』は品川駅に降り立った。

 いくつものビルが乱立する品川駅前。そのビル街の裏側にいくつもの雑居ビルがひしめき合う場所がある。周辺の人々からは裏町と呼ばれる場所で、周囲の高層ビルのため日当たりも悪く、人通りも少ない場所である。

 その品川裏町の一角、一際寂れた場所に、三階建ての古い雑居ビルがあるはずだ。そして、そここそが『生還者』の目指す場所である。

 旧笹沼昇一探偵事務所。十年前に白神事件を起こし、二十三人の命を奪ったあの殺人鬼が探偵事務所を開いていた場所である。もちろん、笹沼の逮捕と共に事務所は閉鎖され、以来数年間はこの事務所のあったビルの二階に誰も訪れる事がなかった。殺人鬼のいた場所ということで借り手もなく、したがってずっと放置されてきたはずである。

 だが、昨日届いた手紙の住所は間違いなくこの場所を指し示していた。手紙を見て、『生還者』はすぐにネットで笹沼の事について簡単に調べた。その際に、問題の住所が笹沼の事務所の場所だった事、事務所がすでに閉鎖されていることも知った。念のために同じ住所で検索をかけてみたが、笹沼の事務所以外の情報は一切出てこなかった。

 つまり、送られてくるはずのない場所からいないはずの人物によって手紙が送られた事になるのだ。

 『生還者』は前日のうちにプリントアウトしておいた地図を頼りに、品川の裏町を進む。こんなところで事務所を開業していたとなると、笹沼探偵事務所はそれほど繁盛していなかっただろうという事が容易に想像できる。

 そんな事を考えているうちに、目的のビルが見えてきた。あちこちにひびが入っている三階建ての雑居ビル。その二階が問題の探偵事務所である。見上げると、二階の窓ガラスに今にも消えそうな文字で『探偵事務所』の文字が見えた。

 だが、その文字の前に書かれている名前を見て、『生還者』は首をかしげた。本来ならそこにはこの事務所の主である「笹沼」という名前がなくてはならないはずだった。だが、そこにあったのは明らかに違う名前だった。改めて全体を読んでみる。


 『榊原探偵事務所』。少なくとも、『生還者』にはそう読めた。


 榊原。その名前を聞くと、『生還者』の頭には何年か前に神戸で起こった猟奇殺人の犯行声明が思い浮かんでくる。大量殺人の犯人である男の事務所に「榊原」という名前がついているとは何とも皮肉な話だが、という事は、笹沼が事務所を廃業した後にここに事務所を開いた別人がいるという事なのだろうか。

 『生還者』は、そのままビルの右にあるコンクリート製の階段を上り始めた。二階に上がると、『榊原探偵事務所』とかすれた文字で書かれたドアが見える。取っ手には「開業中」というプレートがかかっており、どうやら開業はしているようだ。『生還者』はドアを軽くノックする。

「はい、どうぞ」

 中から男の声がした。『生還者』はドアを開け、中に入る。

 部屋の中は一般的な探偵事務所といった体裁だった。部屋の中央に二つのソファが向かい合うように置かれ、そのソファの間に来客用のテーブルが置かれている。部屋の両側にはいくつもの本棚が隙間なく設置されており、中には大量の書物やファイルが納められている。その本棚の一角、入口から見て右手の一部分に隣室へ通じる扉があって、どうやらそこは給湯室になっているようだった。

 そして、来客用ソファの奥にこの事務所の主のものと思しきデスクが置かれ、そのデスク備え付けの椅子にもたれかかるようにして、一人の男が文庫本を読んでいるのが見えた。

 『生還者』が声をかけると、男は文庫本から目を離し、じっと『生還者』を見つめる。

「何か?」

 どう答えていいのかわからず、『生還者』は口ごもる。見た目は三十代後半だろうか。よれよれのスーツにネクタイを締め、パッと見た感じはくたびれた中年サラリーマンといった風貌である。だが、印象的だったのはその目だった。どこか中年の哀愁を漂わせている風貌と違い、目だけは死んでいない。何もかも見透かすような、静かで、それでいて鋭い視線を『生還者』に向けている。

「ご依頼ですか? でしたら、どうぞお座りください」

 事務的にそう言うと、その男は文庫本をデスクの上に置いて立ち上がり、隣の給湯室に入っていった。『生還者』は躊躇したが、いつまでもこうしているわけにもいかないので言われたとおりにソファに座る。やがて、男はお盆にお茶を載せて戻ってきた。

