事件編第二章 廃村

「う、う……」

 矢守は呻き声を上げると、うっすらと目を開けた。

 全身の節々に痛みが走る。視界は薄ぼんやりしていて、頭もそこまで活性化していない。しばらくは何がどうなっているのか認識する事さえできず、その場で呆けていた。

 やがて、自分が地面に仰向けに倒れているという事を認識する。降り続ける豪雨が自分の体を濡らし、体中が汚れきった状態だ。

 矢守は上半身を起き上がらせた。痛みが走るが、骨折などはしていない様子である。この大雨で地面は泥状になっている。どうやら、自分はバスから放り出され、軟らかい泥の上に落ちたらしい。想像以上に怪我が軽いのはそのせいのようだ。とはいえ、無傷というわけにはいかないようで、体のあちこちに打ち身があり、細かい切り傷も確認できる。何にしても、命に別状はなさそうだ。

 矢守はよろめきながら立ち上がると、手近に落ちていた木の棒を杖にしてゆっくり歩き始めた。周囲はうっそうとした木々に覆われている。

 バスはどこに行ったのだろうか、というのが、矢守が最初に思った事だった。が、その木々の間から一瞬赤いものが見え、矢守はそちらに向かった。

 矢守が倒れていた場所から三十メートルほど行った場所だろうか。木々の間にそれはあった。周りの木々を押し倒すようにしながら、滅茶苦茶に大破したバスらしき鉄の塊が横たわっている。どうやら横倒しになっているようではあるが、ほとんど原形をとどめていないため詳しい事はわからない。車体の後方部から地面に激突したらしく、後部座席の方の損傷が激しい。

 そして、車体の前にはすでに何人かの人間が集合していた。

「ああ、ご無事でしたか」

 と、その中の一人がこちらに気がついて声を出す。先程犯人と激しくやり合っていたこのバスの運転手だった。帽子はどこかに飛ばされたのか被っていないが、その表情には安堵が浮かんでいる。

「お怪我はありませんか?」

「とりあえず、命に別状はなさそうです。運転手さんは?」

「思った以上に平気ですね。バスが後ろから落ちたせいで、前の座席にはあまりダメージがなかったようです」

 運転手はそう言いながらため息をつく。改めてその場にいるメンバーを確認してみると、キャリアウーマンらしき女性と、女子高生二人組、それにスーツに眼鏡の男性だった。さらに、あの人質になっていた中学生が、目を閉じたまま地面に寝かされている。相変わらず豪雨が降り続けているので、全員雨を避けるために近くの木の下に避難していたが、それでも雨を完全に防ぐまでにはいたっていない。ゆえに全員ずぶ濡れである。

「他の方々は?」

「わかりません。放り出された方も何人かいるようで」

「その子は?」

 矢守が横になっている中学生を見ながら聞く。

「命に別状はなさそうです。単純に気絶しているだけですね」

 これに対してはキャリアウーマンが答えた。訝しげな表情になる矢守だったが、

「失礼しました。八王子西部病院で看護師をしています、宮島真佐代といいます」

 という女性……真佐代の自己紹介を聞いて納得した。

「病院の方でしたか」

「あなたは?」

 逆に聞かれて、矢守は名乗る。

「都内の学習塾で数学の講師をしています、矢守昭平です」

「矢守さん、ですね。運転手の土方邦正です。この度は本当にご迷惑をおかけします」

 と、運転手……土方が自己紹介しながら頭を下げる。

「そうだ、あのバスジャック犯は?」

「バスの中には見当たらなかった。どこかに放り出されたか、あるいは私たちが起きる前に目覚めて逃げたか……」

 スーツ姿の男が告げる。

「あなたは?」

「失礼。東京地裁八王子支部で事務官をやっている、藤沼明秀だ」

 スーツの男……藤沼が挨拶した。

「裁判所の方?」

「何の因果かこんなバスジャックに遭遇してしまって。言っておくが、こんな場所では裁判所事務官など何の役にも立たないよ」

 藤沼は険しい表情で言う。

「そちらのお二人は?」

 ついでなので、矢守は女子高生二人組にも確認を求めた。

「光蘭女学院高等部の二年の月村杏里です。こっちが同級生の瀬原麻美」

 真面目そうな方……杏里がそう答えた。紹介された茶髪の子……麻美は心底参った様子でうつむいている。

「それから、そっちの子は時田琴音っていう名前みたいですね。さっき簡単な応急処置をしたときに持っていた生徒手帳を確認したんですけど、牧原中学という中学校の一年生みたいです」

 真佐代が言い添える。中学生……琴音は相変わらず眠ったように起きない。

「それで、亡くなられた方はおられないんですか?」

「いや」

 藤沼が答えた。

「あのバスの最後尾を見てみろ」

 矢守が目を凝らすと、滅茶苦茶になった車体から手のようなものが覗いているのが見え、思わず肝を冷やす。よく見ると、その周囲には血らしきものまで付着している。

「あ、あれは……」

「最後尾に座っていたゴルフバッグの人がいただろう。残念だが、助からなかったみたいだ」

 藤沼が悔しそうな顔をする。

「一応脈も診ましたが、駄目でした。車体後部から墜落したので、その衝撃をもろに受けたんだと思います」

 真佐代が解説する。

「確か、あと髭面の男性と黒縁眼鏡の女性がいましたよね」

「あの二人はわからない。バスの中にもいなかった。肝心のバスジャック犯もな」

 重苦しい沈黙がその場を支配する。

「連絡……できるわけありませんよね」

 矢守が呟く。

「全員の携帯とバスの無線はやつに壊されているからな。おまけにこの雨だ。そもそも道路の交通が制限されている可能性が高いし、救助があるにしても相当時間がかかる」

「第一、我々がここにいること自体誰も知りません。助けは来ない、と考えるべきでしょうね」

「となると、ここに留まるのは自殺行為か」

 藤沼が上空を見上げる。相変わらず雷鳴が鳴り響き、時々落雷もしているようだ。

「やむ気配もないし、このまま木の下にいれば、いずれ雷に打たれる危険性がある」

 藤沼の言葉に、真佐代も付け足した。

「だからといって雨ざらしのままだと、怪我で体力のない我々にとっては致命的です。いずれ低体温症に襲われる危険性も」

「どっちにせよ、このまま野外で雨ざらしのままというのは危険なわけですか?」

 土方が青ざめる。

「普通の事故なら事故現場で救助を待つのが鉄則だが、今回はその救助がいつ来るかわからない。そして、それを待っていたらどの道我々は死ぬだけだ」

「どこかに避難しないと……洞窟か何かがあれば一番いいんですが」

 真佐代が言う。

「あの、落下した崖を上れないんですか?」

 矢守の問いに、藤沼が即答した。

「無理だな。さっき一瞬小降りになったときに目視確認したが、あの崖、ザッと見た限り十メートルはあった。上るのは無理だ。それに、ここはあの崖から五十メートルほど離れた場所なんだが、そこに行き着くまでにいくつもの段差があって、とてもじゃないが近づく事すらできなさそうだ」

