デグーの教科書
小峯洋
デグーの教科書
スマホが着信を告げている。表示された名前は天馬祥吾。七年ぶりに見るその名前に心臓が跳ねた。彼の整った顔を思い浮かべたことが呼び水となり、甘く暖かい思い出や毒を飲んだかのような苦しい記憶が一緒くたになって頭の中を巡った。
「なぜいまさら?」と思ったけれども、間違えてタップしてしまったか、人違いで電話をかけている可能性もある。
「……椎名ですけど」
「麻友子か? 久しぶりだな。明日は家にいるか?」
長らく会っていない元恋人に対する元とは思えない軽い口調に拍子抜けしてしまう。
「いるけど、なんで?」
「デグーを預かってほしい」
私は目の前のデスクに広がるゲラと資料を片手で広げる。
「『アンデス原産の齧歯目。鳴き声が豊富なことからアンデスの歌うネズミとも呼ばれる。昼行性でコミュニケーション能力が高く、人間に懐きやすい』」
「さすが麻友子、完璧だ。明日の十五時に行く。じゃあな」
そう言うだけ言って、彼は一方的に電話を切った。強引なところは変わっていないようだ。
翌日、彼は時間通りにやって来た。学生時代と全く変わらない容姿と振る舞いに、タイムマシンの存在を認めそうになる。
「まずはこいつを」
私は黒いふたの虫かごを受け取った。中にはデグーがいた。ふわふわとした見た目に反して重い。大きい個体は三百グラムほどにもなるそうだ。ネズミとリスとウサギを足して三で割ったような見た目をしている。近年、カラーバリエーションが増えているらしいが、この個体の体毛は赤みがかった茶色、野生個体と同じカラーだ。尻尾の長さは飼育書通りで十数センチはあるように見える。艶やかな丸い黒目と目が合うと、手のひらに収まる小ささのその生き物を反射的に「かわいい」と思ってしまう。興奮をしているのか、ケースを引っかいたり、動き回ったりと落ち着きがない。
「本には『生き物は終生飼養しましょう』って書いてあるけど?」
「誰も予想できなかった急な海外転勤なんだ」
「どこ?」
「南アフリカ」
なじみのないその国の、すぐに出てきた情報と言えば、数か月前にテロがあったことだけだ。現地法人の商社に勤める邦人男性一名が巻き込まれて亡くなったことを記憶している。
「まだ、商社勤め?」
「そうだ」
「危ないんじゃないの?」
「だから誰も行きたがらない。特に家族持ちは、な」
口元に笑みを浮かべてはいるものの、目には憂いを含んでいる。彼の物憂げな表情に私が弱いのも相変わらずのようだ。
「他に荷物は?」
「ありがとう。車で持ってきた。近くの駐車場に止めてある」
私は虫かごをデスクの上に置いた。二人で運び入れる方が早く済むだろう。
荷物は小動物一匹のためとは思えない重さと量だった。まず、家となるケージが重い。土台となるトレーはプラスチックだけれど、囲いは金属だ。中に回し車やハンモック、そしてステージと呼ばれる木製の板を取りつける。この板はくつろぐためのスペースだったり、天井からぶら下がっているハンモックまでの足場になったりするらしい。他にもエサやおやつ、掃除道具などがあった。
彼は虫かごからデグーを取り出し、両手で持って背中の匂いを嗅いだ。見たことのない、慈しむような笑顔に、父親になった彼のイメージが自然と浮かんだ。
「名前は?」
「麻友子」
訝しむ私を見た彼は、デグーをケージに入れ、ファスナー付きのファイルケースに手を伸ばした。飼育書、飼育費用の入った封筒、そしてノートが一冊入っている。ノートには与えているエサやそれらを購入できる場所、かかりつけの病院などが書かれていた。ノートの間に挟まっていた診察券を取り出し、私の前に突きつける。確かに「麻友子ちゃん」とあり、「メス」の表示の方に丸がされている。書かれている誕生日から計算すると、二歳くらいになるらしい。