「すみませんね、一人で切り盛りしているもので。ファイルの整理もあるので一人ぐらいは事務員を雇った方がいいかもしれないとは思っているんですがね」

 そんなことを言いながら、男は二人分のお茶をテーブルの上に置き、自身も反対側のソファに腰掛ける。

「改めまして、この事務所の所長をやっています、私立探偵の榊原恵一と申します」

 そう言って男……榊原恵一は名刺を『生還者』に渡した。あいにく、そんなものなど持っていないので、『生還者』は黙って頭を下げるだけである。

 それが終わると、『生還者』は、ここは笹沼昇一の事務所ではないのかと尋ねた。それに対し、榊原は小さく首を振る。

「笹沼探偵事務所は何年も前に廃業になっています。私は六年前、掘り出し物になっていたこの事務所を購入して新たに事務所を開いただけです」

 ネットにはこんな事務所が開かれている事など書いてなかった。そう指摘すると榊原は苦笑しながら答えた。

「それは私が広報に不熱心なだけですよ。おかげで常に閑古鳥が鳴いていますがね」

 そう言いながら、榊原はなぜか遠い目をする。

「それにしても、笹沼昇一ですか。懐かしい名前を聞きました。かつて大量殺人事件を起こして死刑判決を受けた私立探偵の事務所。ここを購入したときにそう言われましたよ」

 なぜこんな事務所に、と『生還者』は尋ねる。

「まぁ、私がやつを死刑台に送ったようなものですから、何となく興味を抱きましてね」

 その言葉に、『生還者』は引っかかった。その顔を見て、榊原は頭をかきながら告げる。

「あぁ、失礼。私、六年前までは警視庁におりまして」

 榊原は何気ないように言うが、その事実に『生還者』は驚きを隠しえなかった。なるほど、元刑事だというなら、くたびれた外見に反するあの鋭い目も納得がいく。それを知ってか知らずか、榊原は身の上話を続けた。

「一応、捜査一課に在籍していましてね。ノンキャリアで警部補まではいったんですが、ある事情で辞職する事になりまして。例の『白神事件』にも少し関与しましてね。……いや、直接捜査に携わったわけじゃなく、犯人が逮捕された後の補充捜査のような事をやっていたんですよ。ただ、当時から笹沼昇一というシリアルキラーには刑事として関心を持っていましてね。刑事を辞めた後、事務所がまだ買い手がつかずに残っていると聞いて、ここで探偵業をやってみるのも一興かと思い、現在に至っているというわけです」

 そう言ってから、榊原はふと不思議そうに『生還者』を見つめた。

「ところで、今日はどのようなご用件で。今までの話だと、どうやら私を訪れたわけではないようですが」

 ようやく本題に入れそうである。その言葉に、『生還者』はポケットから昨日届いた手紙を差し出し、昨日これが届いたので今日ここにやってきた旨を伝えた。だが、榊原は差し出された手紙をちらりと読むと、そのまま眉をひそめる。

「私は、こんなものを出した覚えはありませんが」

 その表情に嘘をついている様子はない。『生還者』は戸惑った様子で目の前に置かれた手紙を改めて見た。となると、これを出したのは誰で、何の目的があったというのだろうか。意図がわからないだけに、かえって不気味である。

「しかし、あなたも物好きですね。こんないたずらとしか思えない手紙の指示に従って、わざわざここにやってくるなんて」

 榊原の言葉に、『生還者』は自分があの村からの『生還者』である事を隠した上で、自身はルポライターで、この事件を独自に調べているという風に説明した。もちろん嘘なのだが、なぜだかわからないが、この男には身分を明かさない方がいいと直感的に感じたのだ。一方、『生還者』の言葉を聞いて、榊原の表情にも少し緊張が走った。

「……なるほど。あの事件を調べている人間に、十年前の事件の犯人からの手紙が届いた。確かに、いたずらとは思えませんね。何でしたら、調べましょうか?」

 『生還者』は首を振る。余計なことを詮索されるのは趣味ではない。それに、榊原が送り主でないとすれば、ここにいる意味もなくなってくる。『生還者』はすぐにでもここを暇しようと考えた。

「まぁ、お待ちください」

 と、立ち上がろうとする『生還者』を榊原が止めた。

「先程言ったように、この事務所は十年前の殺人鬼・笹沼昇一の元事務所で、なおかつ私自身も十年前に『白神事件』にも関与しています。ですから、先日起こった第二の『白神事件』については当初から興味を持っていましてね。どうでしょうか、せっかくのご縁ですし、同じ事件を調べている者同士、事件について少しお話しするというのは?」