「そんなに飛ばされたんですか?」

「勢いがついたまま突き破ったからな。落ちた後、木をなぎ倒しながらしばらく泥の上を滑走したらしい」

 よく見ると、視界が悪くてよく見えないが、バスの残骸の向こうにも倒された木々の道が見える。あの向こうに崖があるのだろう。

「で、これからどうするかだが……」

 藤沼が発言しかけたときだった。

 不意に、ガサリと背後の草むらが揺れた。

「誰だ!」

 藤沼が鋭く言う。

「お、無事だったか」

 相手はそう言うと、草むらからひょっこり顔を出した。

「あんたは……」

 行方がわからなかった髭面の男性と黒縁眼鏡の女性だ。

「いやぁ、ずいぶん遠くに放り出されたみたいでね。結構歩いたなんのって」

 男が努めて明るく言う。

「おっと、自己紹介しとこうか。小里利勝。フリーのルポライターをやってるよ」

「……雨宮憲子」

 後ろの女性もボソボソと自己紹介する。

「全員無事かい?」

「最後尾にいたゴルフバッグの男は駄目だった。あとは、肝心の犯人がどこにいるのかだ」

 藤沼が不機嫌そうに言う。が、小里はそれに対してこう答えた。

「ああ、それなら問題ない」

 そう言うと、茂みの中から何かを引っ張り出した。

「う……」

 それは呻き声を上げる。

「こいつは……」

 全員の表情が険しくなった。この大惨事の張本人であるあのバスジャック犯が、後ろ手で縛られながら転がっているのである。

「俺らのすぐそばに放り出されたみたいでな。とっさに捕まえておいた。もっとも、足を骨折しているらしくって、もう自分で動くことはできないようだがな」

 見ると、確かに右足が不自然に曲がっている。

「この紐は?」

「カメラの紐さ。カメラ本体は壊れちまって捨ててきたけどね。フィルムも感光して使い物になりゃしない」

 小里は気楽に答える。

「それと、こいつの身元も調べておいたよ。ご丁寧にポケットに学生証を入れてやがった。ええっと……」

 小里は自分のポケットからカードらしきものを取り出して読み上げる。

「名前は須賀井睦也。都内の予備校の学生……ま、浪人生だな。何でバスジャックなんかやらかしたかはわからないが」

 犯人……須賀井は唇を噛み締めてそれを聞いている。

「さて、こいつどうするね」

「……連れて行くしかないでしょう。放っておくわけにもいきませんし」

 土方はため息をついた。

「とにかく、これで全員ですね」

「全部で十人。これからこの十人でサバイバルという事か」

 藤沼が呟く。

「私たち、これからどうなるんですか?」

 杏里が誰ともなしに不安そうに尋ねる。

「とにかく、どこかに雨宿りできる場所を探さないと。話はそれからです。宮島さん、その時田という子はいつ起きそうですか?」

 土方の問いに、真佐代は答えた。

「わかりません。でも、そろそろ起きてもいいはずです」

「いくらなんでも、このまま担いでいくのは無理です。一刻も早く起きてもらわないと」

「でも、無理やり起こすのは……」

 真佐代がそう言ったときだった。

 琴音のまぶたがピクリと動き、ゆっくりと目が開かれた。

「よかった」

 真佐代がほっとしたような顔をする。一方、琴音は相変わらず無表情のまま起き上がると、ゆっくり辺りを見回している。

「大丈夫?」

 真佐代が呼びかけるが、琴音は緩慢な動作で頷くだけだ。言葉は一切発しない。

 ここにいたって、矢守はこの無表情な中学生に違和感を覚えた。この少女、須賀井に人質に取られたときも一言も言葉を発せず、表情を一切変えなかった。

 そう、彼女は一切感情らしい感情、声らしい声を出していないのである、これだけの非常時であるにもかかわらずである。

 皆もそれに気がついたらしく、やがてその表情が不審になっていく。

 その表情を読み取ったからだろうか、琴音は着ていた服のポケットからゆっくりした動作で何かを取り出した。何か一枚の紙である。

 代表で真佐代が受け取る。開くと、それは診断書のようだった。

「……そういう事か」

 真佐代が呟く。

「何ですか」

「この子、運動性失語症みたいです」

 全員が顔を見合わせた。

「運動性失語症?」

「失語症はご存知ですか?」

「まぁ、一般的には」

「失語症には二種類あります。一般的に認識されているのは脳が言語を理解できない感覚性失語症ですが、もう一つの運動性失語症は、脳で言語理解はできても自発的に言語を表現することができないタイプのものです。この子は、その運動性失語症のようですね」

 その場がざわめいた。

「つまり、我々の言っている事は彼女には理解できているが、それを表現する事ができないと?」

「ええ。おまけに、それの影響かどうかはわかりませんが、彼女は表情を作る事もできないとここには書いてあります」

「表情を作れない?」

「喜怒哀楽、それを感じる事はできても、それを顔で表現する事ができない。きわめて珍しい病状ですが……」

 だから、彼女は声も出さなければ表情も変化しない。説明されてみれば納得できる話だが、こんな状況ゆえに何とも言えない不安感をかもし出してしまう。

「待ってくださいよ。では、彼女はどのようにコミュニケーションを?」

「どうも、手話と筆談が主だったみたいですね。でも……」

 真佐代はバスを見やる。

「筆談道具は全滅、か」

「となると手話ですが、この中で手話ができる人はいますか?」

 誰も手が挙がらない。

「真佐代さんは?」

「私も駄目ですね。耳鼻科の人とかならできるかもしれませんが、私は外科ですので。そもそも、手話ができる人が少ないことから彼女も筆談を主軸にしていたようですし」

 真佐代がため息をつく。

「となると、彼女からの意思伝達手段がない?」

「少なくとも、この状況下ではどうしようもありませんね。この土砂降りでは地面に文字を書いてもすぐに消えてしまうでしょうし。まぁ、彼女自身は周りの状況を理解できているので、とりあえず問題はないと思いますが。それにイエス、ノー程度なら首を振ることで表現できるようですし」

 そう言うと、真佐代は琴音に現在の状況と各々の身分を説明した。琴音はしばらくそれを聞いていたが、やがて小さく頷いた。

「さてと、移動するなら早い方がいい。時間が長引けばその分状況も悪化する。体力があるうちに動いておくべきだ」

 小里が提案する。

「でもどこに……」

「道路のある崖の方へは行けそうか?」

 小里の問いに、藤沼が首を振った。

「道路に戻るのが一番いいんだが、それができないとなると……」

「洞窟か何かがあれば一番いいんですが……」

 矢守が発言する。

「闇雲に歩いても遭難するだけだ。ある程度の方針は決めておかないと。この辺で一番近い人工物は?」

 藤沼が土方に尋ねる。

「そうですね。場所はわかりませんが、ダムがどこかにあるはずです。この大雨なら、間違いなくダムの職員がいるはずですが」

「ダムの事務所か」

「ただ、場所がわかりません。何しろ、私もこの辺りは来たことがありませんから」

 土方が申し訳なさそうに言う。普段八王子市内で路線バスを運転しているのだから当然ではある。

「でも、そう言えば運転している途中で森の向こうに川を見たような」

「それだ」

 小里が言葉を挟む。

「とりあえず川に出よう。そこから上流に上がればいずれはダムに行き着く」

「でも、この雨では間違いなく増水していると思うんですけど……」

 杏里が遠慮がちに言う。

「やっぱり、この場にとどまった方がいいんじゃ……」

 その瞬間だった。突然轟音とともに視界が真っ白になった。

「な、何だ!」

 誰かが叫ぶ。直後、近くにある木が炎上した。

「どうも、そうも言っていられなさそうだぞ」

 小里が発言する。

「落雷か」

「それに、この当たりの地盤を見ろ。あちこちにひび割れが起こっている」

「それが何だって言うのよ!」

 不意に、今まで押し黙っていた麻美が叫んだ。いきなりこのような非日常の事態に巻き込まれて、精神が不安定になっている様子だ。それに対し、小里が言い含めるように答える。

「いいか。森の中頃に川があったということは、この辺は川に向かって傾斜しているということになる。この雨で地盤が緩んでいるところにバスが突っ込んで大きな衝撃が地面に伝わった。下手をしたら、この辺一帯の地盤が崩れて、大規模な土砂崩れが起こるぞ。ひび割れはその前兆だ」

 その言葉に、全員の表情が青ざめた。

「いずれにせよ、この場にいるのは危険という事ですね」

「一刻も早くここを離れた方がいいのは間違いないな」

 矢守の言葉に小里が頷く。

「土砂崩れを回避するためにいったん今いるゆるい地盤の土地を大きく迂回して、そこから川を目指す。川が見えてきたら一定程度の距離をとりながら上流を目指す。大まかに言ってそれが一番の方針だ。そこまでいかなくとも、途中で雨宿りができそうな岩陰や洞窟があれば、そこに逃げ込めばいい」

