生徒会長のペット
楽弓
第1章 学園の鬼
01 鬼は、何故か掃除機を持っていた
学園の者ならば、誰もが知っている有名な話だ。
その鬼は、金の髪を靡かせ、見る者に恐怖の深淵を覗かせるように昏い瞳を投げつける。
一度腕を振るえば、誰であろうと赤子の如く簡単に放られ、捻られる。
三十人もの人間をたった一撃で倒し、死屍累々たる惨状の中でただ一人だけ傷一つ負わず静かに佇んでいた彼の姿は、大きな恐怖とほんの少しの嘲弄を込めて、
*****
黄昏の気怠い空気が忍び込む、放課後の校舎。
顔を上げて俺の姿を見た途端へたりと座り込んだ女子生徒に、俺は一年前から囁かれている俺についての噂を思い出して、嫌な顔をした。
それが良くなかったのだろう。
俺の不機嫌が自分に向けられたとでも思ったのか、目の前の女子が更に顔色を悪くして、がちがちと歯の鳴る音が聞こえるほど震え出した。
怖がらせるつもりはなかったが、学園の誰もが知っているあの噂がある限り、俺が学園中の人間から怖がられ嫌われるのは仕方ない。
誰が言い出したのかは知らねえが、俺は陰で一鬼夜行と呼ばれているらしい。
俺の名前である
誓って言うが、俺は平和主義者だ。喧嘩なんてしたこともない。
自分が誰かを傷付けるなんて、考えるだけで恐ろしい。
とはいえ、俺が女子も含めた三十人を殴って気絶させたことは嘘ではないし、ある意味自分が望んでその噂を受け入れている部分もある。
だから、初対面の女子に腰を抜かすくらいビビられるなんてよくあることだし、なんてこともない。
ただ、少しだけ――何もしてねえのに知らねえ奴にいきなり怯えられて、ちょっと泣きたくなるくらいだよこんちきしょう!
そして多分……というか確実にそうなのだろうが。
今、彼女は俺に殴られるとでも思っているのだろう。
なにせ、彼女の前でだらしなく気を失って倒れている男子生徒は、間違いなく俺が意識を奪ったのだから。
加えて、俺はなかなかに大きめの掃除機を持っている。
彼女の目には、俺が掃除機で男子生徒を殴り飛ばして気絶させたように映っているに違いない。
こっちの男子はともかく、彼女に危害をくわえる気は全くないのだが、そんなこと彼女は知る由もないだろう。
まあいい。俺は俺の仕事をするだけだ。
この場には他に誰もいないことは知りつつも、念のため彼女に聞いてみる。
「お前、一人か?」
「……」
返事がない。
屍ではないようだが、死にそうなほど怖い思いをしているようだ。
まあ仕方ないか。
彼女には申し訳ないが、運が悪かったとでも思ってもらうしかない。
あまり目撃者が多ければこっちもそれなりの手段を講じなけりゃならないが、彼女一人くらいなら放っておいても問題ないだろう。
何か騒がれたところで、俺の箔がつくような噂が一つ増えるだけだろうからな。
……泣いてない。泣いてないぞちくしょう!
「話の途中だったみてぇだけど、もういいか?」
そう言うと、俺は柱の陰からこっちを覗いている相棒にそっと視線を送る。
俺たちが用があるのは、怯えてる女子ではなく、伸びている男子の方だ。
相棒が動くと、俺も同時に動く。
へたり込んでいた彼女がびくりと身体を震わせたが、それは敢えて無視した。
俺は、だらんと伸びている男子を片手でひょいと持ち上げて肩に担ぎ上げると、空いている方の手で掃除機を持ち上げる。
すると、彼女が驚きで目を見開いて俺を凝視した。
それを見て、俺は思わず「そうだろうなぁ」と頷いてしまう。
軽く見積もっても六十キロはありそうな男子を片手で持ち上げて、反対側の手で五キロはある大きな掃除機を軽々と持ち上げているのだ。
そりゃ驚きもするだろう。
ただ残念ながら、これは俺の力じゃない。
体力筋力ともに平均平凡な俺に、そんな膂力があるわけない。
あったらいいなとは思うけれど、そのために筋トレするほど俺は努力家でもない。
こんな芸当ができるのも、実のところ柱の陰にいる相棒のお陰なのだが――例の噂のこともあるし、彼女にしてみれば俺が怪力なのだと思うのが当然だろう。
いつの間にか、窓から差し込む夕方の光は夜との境目のような儚いものになっていた。
古い木造校舎の薄暗い蛍光灯が、ジジジと低い音をさせながら自己主張している。
誰も音を発しない静かな廊下に、妙に大きくチャイムの音が鳴り響いた。