 『生還者』はあまり乗り気ではない返事をした。正直、あまり話したくないというのが本音である。露骨に嫌な顔をしたのが相手にもわかったかもしれない。

 ところが、榊原はそんな『生還者』の態度に怒る事もなく、小さく首を振った。

「ご安心ください。私としても、あなたに何かを話してもらうつもりはありません。実はあの事件を管轄した奥多摩署には、警視庁時代に合同捜査をした事がある人間がいましてね。今でも時々事件についてのアドバイスを聞きに来る事があるんですが、まぁ、その縁であそことは今もつながりがあるんですよ。それで、今回の事件の報道が流れた際に、興味を持って彼に連絡してみたんです」

 その言葉に、『生還者』は驚いた表情をした。この男は警察の事件にも関与しているというのだろうか。

「無報酬のボランティアのようなものですがね。言ってみればアドバイザーのようなものですよ。それはともかく、今回の事件について詳しい話を聞かせてくれないかと聞いたところ、いつもアドバイスをもらっている礼という事で、教えても支障がない範囲で事件についての情報をもらえましてね。そんなわけで、事件に関しての情報は概ね理解しているつもりです」

 そう言うと、榊原は『生還者』をじっと見据えた。温厚そうな表情をしているが、まるで蛇に睨まれたような錯覚にとらわれ、『生還者』は動けなくなる。

「それで、今回の事件に関して私なりにいくつか仮説を立ててみたのです。ですから、独自に事件を調べておられるあなたに一度仮説を聞いてもらって、私の推理が合っているかどうかを検証してみたいのです。事件の早期解決につながるかもしれませんし、できればご協力を願いたいのですが」

 物腰は丁寧だが、どこか有無を言わさぬ口調だった。その迫力に押されて、『生還者』は思わず首を縦に振ってしまう。

「ありがとうございます」

 そう言われて、『生還者』はソファに座り直す他なかった。

 だが、こう言っては何だが、警察も事件の詳しい内容については理解できているとは思えない。関係者は自分を除いて全員死亡している上に、自分も詳しい内容を話していないからだ。

「それがですね、これは極秘の情報なのですが、警察は現場からある重要な証拠物件を発見したそうなのです」

 意味ありげな言葉に、『生還者』は顔を上げる。それを確認した上で、榊原は話を進めた。

「ある場所から発見された手帳なのですがね。そこにある程度までの事件の全情報が記録されていたとの事なんです。執筆者は被害者の一人である矢守昭平という男性。この事件を調べているなら、あなたもご存知かとは思いますが」

 『生還者』が小さく頷くのを見ると、榊原は言葉を続ける。

「手帳には生存者が残り四人になって、一人が離脱し、一人が低体温症で倒れたところまで記録されていました。その後に何があったかは知る由もありませんが、少なくともその時点までの状況については克明に知る事ができるんです」

 そう言うと、榊原はソファから立ち上がり、デスクに放置された携帯電話の横に無造作に置かれていた一冊のファイルを持ってきてテーブルの上に広げた。

「さすがに原本は見せてもらえませんでしたが、手帳の内容に関しては聞く事ができましてね。私も必死にメモを取りまして、それをまとめたものがこれになります」

 『生還者』は驚きを通り越して呆れ果てていた。

「このくらい事件を解決するためなら何でもない作業ですよ」

 榊原は自慢するでもなく淡々と言うと、ページを広げる。

「この手帳の記録に従えば、事件の大まかな流れが理解できます。登場人物は十名。矢守昭平、小里利勝、雨宮憲子、藤沼明秀、宮島真佐代、瀬原麻美、月村杏里、時田琴音、土方邦正、須賀井睦也。あと、事件前にすでに事故死しているようですが、柴井達弘という男もいたようですね」

 榊原はすらすらと名前を列挙していく。

「事件は須賀井という男がバスをジャックして、そのバスが崖下に転落したところから始まります。生き残った十名は白神村に避難。その翌日、最初の惨劇が起こったようです」

 その通りだ、と『生還者』は心の中で呟いた。避難していた村上家の便所の中に土方運転手の首なし遺体が転がり、さらに離れからは宮島真佐代の生首が見つかった。

「その後、この手帳によれば、時田琴音、須賀井睦也、瀬原麻美、藤沼明秀の順番に次々と殺害。最後に残ったのは執筆者の矢守昭平以下、小里利勝、雨宮憲子、月村杏里の四人で、雨宮憲子がパーティーから離脱し、月村杏里が低体温症に陥ったという事みたいですね」