「決まりだな」

 藤沼が決断した。

「すぐに動こう」

 全員頷くしかなかった。


 雷が鳴り響き、豪雨で一歩進むのも大変な中、十人の人間が木々の間を行進していく。すでにちらりと見えていた道路も見えず、完全に遭難状態である。

「あの道路は、確か五年ほど前にできたんだったか」

 小里が呟く。

「土砂崩れで旧道が通れなくなって、大きく迂回する形で造られたという事を聞いたことがある。旧道から大きく迂回したものだから今まで人が立ち入ったこともない奥多摩の山間部を貫く形になったとか。環境破壊云々でどこかの保護団体が裁判所に訴えたから私も覚えているんだが」

「つまり、道路の近くに人家は一切ない、と。ますます泣きたくなるような状況だな」

 小里が首を振る。

 何しろ人が通ったことのない場所ゆえに道らしき道がない。よくても獣道で、障害物があったりして思ったように進めていなかった。さらに土方が確認したところバスに備え付けられていた非常用の懐中電灯も事故の衝撃で壊れてしまっていたらしく、携帯が壊されているこの状況下では他に光源らしい光源もないため、ただでさえ進行困難な薄暗い森の中を明かりすらない状態で進まざるを得ない状況に追い込まれていた。

 出発から二時間近く経つが、雷と豪雨の影響でなかなか進めず、停止と進行の繰り返しを延々と続けている状態である。なので、実際にはそれほどの距離は進んでいないはずであり、全員が疲れ果てていた。何しろ各々の傘はバスの中で滅茶苦茶になっている状態であり、ほとんど全員がびしょ濡れの状態である。

 もちろん、このまま元の場所に戻れなくなるのもそれはそれで問題なので、土方が時々近くの木に真佐代が持っていた包帯を巻いていくという事を繰り返し、いざとなったら引き返せるようにはしてある。

 とはいえ、当初の目標である川にさえ到達しておらず、見えてくるのは天を覆い尽くさんばかりの木々だけ。はっきり言って絶望的だった。

「くそっ! 何もかもこいつのせいだ!」

 小里は自分が支えている須賀井を見ながら毒づいた。足を骨折しているので自分では歩くことができず、かといって置いていくわけにもいかないので小里が体を支えている状態だ。もっとも、彼がいるために行進が遅くなっているという事は否定できないのではあるが。

 その須賀井はさっきから一言も発せず、ただひたすらにうつむいてうなだれている状態だ。刃物は事故の衝撃でどこかに飛ばされたらしく、今となっては完全に無害であるが、何を考えているのかわからないという点では変化ない。

 女性陣は先程から全員押し黙ったまま歩き続けている。元々男性ほど体力がない上に、全員こんな山登りなどした事がない人間ばかりであるため、歩く速度も鈍い。そうは言っても、この中で登山経験があるのはライターの小里くらいなもので、あまり男女の大差はないのだが、それでもまだ男性は体力がある。

 矢守は、そんな他のメンバーを見ながら注意深く周囲を見渡し、どこかに休める場所はないかどうかを確認していた。もうすでに足は限界近くに達しているが、ここでへばったら助かる見込みはない。

「とにかく、夜までにはどこかに着かないと」

 小里が呟くのが聞こえる。先述したように懐中電灯などというものはなく、火もこの雨では使えまい。つまり、夜になると完全に動きが取れなくなってしまうのだ。

「時間わかるか?」

 藤沼が矢守に尋ねる。が、矢守は首を振った。

「事故の衝撃で腕時計は壊れてしまいましたから」

「私も同じだ」

 どうやら、時間を確認する術もないらしい。

「果たしてあとどれくらい持つかだな」

 藤沼が険しい表情をしたときだった。

「あれ?」

 不意に後ろにいた杏里が声を上げる。

「あの子は?」

 振り返ると、女性陣の人数が足りない。慌てて確認する。

「おい、あの琴音って子はどこに行った?」

 藤沼が険しい表情で尋ねた。

「まさか、はぐれた?」

「いつの間に……」

 メンバーの間に動揺が広がる。

「そんな、さっきまでそこにいたのに」

 真佐代が顔を青くしながら言う。

「じゃあ、はぐれたのはついさっきという事ですよね。近くを探せば見つかるかも……」

「ここで分かれるのは危険だ」

 矢守の提案に、藤沼が厳しい表情をする。

「じゃあ、見捨てるって言うんですか?」

「全員の命が危険なんだぞ」

 確かに藤沼の言うことは正しいが、矢守は納得できなかった。

「でも……」

 その時だった。矢守の目に何か動くようなものが見えた。

「あ、あれ!」

 矢守が指差し、全員がそっちを見る。見ると、少し離れた木々の間に見覚えのある制服が見えた。琴音である。

「おい、こっちだ!」

 矢守が叫ぶが、琴音は気がついていないらしく、どんどんここから離れていく。

「追いかけます」

 返事を待つことなく矢守は駆け出した。まだそんな体力が残っている事に自分でも驚いたが、草木を掻き分け、琴音に追いすがろうとする。

 やがて、五十メートルほど進んだところで、ようやく矢守は琴音に追いついた。

「おい、君!」

 その言葉に、ようやく琴音は振り返る。相変わらず無表情で何を考えているかはわからないが、とりあえず矢守はホッとした。

「大丈夫か? みんなはこっちだ」

 そう言って手を引いたときだった。矢守の視界にあるものが入った。

「ん……」

 それは、直径一メートルほどの小さな穴だった。近くの岩肌に開いている穴で、奥に続いているようだ。

 簡単に言えば、小さな洞窟のようである。

「こんなところに洞窟が……」

 偶然とはいえ、思わぬ発見である。中がどれだけ広いのかはわからないが、少なくともこれで雨宿りの場所は見つかった。

「みんなに知らせないと」

 矢守は琴音の手を引くと、急ぎ足で皆のいる場所へ戻る。

 だが、いざ戻ってみると、そこには他のメンバーの姿はなかった。

「どこへ……」

 と、その時茂みの向こうから誰かが戻ってきた。

「おーい、こっちだ!」

 小里である。

「どうしたんですか?」

「いや、思いがけないものを見つけてな。今、みんなでそっちを確認しに行ったところだ」

「思いがけないもの?」

「見た方が早い。この子も見つかった事だし、合流するのが先だろう」

 洞窟の事も気になったが、それ以上に彼らが見つけたものの方が気になった。

「わかりました」

「こっちだ」

 小里の先導で三人は木々の間を進んでいく。琴音の足が遅いため必然的にそれに合わせる形になるが、それでも五分程度歩くとその場所に出た。小高い斜面のようで、そこから斜面の下の方を眺める事ができる。他のメンバーはすでにそこにいた。

「ああ、連れてきてくれたか」

 藤沼が言う。

「何があったんですか?」

「あれだよ」

 藤沼が斜面の下の方を指差した。

 木々が生い茂るなだらかな斜面の下……そこには先程確認した川が流れていた。ここから見ても増水しているのがよくわかる。だが、問題はそこではなかった。

 その増水した川の傍ら、そこにこの場には似つかわしくないものが見えたのだ。

「あれは……」

 それは、何軒かの家の集まりだった。川に沿うような形でいくつかの家が固まって建っている。ちょっとした集落といった感じである。

「集落……ですかね」

「多分な」

「でもこんな山奥に? それに、明かりもついていないみたいですし、人気がなさそうですが」

 矢守はその家々を見ながら言う。

「上流のダム建設で住民がいなくなった廃村かもしれない。それか、ある一定の期間だけ人がいる類の集落とか。とにかく、人家があるのは間違いない。人がいなくてもあそこなら雨宿りができるし、もしかしたら助けが呼べるかもしれない」

 藤沼の答えに、矢守は考え込んだ。琴音には悪いが、どう考えても洞窟よりもましである。

「……行ってみますか?」

「それが最良だろうな。いずれにせよ、このまま雨ざらしというのはまずい。まずこの状況を何とかしないと」

 方針が決まり、すでに疲れきった様子の他の面々もノロノロと立ち上がる。ここからは十分もあればあの集落に着くだろう。

 と、不意に矢守の手が握られた。見ると、琴音がさっきからつないでいた矢守の手を握り締めている。表情は相変わらずだが、何か怖がっているようにも取れる。確かに、何とも不気味な集落であるので、中学生くらいの女の子にとってはあまり近づきたくはないだろう。見ると、隣の女子高生二人組もどこか青ざめた表情をしていた。