「天馬君だからギリギリ許されるかもしれないけど、けっこうキモイから」
「そうか? こいつに初めて会ったとき、『このタヌキ顔は麻友子にそっくりだ』って思ったんだ」
「いや、ネズミだから、この子」
「まぁでも、俺もユッコって呼んでいる」
当のユッコはどうしているかとケージに視線を戻すと、ハンモックの中から頭だけを出していた。淵で顔周辺の毛が両頬に集約されている。確かにタヌキのように見えなくもない。
「ユッコ、元気でな」
ケージに向かってかけた彼の声は無視された。
「帰る。ユッコのこと、よろしく」
「うん。あ、私も出るからちょっと待って」
「見送りしてくれるのか?」
「散歩とスーパーに買い物に行くついでにね」
「散歩か。懐かしいな。俺もついていく」
私たちは小さな川沿いの舗装された道を歩いた。散歩は私の唯一と言ってもいい昔からの趣味と運動だった。
「オナガだ。青い尻尾はきれいなのにな。あの濁点混ざりの鳴き声はなかなか忘れられない」
付き合っていた頃も、こうしてよく歩いた。目に入る野鳥や植物の名前を私があげていくのを、彼は楽しそうに聞いていた。世の中で流行っている物事にはとても詳しいのに、自然に関しては、彼は驚くくらい無知だった。
「なんでデグーを知っているんだ?」
目の前を歩く彼が、私を見ることなく尋ねた。
「会社を辞めてフリーで校正の仕事をしているの。今、ちょうど小動物のムック本の仕事をしていて、それで」
「なんだ。野田から聞いて調べておいてくれたのかと思った」
残念そうに言う彼の口調から、私への期待があったことを感じ、それが心をくすぐった。
野田くんは天馬くんと私がいた大学のフォトサークルのメンバーのリーダーだ。野田君は大学に残って研究を続けていて、私同様、大学の近くに住み続けている。互いに見かければ声をかけるし、近況報告もする仲だ。
「野田くんは中立を好む人だから、変に気を利かせることはないよ」
「そうだった」
サークルには天馬君みたいにおしゃれで明るく、この世の中心にいるような人間と、私のように端っこで静かに自分の楽しみを大事にする人間の二種類が存在していた。それをうまく束ねていたのが、野田君だった。天馬君は彼に私の近況を尋ねていたのだろう。
「来月にここを歩いていたら、金木犀の香りを楽しめたのに残念だ」
彼は両手をポケットに入れ、首を左右に振って歩いている。純粋に風景を楽しんでいるというよりは、過去を振り返りながら思い出を整理しているように見えた。
「不安なの?」
彼は足を止めた。靴が地面を擦る音が響いた。
「麻友子は良くも悪くも俺に期待をしない」
振り返った彼は、皮肉な笑みを浮かべている。そんな表情さえ、きれいだと思ってしまう。私が同じ表情をしても、きっと怒っているようにしか見えないはずだ。
「俺の周りの女性たちは、そんなことを聞かない。俺の全てを信じ切っている」
私は無言で彼を目指して歩く。隣に立つと、彼はまた歩き出した。
「麻友子が俺と別れたいと言ったのは、俺に愛が足りなかったからだ」
「……そんなことはないと思うけど」
「いや、俺はデグーを飼ってようやく愛が何かを知った」
あの小さい生き物を思い出す。動物を特別好きではない私でさえもかわいいと思える。
スーパーに着くまでの間、私たちは無言で歩いた。彼は買い物にも付き合ってくれた。
「夜ごはん、食べていく?」
「やめておく。まだ準備が終わっていないんだ」
「いつのフライトなの?」
「明日夜十時半に成田から」
その言葉からは何の感情も伺えなかった。七年ぶりに急に現れたと思ったら、今度は急に去ってしまう。本当にデグーを預けに来ただけで、それ以外に何も用もないのかもしれない。