「下校時間だ。気を付けて帰れよ」
一応、生徒会執行部の人間としてそれだけ告げると、俺はこの居心地の悪い現場から立ち去った。
踵を返すと、柱の陰にいる相棒――いや、悪魔の元へと、俺の足は自動的に動き出した。
*****
――どうして、こんなことになってしまったのだろう。
今のこの状況を想像もしていなかった彼女は、血の気の引いた真っ青な顔で、ただ彼を見つめることしかできなかった。
放課後の第一学習棟には、当然ながら彼と彼女以外に誰もいない。
ここは、普段は殆ど使用されておらず、用がなければ立ち入る者はまずいないからだ。
その上、第一学習棟は鬼の根城だという噂もある。
その話は彼女も耳にしたことくらいあったが、彼に呼び出されたことで頭が一杯で、そんなことは思い出しもしなかったのだ。
昨夜、いつものようにクラスの友人たちとSNSでメッセージの遣り取りを楽しんでいる最中、グループの一人である彼から、彼女宛に個別メッセージが届いた。
そこで彼から、放課後に第一学習棟へ来てほしい、と呼び出されたのだ。
最初は彼女も訝しんだが、脳裏に浮かんだ『告白』という単語のせいで、彼女の思考は鈍ってしまった。
すぐにその可能性は否定したが、頭の片隅に引っ掛かったものを完全に消すことはできない。
彼はクラスでも明るく中心的な存在で、クラス内では地味な彼女ともそれなりに仲の良い男子の友人だった。
そんな人物が、自分のような面白みのない女に興味を持つとは考えにくい。
ただ、人目を忍ぶようにわざわざ呼び出されたことに、少なからず彼女は興奮していたのだ。
それが重大な相談でも、単なる悪戯であっても。
何の用件かは皆目見当もつかないが、友人の頼みなら聞くだけ聞いてもいいと思ったし、もしも本当に告白であれば、受けることは吝かではない。
悪戯と考えるには――彼が、自分を騙すためにこんなことはしないだろうという、ある種の信用もあった。
そして、指定された場所に訪れた彼女は、彼の言葉に耳を疑った。
次いで驚愕し、彼の用件を理解してからは、足元から全身に震えが立ち上った。
にこやかに、実に愉しそうに笑った彼は、自分のスマホ画面を見せながら、彼女に言ったのだ。
「この画像、幾らの価値があると思う?」
それは、絶対に他人には知られてはいけない彼女の秘密を切り取ったものだった。
といっても、画像は酷く粗い。自分とはなんの関係もないと白を切ることもできたかもしれないが、こうも言葉を失くし震えていては既に手遅れであることは明白だった。
そんな些細な逃げ道を考えていた彼女に、彼は更に追い打ちをかける。
「画質は悪いだろ? でもこれ、動画から切り取った画像だから。動画の音声は、結構クリアに録れてると思うんだよね」
彼のいう通り、映像からは紛れもない彼女の声が響き渡る。
恍惚と家族や友人などへの罵詈雑言を撒き散らし、甲高く聞くに堪えない声を漏らしているのが間違いなく自分であることは、自分自身がよくわかっていた。
「これさぁ、一番に誰に見せようかすごく迷ったんだよな。クラスの奴ら? 先生? お前の親? ネットに晒すのもおもしろそうだなー。でもさ、やっぱり最初はお前に見せるのが一番いいかと思ってさ。感謝しろよな」
言いたいことはいくつもあるのに、思考は空滑りし、戦慄く唇は言葉を紡ぎ出さない。
こうして立っているのが不思議なくらい、彼女は自分自身を取り巻く状況をひどく遠くに感じていた。
「どうする? ねえ、高く買ってくれると嬉しいんだけど。ま、お前が買い叩こうってんなら、もっと高値で買ってくれそうな別の誰かに見せるだけだからいいんだけど」
「や、め……」
震える喉は、それだけ吐き出すのが精一杯だった。
しかし、彼女の精一杯は音にならないほど微かな呟きで、まるで彼まで届いていない。
震えるばかりで何も答えない彼女に、彼は段々にやにやとした笑みを消していき、とうとう苛立たしげな声をあげた。
「おい! どうなんだよ。買うのか? 買わねえのか、この……――!!」
彼の声が一段低くなり、大きくなる。
獣の咆哮のように、彼女を萎縮させる音が響く。
そこに、いつもの屈託なく笑う明るい笑顔の彼はいなかった。
彼に何が起こったのか、彼女にはわからなかった。