「大丈夫だよ」

 矢守はそう言って琴音を励ますと、そのまま歩き始めた。ただ、その言葉が琴音というよりも自身に向けられたものだという事を、矢守自身も薄々ではあるが実感していた。


 集落に近づくと、おおよその概観がつかめてきた。個人のものらしい家が四軒と、一際大きな建物が一軒。それに小さな箱型の建物が一軒。他にそれぞれの家に倉庫や蔵のような建物もあるが、それがこの集落の全貌だった。すべての建物が東西方向に流れる川の北側に建てられていて、川と建物の間にはアスファルトで固められた道路が走っている。その道路の南側はガードレールで区切られている。ガードレールの向こう側は三メートルほど土地が下がっていて、その下を増水した川が勢いよく流れていた。

 その道路は、集落を川に沿って東西に貫いているが、西へ行く道路が土砂崩れでふさがっているのはここからでもすぐに確認できた。反対に、東に行く道はそれなりに続いている様子であり、ここからはその先がどうなっているのか確認できない。

 だが、近づいてみても人の気配は一切しない。それどころか、集落の荒れ具合から見て長い間誰も来ていないのは明白である。どう見ても廃村の類であろう。

 矢守たちの一行は集落の一番東にある箱型の建物の裏手から集落に入った。建物の裏手には錆びた自転車が倒れており、相当長い間放置されている事がうかがい知れる。

「廃墟説が正しいようですね」

 土方が遠慮がちに言う。

「となると、助けを呼ぶのは絶望的か」

 小里が呟き、そのまま建物の横を通って表の道路に出る。

 道路はアスファルトで舗装されているものの、アスファルトを突き破ってあちこちから草が生えており、こちらも長い年月誰も足を踏み入れていないのは明白だった。すぐ横を流れる川がこの豪雨の中でもわかるほどの轟音を響かせながら流れている。

 振り返って箱型の建物の正面を見ると、ガラスが割れたドアがあり、その上に赤色灯らしきランプがついている。そして、その上に何かが書かれていた。前半は長年の風でかすれて読めないが、後半部分だけは何とか読む事ができる。

『※※交番』

 そう読めた。

「交番だって?」

 全員が顔を見合わせた。よく見ると、入り口のすぐそばにあるガラス張りの掲示板の上に『警視庁』の文字も見えた。掲示板には手配書らしきものが張られているが、何と書かれているのかこちらもはっきりしない。

「ここは交番だったのか」

 だが、交番の廃墟というのは何とも言えない雰囲気をかもし出すものである。須賀井を除いた四人の男たちは、意を決してスライド式のドアを開けた。

 鍵がかかっているかと思ったのだが、ドアは割とすんなり開いた。だが、それと同時にきつい臭いが漂ってきた。

「ウッ!」

 土方が呻く。

「何だ、これは?」

 藤沼も不快そうな表情をする。暗くて中はよく見えない。が、錆びた鉄の臭いというか、そんな臭いが矢守たちの鼻を突き刺したのだ。

 だが、この臭いに真っ先に反応した人間がいた。

「こいつは……」

 小里だった。彼は顔をしかめていたが、すぐに持っていたハンカチで鼻をふさぐと、前に出た。

「ひでぇ」

 徐々に暗さに目が慣れてくる。だが、それ同時に信じられないものが飛び込んできた。

「な、何だ、これは!」

 藤沼が思わず叫んだ。交番の床。そこに、どす黒い染みらしきものが大きく広がっていた。よく見ると、壁などにも細かい染みが付着しており、何よりその染みの周囲を人型の形にテープが張られている。

「そ、それは……」

「血だろうね。かなり古いが。同じようなものを昔取材で見たことがある」

 小里はあっさり答えた。

「しかもこの人型のテープ、警察が捜査した後だ」

「つ、つまり、殺人事件ですか!」

 土方が悲鳴に近い声を上げる。

「おい、だがここは交番だぞ。交番で殺人事件があったというのか?」

「わからんが……もしかしたらここは……」

 不意に小里は何かを思い出したような様子を見せた。藤沼が苛立ったように尋ねる。

「何か知っているのか?」

「いや、この辺りでそんな事件といえば一つしか知らなくて……」

「白神村」

 と、不意に後ろから声がした。振り返ると、先程雨宮憲子と名乗った黒縁眼鏡の女性が薄気味悪い笑みを浮かべながら床の血溜りを眺めていた。

「白神村……ですか?」

「この村の名前。多分そう」

 矢守の問いに、憲子は相変わらず笑みを浮かべながら答えた。

「その白神何とかって、何ですか?」

「『平成の八墓村』だ」

 答えたのは小里だった。

「そうだ、思い出した。この一件、一度取材をしたことがあったんだ。村そのものには入れなかったが……そうか、だから頭の片隅に残っていたのか」

「あの、何なんですか?」

 わけのわからない矢守に、小里は説明した。

「今から十年前、奥多摩の山中にある小さな村で前代未聞の大量殺人事件が起こった。被害者は村民全員。警察が駆けつけたときには二十名以上いた村人は皆殺しにされた後で、死体に囲まれて立っている殺人鬼しかいなかったそうだ。確か、犯人は遺族がいない裁判で死刑判決が下されて、今も収監されていたはず……」

「通称『白神事件』。その舞台となった村が、東京都白神村」

 憲子が後を続けて言う。

「まさか……ここがその大量殺人があった白神村だというつもりですか?」

 杏里が青ざめた表情で尋ねる。傍らの麻美は今にも気絶しそうな表情だ。

「おい、あんた何者だ?」

 藤沼が憲子に尋ねる。憲子は笑みを絶やさないまま、懐からぐっしょり濡れた名刺を差し出した。

『(株)オカルティズム出版編集者 雨宮憲子』

「オカルティズム出版?」

 聞き覚えのない会社名に、矢守は首をひねる。が、これには意外なことに杏里が答えた。

「確か、有名なオカルト雑誌の出版社だったと思います。中学のときの友達にそういうのが好きな子がいて、何回か見せられたことがあるんですけど……」

「なるほど。そういう雑誌なら、大量殺人の起こった村というのは絶好のネタだな」

 小里が呟く。

「ちょ、ちょっと待ってよ! まさか、そんな村で雨宿りする気なの!」

 叫んだのは麻美だった。

「やむをえないだろうな。この辺りで他に休めそうな場所はない」

「嫌よ! そうよ、交番なら連絡できる道具があるんじゃないの!」

 麻美も必死である。

「……多分、警察があらかた回収しているとは思うが、調べてみるか」

 その後、男性陣で入口付近を調べてみる事にした。どうやらここが仕事場だったらしいが、机や棚は空っぽで、電話すらない。

「奥は?」

「調べるのには勇気がいりますね」

 真佐代の言葉に小里は苦笑したが、調べないわけにはいかない。

 奥のドアを開けてみると、どうやらここにいた警官の居住スペースになっていたらしく、それなりに家具は残っていた。収穫だったのは、台所を探した際に防災用の懐中電灯が見つかった事だった。

「交番ならあると思ったんだが、ビンゴだな。防災用だけあって、まだ使えるみたいだ」

 探し当てた小里はそう言ってスイッチをつける。懐中電灯は何事もなく点灯し、とりあえず明かりが確保できた。また、油紙に包まれたマッチと蝋燭も見つかり、明かりの点は解決できそうである。さらに、錆びてはいたものの傘も数本確保できた。