 『生還者』は思わず唾を飲んでいた。『生還者』はその後の事もよく知っている。雨宮憲子があの離れの入口で殺され、小里利勝の断末魔が響き、月村杏里が身動きできないまま殺害され、そして、矢守昭平は……。

「さて、いずれにせよこの手帳に書かれた事件の流れを見る限り、この事件はどう考えても殺人事件です。そして、殺人事件である以上は必ず犯人がいなければならない」

 榊原はじっと『生還者』を見つめる。

「となると、可能性は二つです。犯人がバスジャックの関係者の中にいるか、それとも彼らとは関係のない第三者が村に侵入して事件を引き起こしたか。この手帳には『イキノコリ』という興味深い噂話が書かれていていますが、まぁ、順当にまずは内部犯の可能性について検証してみましょうか」

 榊原は『生還者』と対峙しながら推理を開始する。一方、『生還者』は不気味なものを感じていた。この男はこの事件とは一切関係がないはずである。にもかかわらず、なぜかこの男に得体の知れないものを感じ取っていたのだ。

「当然ながら、死んだ人間が殺人を起こす事などできません。したがって、死んだ人間は犯人から除外できます。そこで、誰が死んで誰が死んでいないのか、この区別が重要になってくる」

 そこで、榊原は『生還者』を見据えた。

「実は、これは一般公表されていない極秘の情報なのですがね。この事件にはどうも『生還者』がいたようなのですよ。さすがに警察も誰とは教えてくれませんでしたが、ね」

 その言葉に緊張する『生還者』を知ってか知らずか、榊原は論証を続ける。

「まず、この事件の『生還者』……誰かはわかりませんが、とりあえずその人物は間違いなく生きている。一方、この手帳に書かれている範囲で死亡が確実視されているのは、土方、宮島、時田、須賀井、瀬原、藤沼の六名。つまり、彼らは犯人ではありえない。簡単な論理構造です」

 ということは、と榊原は言葉を続けた。

「逆に言えば、残り四人の中に犯人がおり、なおかつ『生還者』もこの残り四人のうちの誰かだという事になる。具体的には矢守、小里、月村、雨宮の誰かですね。そこで、この論理に従うならば『生還者』がこの四人の中の誰になるのか、という事についてまず推論します。そこで重要になるのは、実際に白神村で誰の遺体が……具体的には残り四人のうち誰の遺体が見つかったのか、という事です」

 『生還者』は息を飲んだ。この男の事だ。どうせすでに警察に聞いているに違いない。案の定、榊原はあっさりと答えを告げた。

「警察に確認した結果、この四人の中で発見された遺体は、雨宮憲子、月村杏里、矢守昭平の三体だったそうです。雨宮憲子は村上家の離れの前で喉を斬られ、月村杏里は村上家の部屋の一室で惨殺され、矢守昭平は森の中で頭を砕かれていたそうです。そしてただ一人……小里利勝の遺体は村の中からは発見されなかった」

 榊原は結論付ける。

「つまり、先程の理論でいけば『小里利勝』こそがこの事件で唯一生死不明な存在であり、そうなると『生還者』の正体は『小里利勝』以外にありえなくなる。何しろ、手帳の記述から他の人間が全員死んでいるのは間違いないのですから。ここまではいいですか」

 『生還者』は答えなかった。まずは、榊原の考えを聞くのが先決だと判断したらしい。榊原は構わず続ける。

「さて、先程の理論が正しいなら犯人は生存者の中にいなければならない。つまり、疑いが『生還者』に向くのが必然です。では、『生還者』が犯人なのか。それは仮に先程の推論通り『生還者』の正体が『小里利勝』ならば、『小里利勝』に犯行可能かという問題に置き換えられる。そこで、実際問題として『小里利勝』に犯行が可能だったのかどうかを考えてみました」

 そこで一度言葉を区切ると、榊原は首を振った。

「結論から言って、『小里利勝』に犯行は不可能です。ネックとなるのは六番目の藤沼殺し。犯行はわずかな時間で行われ、この時間、『小里利勝』には矢守昭平とずっと一緒にいたというアリバイがある。なおかつ、後半にはこのアリバイに雨宮憲子まで加わっている。いくらなんでも、この状況で人知れず藤沼明秀を殺すのには無理があります。つまり、藤沼殺しに関しては『小里利勝』に犯行は不可能と断言できるのです」