何かとても異常な事態が起きて、彼が豹変してしまったことしかわからなかった。
彼の顔面はみるみる紅潮していき、脈動する血管が浮き出て不気味に蠢いている。
充血した目は大きく見開かれ、左右の目を個々にぎょろぎょろと忙しなく動かしながらも、どちらかの目が決して彼女を視界から外さない。
現実とは思えない異様さが、彼女を恐怖で雁字搦めにしていく。
唾を飛ばし、半分は意味を成さず聞き取れない恫喝でありながら、残り半分で自分を口汚く罵る彼を見て、彼女はとうとう涙を流し出した。
悲しいとか、悔しいとか、そんな感情からではなく、ただただ何も考えられずに流れた無意味な涙だった。
――怖い。
彼女を支配した感情はそれだけだった。
彼はどうしてしまったのか、自分がどうなってしまうのか。それすらも考えることができない。
彼女の日常を脅かす、知り合いの姿をした目の前の何か。
それに恐怖し、強張る体を震わせながら止めどなく涙を流すだけ。
異形と成り果てた彼が、何事かを喚きながら拳を振りあげた。
数秒後に訪れるであろう衝撃と痛みを予想しながらも、彼女は逃げることも悲鳴をあげることもできなかった。
体も心も痺れて動かなくなったかのように、ただただ汚らしくなってしまった彼の凶行をぼんやり眺めている。
と、涙で滲む彼女の視界の中で、彼の背後にゆらりと影が重なった――ように見えた。
影が滑るように揺らぐと、不意に彼の身体がぐるりと半回転する。
そのまま、糸の切れたマリオネットのように、彼の身体はがくんと沈んでいった。
ごつりと骨が床にぶつかる音で、彼女は我に返って肩を震わせた。
一瞬前まで彼女を罵り殴ろうとしていた彼は、だらしなく床に伸びてぴくりとも動く気配がない。
一体、何が起きているのか。
恐怖と混乱から止まらない涙を拭って、彼女は顔を上げた。
「ひッ……!!」
その瞬間、彼女は見てしまったのだ。
恐怖の深淵を覗かせる、昏い瞳を。
膝から力が抜け、とうとう立っていられなくなった彼女は、どさりとその場に崩折れた。
異形となった彼を目の前にするよりもずっと、魂を凍らせるような純然たる恐怖がそこにいた。
そこには、学園の鬼が立っていた。
鬼は、何故か掃除機を持っていた。
噂は本当だった。
迂闊にも鬼の根城に入り込んでしまったことを後悔するが、もう遅い。
かちかちと鳴る耳障りな歯の音だけが聞こえてくる。
「あー……」
鬼は、眉根を寄せて顔を顰めると、掃除機のホースで倒れた彼のことを指し示す。
「話の途中だったみてぇだけど、もういいか?」
昏い闇色の瞳を向けられ、彼女は息をすることも忘れていた。
目の前の鬼は、自分を脅していたクラスメートを掃除機で殴り、気絶させたようだ。
次は、自分の番だ――。
こんな恐怖を味わうくらいなら、いっそ意識を失ってしまえばいいのに。
そう思っても、彼女の意識は恐怖に縛られて、簡単には開放させてくれそうにない。
がちがちと目に見えて震える彼女から、ふいと鬼の視線が逸らされた。
まるで彼女には興味がないのか、鬼は彼女を無視して動き出す。
鬼が、彼女の横で伸びている彼を無造作に掴み上げ、肩に担いだ。
軽々と、荷物でも持つかのように。
中肉中背とはいえ、仮にも十六歳の男子を担ぎ、もう片方の手に大きな掃除機を持っても、鬼の膂力を以てすれば大したことではないのだろうか。
薄暗い木造校舎の廊下に、妙にはっきりとチャイムが鳴り響く。
悪夢の終わりを告げて、悪夢のような現実を見せつけるように。
「下校時間だ。気を付けて帰れよ」
そう言うと、鬼は廊下の角に消えていった。
どのくらいそうしていたのだろうか。
呆然と座り込んでいた彼女が、はっと気が付いた。
既に鬼の姿はない。
あれが本当に悪夢ならば良かったのだが――鬼に連れ去られた彼のスマホが、全て現実なのだと示していた。
彼女は目の前に落ちていた自分の罪を握りしめると、制服のポケットに慌ててそれを放り込む。
そして、誰にも見つからないように、足早に学園を後にした。
【次回予告】 学園に封印されし鬼と悪魔が今、甦る……!?
お読みいただきありがとうございます。
予告は予告なく変更することがあります。ご了承ください。
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