「とはいえ、他には何もない上に全員入るには狭すぎるな」

 藤沼が呟く。プライベート用に使用していたと思われる旧式の固定電話もあったが、当然のように通じていなかった。

 一通り調べて全員外に出ると、早速手に入れた傘を強引に開く。雨足が強いためあまり役には立っていないが、ないよりはましである。

「いずれにせよ、この交番では全員が入るには狭過ぎる。もう少し大きな場所がいるな」

 全員の目が他の家に向く。が、麻美は強固に反対する。

「嫌よ、絶対に嫌よ! 殺人現場で助けを待つなんて、絶対に嫌!」

 と、矢守はここで先程の洞窟のことを思い出した。

「あの、さっきこの子を追いかけていったときなんですが……」

 矢守は全員に洞窟のことを説明する。

「その洞窟、全員は入れそうか?」

「さぁ、入口はそこまで大きくはありませんでしたが、中がどうなっているか……」

 藤沼の問いに矢守は答える。

「どう思う?」

「私は反対です」

 答えたのは真佐代だった。

「その洞窟がどんな場所かは知りませんが、洞窟と廃墟なら衛生的にも後者の方がいいと思います。それに、廃墟なら少なくとも人が住めないという事はないでしょうが、洞窟ではその保証もない」

 さらに真佐代は続ける。

「少なくとも、服を乾かすという点では廃墟のほうがいいでしょうね。このまま濡れた服を着ていたら、どの道全員体調を崩します。少なくとも、一見した限り基礎がしっかりしているためか、これらの廃墟は割合原形を保っているようですし」

「だそうだが、それでも洞窟に行くか?」

 藤沼が尋ねる。そう言われては、麻美も何も言えない様子だった。濡れた服の事はさすがに気になっているのだろう。

「よし、できるだけ惨劇の跡が少ない家に入ることにしよう」

 藤沼の提案に、全員従うしかなかった。


 結局、その後残る建物を調べていった結果、中央の一際大きな建物の西隣にあった『村上』と表札の出ている家に上がりこむ事にした。この家には血溜りのような惨劇の跡らしきものは一見した限り見当たらず、家そのものもしっかり残っていたからだ。

 中央の大きな建物は公民館で、正面に『白神村公民館』と大きく書いてあった事から、ここが白神村であることは疑いようのない事実となった。そして、一番惨劇の跡がひどかったのがこの公民館であった。ロビーから二階にいたるまであちこちが血まみれで、まさに惨劇の館と言い換えてもいいほどだったのである。どうやら、惨劇の痕跡のない家の住民は、事件発生と同時にこの公民館に避難し、そこで殺されたらしい。だからこそ家の方には惨劇の痕跡がないのだろう。

 その家は他の家と比べても面積がやや広く、いくつもの部屋があった。とりあえず一通り中を確認すると、縁側に面した一階の三つの畳部屋が襖で区切られている形になっていた。矢守たちはひとまずこの三つの部屋を拠点とする事とし、玄関に近い右の部屋を男性が、左の部屋を女性が使い、中央の部屋を全員の集合部屋とする事が決定した。

 まず、部屋を軽く掃除した後、男女に分れて全員ずぶ濡れになった服を脱ぎ、縁側で絞った上で家の中にあったハンガーで部屋の中に吊るした。乾くまでの間、服は同じく家の捜索の際に見つかった古い毛布を羽織る事になった。一応この家の人間のものと思われる服もあるにはあったが、さすがにそれを着る気にはなれない。

 そんなわけで、しばらくすると毛布に包まった十人の男女が中央の部屋に集まった。ただし、須賀井だけは足の骨折のために畳に寝転んだ上に毛布をかぶせられている状態だ。

「さてと」

 落ち着いたところで藤沼が口火を切った。中央には蝋燭が立てられ、小さな明かりを生み出している。

「色々話したい事はあるだろうが、とりあえず後はどうやって救助を要請するかだな」

「その前に、こいつに話を聞く必要がありそうだ」

 小里が須賀井を睨みながら言う。須賀井は痛みに顔をしかめながら恨めしそうにこちらを見ている。

「改めて聞こう。お前、どうしてバスジャックなんか起こした?」

 小里の問いに、須賀井はふてくされたように顔をそらす。

「丹波山村を目指したのはなぜだ?」

 藤沼も尋ねる。が、須賀井は答えない。

「確か浪人生だったな。私たちをこんな目に遭わせてくれたんだ。誰かは確認できなかったが人も一人死んでいる。返答しだいじゃ覚悟してもらうぞ」

 藤沼が畳み掛けるように言う。

「人が……死んだ?」

 須賀井は呻きながら、事故以来、初めて口を開いた。

「ああ、ゴルフバッグを持っていた男性客がバスの中で死んでたよ」

 藤沼が吐き捨てるように言う。

「……俺のせいじゃ……」

「ふざけるな!」

 藤沼が怒鳴り、須賀井は体を震わせた。

「あんな無茶苦茶な運転までさせて、挙句の果てがこの事故だ。下手をしたらこの場にいる全員がこのまま野垂れ死にだぞ」

 続く小里の言葉に、須賀井は押し黙る。

「君の無茶な行動で事故が起こって死者が出た。裁判所事務官の私が言うのもなんだが、君が逮捕された後、検察はおそらく殺人で起訴すると思うぞ」

 藤沼は須賀井を睨みながら宣告した。

「……俺は……」

 二人の剣幕に、須賀井は何も言い出せない様子だった。無理もない。須賀井は身動きが取れないのだ。下手な事を言えば、全員からリンチを食らう可能性さえある。

「……まぁ、いいじゃないですか」

 その空気に耐え切れなくなって矢守は発言した。

「足を骨折しているんです。どうせ逃げられはしませんし、そんなことは逮捕してからゆっくり聞けばいいんですよ。それより、やはり問題はどうやって救助を呼ぶかだと思いますし、それにこの村のことをもう少ししっかり知っておく必要もあります」

「……確かにそうだな」

 藤沼がため息をついた。

「助かってから、しかるべき場所でしっかり締め上げればいい」

「それで、お聞きしたいんですが、この村に出入口というのはあるんでしょうか? 道があるんですから、雨がやみ次第、道伝いに歩いていけば……」

「無理」

 と、憲子が矢守の発言を止めた。

「この村の出入り口は、何年か前の土砂崩れで道路そのものが崩壊して、完全封鎖された。以来、この廃村に来る手段は一切なくなった」

「そんな……」

 麻美が絶望的な声を上げる。派手な茶髪も雨でグシャグシャになってしまっている。

「それ、間違いないんですか?」

 土方が青ざめた表情で聞く。

「一時期とても話題になったから、間違いない」

「話題になった?」

「土砂崩れが起こるまで、廃墟マニアやオカルトマニアの間ではこの村は有名だったの。何人もこの村にやって来ていたみたい」

「でも、廃村なんてそう簡単には入れないはず」

 藤沼が疑問を呈する。

「もちろん無許可。一応村の入り口の道路に通行禁止の柵はあったけど、無視していたみたい。あの事件までは」

「事件?」

 その問いに対し、憲子が凄惨な笑みを浮かべる。

「この村にライトバンで来たオカルトマニア四人が失踪したの。後日、あの川の下流から遺体入りのライトバンが発見されたんだけどね」

 憲子の言葉に、全員が息を呑んだ。

「それでマニアたちもほとんど寄り付かなくなった。その直後だった。土砂崩れでこの村に続く道路が崩壊して、物理的にもこの村への侵入が不可能になったのは」

 つまり、中から脱出する手段もないという事ではないか。重苦しい空気がその場を支配する。

「待ってくれ」

 と、小里が発言した。

「廃墟マニアはともかく、オカルトマニアが来るというのはどういう事だ?」

「ちょっとした都市伝説があったの。当時はずいぶんマニアの間では有名だったんだけど、村へ行けなくなって以降は下火になった」

「都市伝説?」

「ええ」

 憲子は蝋燭で照らされた不気味な顔で語る。

「この村には、あの殺人鬼の惨劇を逃れた、村の『イキノコリ』が今も徘徊している。そして、イキノコリはあの殺戮で精神に異常をきたし、村を守るために村にやってくる人間を殺してしまう……そんな感じ」