 そう言ってから、榊原は次の推論へと話を続ける。

「では、藤沼殺しだけが別人の犯行で、あとは『小里利勝』の犯行であるという可能性はないのか。私は、この可能性は低いと思っています。たった十人しかいないのに、その中に二人も殺人鬼がいる可能性は相当低い。犯行形態などから考えても、私はこの事件は同一犯による犯行と見て間違いないと考えています。したがって、『小里利勝』が犯人である可能性はここで完全に抹消される」

 そう言ってから、榊原は少し深刻な表情をした。

「ですが、そうなると論理がおかしな事になります。犯人は殺害された人間ではありえない。だが、唯一の『生還者』である『生還者』が『小里利勝』だとすると、『生還者』が犯人である可能性は抹消されてしまう。残る九人は全員殺害されているので犯人ではありえない。犯人がいなくなってしまうんです。殺人事件である以上、犯人がいないという結論はありえません。以上から、この考え方はここで論理破綻してしまうことがわかる」

 榊原は結論付けた。

「よって、考え方を改める必要性が生じます。すなわち、この論理そのものが根本から間違っている可能性です」

 その言葉に、『生還者』の表情が再び緊張する。果たして、榊原はこう告げた。

「論理破綻を防ぐための考え方は二つ。つまり、『生還者』が『小里利勝』であるという考え方そのものが間違っているか、あるいは、そもそも十人の中に犯人がいるという考えが間違っているかです。ですが、そう考えても別の論理破綻が生じてしまう。『生還者』が『小里利勝』でないとすれば、『生還者』の正体は残り九人の中の誰かです。だが、手帳の記述から残り九人は全員死亡が確実。つまり、残り九人のうち誰かが実は生きていたという事実でも浮かばない限り、『生還者』が『小里利勝』であるのはどうあっても動かせない。また、犯人が外部から村にやってきたという推理もナンセンスでしょう。犯人は間違いなく村に逃げ込んだ十人の中にいる。この前提条件は覆りません。結局、どう考えてもどこかで論理破綻が生じてしまうんです」

 そう言ってから、榊原はこう言い添えた。

「ですから、さらに前提から疑ってかかる事にしました。すなわち、本当に村に逃げ込んだのはこの手帳に書かれた十人だけだったのか」

 その言葉が発せられた瞬間、事務所の中に重い沈黙が支配した。『生還者』は何も言わないまま榊原を見つめる。

「つまり、手帳に書かれている十人以外の第三者が最初から村に逃げ込んだメンバーの中に存在していたとすれば、犯人が十人の中のいずれかであるという事を考えずにすむ。『生還者』の存在も、十人の誰かに限定する必要がなくなる。どうでしょうか」

 『生還者』は呆れたように首を振った。前提を覆しすぎである。村に逃げ込んだのは間違いなく十人の人間だ。それ以上、誰かが一緒にいたという事はありえない。それは『生還者』自身がよく知っていた。

 しかし榊原は小さく笑うと、『生還者』の反論にあっさりと頷いた。

「ええ、村に逃げ込んだのは十人。私もこの絶対人数を覆す気はありません」

 言っている事が矛盾している。犯人は十人以外の第三者として最初からメンバーと一緒に逃げ込んだといいながら、その十人という絶対数は変化しないという。論理矛盾を通り越して、論理破綻と言い換えてもいいかもしれない。白けた空気がその場に漂った。

 が、榊原はそんな空気も意に介すことなく推理を続ける。

「いえ、私が言いたいのは『犯人は手帳に書かれている十人以外の誰か』であり、なおかつ『その十人』の中にいるという事、すなわち」

 榊原はずばり核心に踏み込んだ。

「犯人が、最初から誰かの名を偽って十人の中に紛れ込んでおり、犯行後にその人物の遺体と入れ替わった可能性です。これなら絶対人数が十人でも、十人の誰でもない『第三者』がメンバーの中に紛れ込む可能性が出てきます」

 その一言に、その場の空気が白けたものから一気に緊張したものに切り替わる。『生還者』は無言のまま榊原を見やった。

「つまりです、犯人は事件が起こる前……もっと言えばバスに乗る前からあらかじめ十人の中の誰かと入れ替わっていた。そして、自分が演じていた『誰か』を『殺した』際に、あらかじめ入れ替わっていた本人の遺体を捨てて自分の存在を消した。そう考えれば、すべてに辻褄が合うんですよ」