 麻美が青白い顔で杏里に抱きつく。

「……あまり気持ちのいい話じゃないですね」

 土方が引きつった顔で感想を漏らした。

「ええ。だから、本当に例のオカルトマニアたちが死んだときはちょっとした騒ぎになった。彼らは『イキノコリ』に殺された……って」

「馬鹿馬鹿しい」

 小里が吐き捨てた。

「生存者がいないことは警察がしっかり調べている。俺も当時取材をしていた口だが、生存者がいたなんて話は聞いたことがない。大体、そんな話があったら隠し通すなんて不可能だし、ましてたった一人でこんな廃村に住み続けるなんて、空想以外の何物でもない」

 その言葉に、矢守が反応した。

「そう言えば、あなたはその事件を取材していたんですよね」

「ああ。村に来る事はできなかったが」

「どんな事件だったんですか? 私、十年前はまだ東京には住んでいなかったもので」

 矢守の言葉に、小里は語り始めた。

「ひどい事件だったよ。死者は二十三人。ま、村に住んでいた人間全員だな。一人の男が真夜中に斧を振り回して村人を片っ端から惨殺していった」

「犯人は村の人間だったんですか?」

「いや、村の外の人間だった」

 小里は告げる。

「笹沼昇一。それが犯人の名前だ。職業は私立探偵。品川区に事務所を開いていた」

「探偵?」

 意外な職業に全員が顔を見合わせた。

「実のところ、裁判でも動機は判然としなかった。やつが事件の数ヶ月前に何のためかは知らないがこの村を調べていたことはわかったが、それが何であんな大量殺戮につながったのかは皆目見当つかず。何しろ全員死んでいるから、村人に事実関係を聞くわけにもいかないし、本人は裁判中一言も喋らなかった。謎の殺人事件ってやつだ」

「それで犯人は?」

「さっき言っただろう。死刑判決を食らって、今も東京拘置所に収監中だ。控訴せずに、一審で判決が確定している。執行がいつになるかはわからないがな」

 生々しい話に、全員が押し黙った。

「やつは最初にあの交番を襲撃して、あそこにいた駐在の巡査を殺した。これがこの事件で唯一の村以外の人間の被害者だ。その後、村の家々を襲い始めた」

 そこで、小里は矢守を見る。

「この村、公民館や交番を除くと家は四つしかなかっただろう?」

「ええ」

「そもそも、この村に住んでいたのは四つの家だけだったんだ。交番の隣にあった下ノ倉家、その隣の寺坂家、今我々がいる村上家と、その隣にある赤沼家。確か、この村上家の人間が村長をやっていたと聞いている」

「という事は、ここは村長の家なんですか」

 矢守は思わず辺りを見渡した。

「村上松夫。それが村長の名前だった。まだ四十二歳と若い村長だったが……彼の遺体は公民館の二階で見つかったよ。たぶん騒ぎに気がついて公民館に避難したところを襲われたんだろうな。奥さんをはじめ、村上家全員がそこで見つかったって話だ」

 だからこそ、家そのものは惨劇の跡がないのだろう。

「村民の構成は、下ノ倉家が当主夫妻と息子夫婦と孫一人の五人、寺坂家が当主夫妻と息子夫婦と娘が三人で七人、村上家が当主夫妻とその息子である村上村長とその妻で四人、赤沼家が当主夫妻と長男夫婦と次男夫婦の六人。それに外部から派遣された駐在が一人で計二十三人。被害者数と一致する。つまり、さっきの怪談に根拠なんかないって事だ」

 小里の言葉に、憲子が少し不満そうな顔をする。

「その情報こそ不確かかもしれない」

「じゃあ、これを見ろよ」

 と、小里が何やら取り出した。

「さっきこの家を調べたときに見つけた。ここは村長だった村上松夫の家だ。当然、村の全体像を把握するようなものがあると思っていたが……」

 それは、事件の五年前の日付が書かれた書類のようだった。

『一九八九年度白神村村民名簿』

 表紙にはそう書かれている。

「冒頭文によると、村上村長が結婚したのは事件の五年前で、これはその際に改めてまとめられた村民の名簿という事らしい」

 一枚めくると、各々の名前が家別に一人ずつ記されていた。


『白神村村民名簿(一九八九年)

◎、下ノ倉家……下ノ倉文吉(当主)、下ノ倉よね(文吉の妻)、下ノ倉守文(文吉夫婦の息子)、下ノ倉芳香(守文の妻)、下ノ倉元太(守文夫婦の息子)

◎、寺坂家……寺坂吉介(当主)、寺坂冬菜(吉介の妻)、寺坂春則(吉介夫婦の息子)、寺坂美菜子(春則の妻)、寺坂明日美(春則夫婦の長女)、寺坂夜理恵(春則夫婦の次女)、寺坂早百合(春則夫婦の三女)

◎、村上家……村上松蔵(当主)、村上駿河(松蔵の妻)、村上松夫(松蔵夫婦の息子・村長)、村上有里子(松夫の妻)

◎、赤沼家……赤沼三太夫(当主)、赤沼豊子(三太夫の妻)、赤沼陽一郎(三太夫夫婦の長男)、赤沼墨子(陽一郎の妻)、赤沼影二郎(三太夫夫婦の次男)、赤沼梅美(影二郎の妻)

◎、その他……妻木一郎(白神村交番巡査)

 以上二十三名』


「ご覧の通りだ。村の記録としても、二十三名と公式に記録されている。生き残りなんかいるはずがない」

 小里の言葉に、憲子はしばらくその書類の名前を見ていたが、

「この名簿は事件の五年前。それ以降に住み始めた人間がいたのかも」

「いないな。事件当時、俺は警察から公表された被害者全員の名簿を見ている。うろ覚えではあるが、全員この名簿に載っていた人間のはずだ。それに、俺も村には入れなかったとはいえそれなりには調べてある。事件前の十年の間に外部からこの村に入ってきた人間は、事件の七年前に赴任した妻木巡査と、この記録にある事件の五年前に村長と結婚した村上有里子の二人だけだ。それは間違いない」

「となると、増えた人間がいない以上、その後五年の間に死んだ人間もいないということか?」

 藤沼が尋ねる。

「そうだろうな。と言うよりも、この村の中で高齢層に入る各々の家の当主やその配偶者の名前に俺は見覚えがある」

「被害者名簿にいたという事か。となると、人数の増減がない以上、殺されたのはこの名簿に記された二十三人で間違いないということになり、必然的に問題の噂は出鱈目ということになる」

 藤沼が憲子を睨み、憲子はジトッとした視線を藤沼に向ける。

「……そんなことより、道がふさがっているんだったら、ここからどうやって脱出するの?」

 麻美が尋ねる。

「この村が外界から隔絶されている以上、事故現場が最も発見されやすい場所だとは思うが……」

「全員で事故現場に戻るんですか?」

 藤沼の言葉に、矢守が尋ねる。

「誰か一人……いや、万が一を考えて二人だな。あそこまでの道順は土方さんが印をつけている。雨がやみ次第、代表二人があそこまで戻って助けを待ち、残りがここで待機という形でいいだろう。助けが来次第、ここまで案内する」

「となると、問題はいつこの雨がやむかですね」

 土方が憂鬱そうに言った。

「それと、食料の問題がある。水は雨水があるから何とかなるとして、食料はどうしようもない」

 全員が息を呑んだ。

「駄目を承知で聞くが、この中に食べ物を持っている人は?」

 全員が気まずそうに顔を見合わせる。しばらくして、小里がため息をついて胸ポケットからガムの包みを放り投げた。中にはチューインガムが六枚入っているが、ガムでは何の腹の足しにもなるまい。

「それくらいしかない」

「……他にはいないか?」

 藤沼が問う。

「昼食用のお弁当はあったんですけど、あの事故で荷物は全滅してしまいましたから」

 杏里がおずおずと答える。他の女性陣もその言葉に同意するように首を振った。

「詰まるところは、結局そこか」

 藤沼が忌々しそうに言う。

「そういうあなたはどうなんですか?」

 矢守の問いに、藤沼は黙ってポケットから包みに包まれた飴玉を一つだけ放り出した。

「街頭配布か何かでもらったやつだ。一個だけしかない」

「……仕事中の土方さんが飲食物を持っているはずがないし、当然このバスジャック犯も持ってはいないだろうな。矢守さんはどうだ」

 小里はそう言うと、矢守に視線を向けた。矢守は首を振る。

「そういった類のものは一切」

「……絶望的だな。さすがにいくらなんでも十年前に捨てられた廃村に食料なんぞないだろうし」

 小里が自嘲めいた笑いを浮かべる。

「何も食べないまま雨水だけで、もって一週間……いや、この状況下では下手をしたら五日ももたない。つまり、それまでに雨がやまないと本格的にまずいと言うことになる」

「さすがにそれだけ日付が経てば土方さんのバス会社も本腰を入れて探すはずですが」

「希望的観測に過ぎない以上、最悪の想定はしておくべきだ。とりあえず、山菜でも何でも食べられるものが必要だ」

 小里の言葉に、全員が頷いた。


 それから数時間後、とりあえず服が着られる程度には乾いたので、全員が再び服を着た。もちろん、水分がまだ残っていて普段の感覚からしてみれば濡れているのと変わりはなく、最低限風邪を引かない程度に乾いたというのが正しいのだろうが、この際贅沢は言っていられない。

「できる限り雨には濡れないようにする事が大切ですね」

「だな」

 男性の部屋で、矢守の言葉に小里が頷く。縁側から外を見てみると、雷は収まったようではあるが、いまだに雨は降り続いている。

「落雷の心配がなくなっただけでも一歩前進だ」

 藤沼が呟いた。

「これからどうなるんでしょうか?」

「とにかく食料だな。こんな山奥だ。山菜か何かでもあればそれを食べればすむんだが」

「この雨では川で釣りをするわけにもいかないでしょうしね。まぁ、釣竿そのものもありませんけど」

 部屋の奥で再び制服を着込んだ土方が不安そうな表情で言った。その傍で、青白い表情の須賀井が横になっている。

「そう言えば、さっきの話で気になったんですが、バスの後部座席で亡くなっていたあの男の人の事について何もわからなかったんですか?」

 矢守がふと気になって尋ねる。

「ああ、確か外に吹っ飛ばされていたゴルフバッグを土方さんが調べていたな」

 藤沼が答えて土方を見る。

「ええっと、中はゴルフ用具ばかりで、身元を特定するようなものはありませんでした」

 土方は申し訳なさそうに言う。

「となると、遺体の方か。遺体の方は宮島さんが調べていたな」

 と、ちょうどその時、女子部屋から真佐代が出てきて近づいてきた。

「身元だけなら。懐に手帳がありましたので」

 そう言って、一冊の手帳を差し出す。藤沼はそれを受け取ると中を見た。

「柴井達弘、四十六歳……か。もっとも、この状況下では名前がわかったところでどうにかなるものでもないし、あの遺体をどうすることもできないが……」

 そう言って藤沼はポケットに手帳をしまう。

「ところで宮島さん、山菜についての知識は?」

「一応、何が毒をもっていないか程度ならわかりますが」

 藤沼の問いに、真佐代は答える。

「食料調達、ですか?」

「ああ」

 藤沼が指示を出す。

「二手に分かれよう。須賀井のことが心配だから、土方さんは残ってくれないか?」

「わかりました」

 土方は緊張した表情で言う。

「行くのは残りの男三人と、宮島さんの計四人。私と矢守さん、小里さんと宮島さんでペアになって、食べられそうなものを調達する事にしよう」

「傘は?」

「さっきここを調べたときに何本か使える傘が見つかった。交番で見つけたものを含めれば、四人分ぐらいはある」

 そういうわけで、四人は古びた傘を差して外に出ると、矢守たちの組が村落を、登山経験のある小里の組が近隣の山中を調べる事になった。

「では、後ほど」

 そう言って村上家の前で別れる。

「とりあえず、食べられそうなものは採っていって、後で宮島さんに鑑定してもらうという事でいいだろう」

 藤沼はそう言うと、公民館の方へ歩き始めた。矢守も後に続く。道路の横に流れる川が轟々と唸り、恐怖心さえ抱かせる。

「釣りなんかとんでもないな」

 川を見ながら藤沼が呟く。

 公民館の東側……つまり、下ノ倉家と寺坂家は、先程調べた限り惨劇の痕跡が明確に残っていた。最初に襲われたのが一番東にある交番だとすると、そこから逃げる間もなく襲われたというのが妥当だろう。

 先ほどの会合の後に聞いた小里の言葉が矢守の頭に浮かぶ。

『当時の新聞記者の撮った写真の中に強烈なのがあってな。家の前で血を流して倒れている母親と、彼女が抱いたまま事切れている小学生くらいの少年の写真だ。現場入りした記者の一人が撮ったものらしいが、あまりにひどい光景に当時かなり話題になった』

 二人はその二人が倒れていたとされる場所のすぐ傍に来た。一番東にある下ノ倉家の前の道路。小里の話では、この場所で殺されていたのは下ノ倉家芳香とその息子で当時小学一年生だった下ノ倉元太だったという。二人は思わずその場で手を合わせた。

 ちなみに、小里の話によると芳香の夫である下ノ倉守文は門にもたれかかるように首を切断されて死んでおり、その両親である下ノ倉家当主の下ノ倉文吉・よね夫妻は家の中で惨殺されていたらしい。

 再び小里の言葉が矢守の脳裏に浮かぶ。

『村の入り口でその有様だ。報道陣もそこで萎縮してしまってそれ以上中に踏み込むことはなく、結果的に世間にはこの下ノ倉家の惨劇に関する資料しか残っていないはずだ。実際、それ以外の家の人間がどんな殺され方をしたのかは、最終的に俺も調べ切れなかった』

 その下ノ倉家の前に二人は立っていた。ちょうど、守文が首を斬られてもたれかかっていた門の前である。

「行くか」

「……ええ」

 藤沼と矢守は意を決して敷地内に入る。とはいえ、家の中ではなく、その裏手にある開けた場所である。

 そこには、打ち捨てられた小さな畑があった。

「こんな場所だ。自給自足だったんだろうな」

 藤沼が呟く。畑は荒れ放題になっていたが、所々に野菜らしきものが確認できる。十年間、人が一切手を出さないまま、ほとんど野生化してしまった野菜の成れの果ての姿である。何ヶ所か荒らしたような跡があるのは、森の動物が食べに来た際のものだろう。

 二人は、草を掻き分けて畑に入ると、所々にある野菜らしきものを採っていく。本当に食べられるかどうかも怪しいが、この際全く得体の知れないものを食べるよりはましであろう。

「改良された野菜でも、野生化するとこんな事になるんですね」

「逆だろう。改良して強くなったからこそ野生化しているんだ。そうでなければ、十年間も子孫を残し続けられるはずがない」

 そんな事を言いながら採取を続けていると、何か硬いものが矢守の足に当たった。

「ん?」

 矢守は無意識にそれを拾い上げる。

「これは……」

 それは、何かの人形のようだった。ポリスチレン製の女の子向けの人形で、確か十年ほど前……つまりこの村で大量殺人が起こったまさにその頃に爆発的ヒットを飛ばした変身物の少女アニメのものだったはずだ。長年雨ざらしだったせいかかなり崩れてしまっているが、それでもポリスチレン製であるためか面影は残っている。改めて近くを見回すと、同じアニメの変身スティックを模したプラスチック製のおもちゃも転がっていた。拾って確認してみると、どうやらボタンを押す事で音がなる仕組みらしいが、電池ボックスからは液漏れと思しき液体がにじみ出ていて使えそうにもない。

「この家の男の子が使っていた……にしては少々不釣合いか」

 矢守が自問自答していると、

「多分、隣の寺坂家の孫娘三人の中の誰かのものだろうな。例の二十三人の中には他に該当しそうな人間はいないし、元太の家に遊びに来てそのまま忘れてしまったというのが妥当だろう。どうやら、この場所に子供用の砂場があったようだ」