 そう言いながらも、榊原の目は鋭く『生還者』を睨みつけている。それで『生還者』は直感した。この男は、自分を疑っているのではないか。自分の事を『生還者』だとわかっているのではないか、と。だが、そんな事をおくびにも出さず、榊原は検証を続けていく。

「つまり、問題の十人の中には、一人偽者がいるはず。ちょうど、雨宮憲子が偽者と思われたようにです。この理論なら誰が犯人であっても問題はない。文字通り、全員が犯人となりえます。では、この十人の中で間違いなく本人であるといえるのは、つまり犯人でないといえるのは誰なのか」

 榊原は指を立てていく。

「まず、運転免許証を出して本人であることが確認されている雨宮憲子は本人だったと見て間違いないでしょう。また、バスの転落直後に小里利勝に予備校の学生証を確認されているバスジャック犯・須賀井睦也の身元も容疑から外れます。さらに、犯人が最初から『誰か』と入れ替わっていて『自分』が殺された際に本人の遺体と入れ替わったとするなら、殺された後の遺体と殺される前の容姿は一致するはずがない。つまり、関係者たちが自分で直接身元を確認できた人間……事件進行当事に遺体の顔がはっきりしていた人物は除外される。ここから、遺体発見時に頭部が残っていて本人であることが一緒にいたメンバーたちによって確認された宮島真佐代、藤沼明秀、瀬原麻美の三名も除外される。つまり、容疑者はこの手帳の執筆者である矢守昭平、遺体が見つかっていない小里利勝、手帳に殺害描写の書かれていない月村杏里、発見時に頭部が明確に確認されず状況証拠から本人と判断された土方邦正、時田琴音。以上五名に限定される」

 榊原いったん息をつくと、再び話し始めた。

「次に別の側面から見ていく事にしましょう。つまり、遺体を入れ替えるにしても、その入れ替わっていた本人の遺体はどこから出てきたのか。この事件は、バスジャックという犯罪の延長線上に起きています。つまり、白神村に逃げ込む事になるなどというのは犯人にとっても予想外の事なんです。当然、それを見越して遺体を村に持ち込むなどできるはずがない。にもかかわらず遺体トリックが成立したとすれば可能性は一つ。犯人は、何らかの理由で入れ替わった相手の遺体をバスに持ち込んでいたというものです。しかもものが路線バスですから、犯人は遺体の入った何かを直接所持するしかない。以上を考えた上でこの手帳の記述を見ると、乗客の荷物の中で人間の遺体を入れる事ができるものなど一つしかありません」

 榊原は告げる。

「事故の際に死んだ柴井達弘のゴルフバッグです。そして、柴井は持っていた手帳の記述から、当日『孔明』なる人物と何かをしようとしていた事は明白です。ここまで言えば、私の言いたい事もわかると思いますが」

 『生還者』は息を飲んだ。榊原は手札の一枚を切る。

「つまり、柴井と犯人こと『孔明』は共犯で、バスジャック前に何らかの理由で『誰か』を殺害していた。そして、『孔明』である犯人がその人物に成りすました上で、柴井が遺体をゴルフバッグに入れてバス内に持ち込んでいた。そこでバスジャック事件が起こってしまい、柴井が死亡。生き残った『孔明』はそのゴルフバッグの遺体を利用して自らの存在を消し、あの大殺戮を行った。そんな流れだったのではないかと思っているのですよ」

 そして、榊原はいよいよ事件の核心へと向かっていく。

「さて、そうなるとここで疑問が一つ。状況的に遺体があったのはゴルフバッグの中です。ですが、手帳の記述によると柴井のゴルフバッグの中身は『ある人物』によって点検されています。にもかかわらずその人物は異常がなかったと言っている。しかし、論理的にゴルフバッグの中に『誰か』の遺体があったのは間違いなく、ここで大きな矛盾が生じてしまう。この矛盾を解決する理論は一つだけ。すなわち、その点検した人物こそが『孔明』であり、遺体があったにもかかわらず白を切ったという可能性です。そして、その人物の名前は手帳にはっきりと書かれている」

 榊原ははっきりとその名を告げ、そのまま『生還者』に厳しい視線を送った。

「運転手の土方邦正……否、土方邦正を名乗って十人の中に紛れ込んだ第三者の誰か。今回の白神村の事件の真犯人は、彼だと思っているのですが、どうでしょうか。ぜひともあなたの意見を聞かせてもらいたいですね」

 その言葉に、はっきりと『敵意』が含まれているのを、『生還者』……否、あの村では土方邦正を名乗っていた男は、全身で感じ取っていた。

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