 いつの間に近づいてきたのか、藤沼が答えた。確かに改めて見ると、草で覆われてよくわからないが下地は砂のようである。

「どうしてそんな事が?」

 藤沼は黙って近くの小屋の金属製の柱を指差した。そこには釘でつけられたらしい引っかき傷で、

『きょうもねーちゃんといっしょにあそんだ。げんた』

 と、たどたどしい文字で書かれていた。『今日も姉ちゃんと一緒に遊んだ。元太』と読むのだろう。名簿によれば元太は一人っ子だったから、こんな人形を持っている同年代の女の子と遊んだ際に書いたと判断するのが自然だった。

「こんな文字が残るんですね」

「金属だからこそだろうな。これが木なら、とっくに消えている」

 廃村の柱にかかれた無邪気な言葉。それは、この陰惨な雰囲気が漂う村に、こんな無邪気な子供が住んでいた事を示す立派な証であった。それだけに、この廃墟に残るあまりにも無邪気ないたずらの痕跡は、逆になんともいえない不気味さをかもし出していた。

 その後、二人はひとまず採取できるものを一通り採取すると、下ノ倉家を出て隣の寺坂家に向かった。こちらは外見的にはあまり惨劇の跡は見えないが、先程ザッと見た限り、室内にはいまだに鉄の臭いが漂うほどの古い血痕があちこちに付着しており、とても内部の捜索などできない状態だった。

 この寺坂家も家の裏手に畑らしきものがあった。二人は手分けして食べられそうなものを採取していく。

 だが、そうこうしているうちに元々豪雨で薄暗かった周囲がますます暗くなってきた。

「いかんな。そろそろ日が暮れる時間ということか」

 藤沼がそう言いながら舌打つ。

「時計がないせいで時間感覚がつかめませんね」

「暗闇で動き回るのは得策ではないな」

 それを機に、二人は食料探しを中断する事にした。道路に出て村上家の前に戻ると、ちょうど小里や真佐代も戻ってきたところであった。

「どうだった?」

「裏手に小さな竹林があって、そこに竹の子が何本か。あと食べられそうな山菜やキノコが生えていたから、それを採ってきた」

 小里が告げる。

 外で立ち話も何なので、四人は村上家の中に入る。傘を差しているとはいえかなり濡れてしまっているが、先程の雨ざらしの状態ほどではない。毛布でとりあえず拭くことで対処する。

「食べられそうですか?」

 すっかり暗くなった玄関で確認する。

「まぁ、一週間を乗り切るくらいならこれで十分でしょう。最悪、火を通せば大抵のものは食べられるでしょうし」

 真佐代が告げる。

「とにかく部屋に戻ろう。ここもじきに暗くなる」

 藤沼の言葉で、全員先程の部屋に戻った。


 その後のことはあまり特筆すべきことはない。四人が部屋に戻った直後から、周囲は一気に暗くなり、体感で三十分もしないうちに辺りは漆黒に包まれた。外からは豪雨の音が響いてくるだけでまったく何も見えない。光源となるものがないのだから仕方がないことかもしれないが、それでもそんな場所に閉じ込められたこの十人の人間にとっては非常に心細いものである。

 すぐさまそれぞれの部屋で懐中電灯や蝋燭の火がともされ、中央の集合部屋では集めた食材を台所にあった網であぶって簡単な料理をしていた。とはいえ、とりあえず無害そうな竹の子を火であぶっただけのものなので、それほど腹の足しになるとは思えないが、ないよりはましである。

 食事が終わってしまえばもうやる事はない。部屋に暗闇で動くよりは素直に寝て体力を回復するのが一番いいだろうという事になった。

 だが、ここへ来て少し問題が発生した。

「琴音ちゃんの様子がおかしいんです」

 真佐代が告げた。彼女には食事にも姿を見せず、女子部屋に確認しに行ってみると、目を閉じて苦しそうに息を吐いていた。それだけ苦しいにもかかわらず表情は今までと一切変化がなく、彼女の抱えるものが想像以上に深いものなのだと矢守は実感せずにいられなかった。

「熱がひどいんです。たぶん、雨に濡れたことにストレスが重なった風邪だとは思いますけど、このままじゃ肺炎を併発する可能性もあります」

 真佐代が深刻そうに言う。それに対し、藤沼が問う。

「どうすればいい?」

「できれば、乾燥した場所に寝かせるのがいいんですが」

 拠点としているこの三部屋も、実のところ雨漏りがひどい状態だった。何しろ十年もほったらかしにされているのだ。当然といえば当然で、それでも他の部屋に比べてまだましだという理由でこの部屋を拠点にしている状態である。

「この部屋はあまりよくないと?」

「ええ。それに、風邪というのはあくまで私の見立てに過ぎません。もしウィルスか何かが原因だったら、他の人にうつるかも」

 重苦しい沈黙がその場を支配する。

 と、そこで小里がふと発言した。

「確か、離れに畳敷きの部屋があったよな」

 ここを調べた際にわかったことだが、この村上家は今矢守たちがいる母屋と、そこと渡り廊下でつながった離れに分かれていた。離れには四畳半ほどの小さな部屋があり、そこは雨漏りがなかったのだが、全員が入るには狭すぎる上にすぐ背後に山肌が迫っている事から、土砂災害を懸念して結局拠点にはならなかったのである。とはいえ、現状この家で使えそうな部屋はそこしかない。

「しかし、彼女一人をそこに寝かせるのは……」

「大丈夫です。私が徹夜で付き添います」

 真佐代がきっぱりと言った。

「……迷っている場合じゃないな」

 最終的には藤沼が決断を下し、土方と矢守で琴音を抱えながら、須賀井以外の全員で離れに向かった。

 どうやら、元々この離れは茶室か何かだったようだ。中央に小さな机。奥の方に、そこから直接外に出られる勝手口の扉がある。先程確認したように、雨漏りはないようだ。

 矢守たちは全員で軽くその小部屋を掃除し、ひとまず人が寝られるようにした。それから、毛布を二組と懐中電灯を一本真佐代に渡す。

「何かあったらすぐに呼んでくれ」

 藤沼の言葉に真佐代が頷き、彼女と畳に寝かせた琴音を残して、残るメンバーは母屋の拠点に戻った。

「では、また明日……」

 男子部屋の前で残る杏里、麻美、憲子は小さく頭を下げると、自分たちの部屋に戻っていった。男性四人も自分の部屋に戻る。

「さて、後はこいつだな」

 小里が須賀井を見ながら言う。

「俺たちが寝ている間に何かされても困る。閉じ込められる場所があれば一番だが、あいにくそんなものはないし……」

「足やられている上に、手を縛られてるんだ。何もできやしねぇよ」

 須賀井は吐き捨てるように言いながら、後ろ手にカメラの紐で縛られた手を見せる。

「だが、状況が状況だ。念には念を入れた方がいいな」

 藤沼はそう言うと、いったん部屋から出て、しばらくして何かを持ってきた。

「台所にあった洗濯紐だ。これで縛らせてもらうぞ」

「……勝手にしろよ」

 須賀井は諦めたように言った。その後、藤沼と矢守の二人がかりで、須賀井を手近な柱に縛り付ける。

「窮屈かもしれないが、一晩我慢しろ。元はといえばお前が招いた事なんだ。心配しなくても、朝になったら解いてやる」

「……ふん」

 須賀井は顔を背けた。

「とりあえず、こんなところか」

「まずは体を休めましょう。ここであの子のように倒れるわけにもいきませんし」

 結局、そのまま残る四人はそれぞれ毛布に包まり、藤沼が持っていた懐中電灯を消した。完全な闇がその場を支配し、雨の音だけが響き渡る。

 矢守はしばらく寝付けないでいたが、やはり疲れがあったためだろうか。気がつかないうちにその意識は夢のない深い眠りへと落ちていた。


 ……次に目が覚めたとき、このときは幸か不幸か見る事がなかった悪夢が、あろうことか現実で始まる事など、まったく想像すらしないまま。

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