自分が勘違いをしている人間に思え、髪に隠れた耳が赤くなるのを見なくてもわかった。
結局、彼は家の前まで買い物袋を持ってくれた。部屋の鍵を開け、買い物袋を受け取る。重く感じたのは、袋の中身のせいだけではないはずだ。これで本当に最後だ。何か励ますようなことを言わなければいけない。考えるほどに混乱は深まり、うつむいてしまう。
「最長二年だけど、早ければ数か月で戻って来られる。そうしたらなんか作って食わせてくれ」
私は顔を上げてうなずき、「気をつけて」とだけ言った。
その晩、私は布団の中で、頭の中にある書棚を探った。今まで仕事で目にしてきた言葉の中にきっと彼の不安を解消するようなものがあるはずだ。祈りを込めるような気持ちで、ただの文字の羅列でしかなかった言葉たちを、記憶の底から引き上げる。
適切だと思われる言葉は浮かんだけれども、それを私が発音し、彼に伝えているところを想像すると、芝居がかった感じが否めなかった。私自身が彼のためだけに紡いだ言葉でないと意味がない。それだけ理解したところで、やってきた眠気に身を委ねることにした。
ユッコは翌朝四時頃に目を覚まし、ケージを齧ってエサを要求した。酔っぱらって道端で寝てしまい、工事現場の横で目を覚ました人はきっと頭にこんな痛みがあるはずだ。金属音のわずらわしさに耐えられず、布団をはじくようにして身を起こした。
外はまだ暗く、部屋は夜の気配を保っている。カーテンの隙間から入る街灯の光と感覚を頼りにエサの入った袋に手を伸ばす。ペレットと呼ばれる植物やビタミン類などからできている専用の固形物を一つ取り出し、ケージ越しに与える。彼女は私から奪うように咥え、無我夢中で齧っている。エサを食べるときは、私の存在は消えてなくなるらしい。静寂を取り戻し、安堵する。その間にまたペレットを一つ一つ数え、目安となっている個数をお皿に移した。ケージの扉を開け、お皿を置こうとすると、彼女は食べかけを咥えたまま怒った。「プゥーープゥー」と鼻にかかった声で抗議をしている。お皿を置くと、盗られないと安心したかのように、静かになった。ついでにチモシーと呼ばれるイネ科の乾燥した牧草も補充した。
手を洗い、布団には戻ったものの、すっかり目が冴えてしまった。ペレットが削れる音が部屋に響く。聞いているうちにまどろみ、再び金属音が部屋を埋め尽くした。
いつの間にか部屋の壁の白さをはっきり認識できるようになっていた。中途半端に目を覚ましてしまったせいで、二度寝をしてしまったようだ。
顔を洗い、朝食を簡単に済ませ、Tシャツとジーンズに着替える。仕事の遅れを取り戻したい。ゲラと書類を広げたところで、またユッコがケージを齧りだした。
ケージの扉を開け、人差し指で首元をなでてやる。彼女はゆっくりと目を閉じ、黄色い歯をむき出して見せた。人間の尺度で見るのは間違っていると思いつつ、笑っているようなその笑顔に、金属音をわずらわしく思っていた気持ちが押しよけられた。
彼女は牧草を食んだり、回し車を転がしたり、齧り木を削ったり、そしてときどき昼寝を挟みながらも定期的にケージを齧った。その度に私は作業を中断しなければならず、その日は予定の半分ほどしか手につけられずに終わった。
これは本当の飼い主に文句を言ってやるしかない。それに「だから、早く無事に帰って来てね」と付け加えるだけでいい。
私はカーディガンを羽織り、簡単に化粧をした。彼の乗る飛行機がどのターミナルから出るのかをネットで確認する。空港までの乗車時間はそこそこあったけれども、それにさえも浮き立ってしまう。車窓から見える夜景は変哲もないものなのに、煌めいて見えた。
初めて訪れる夜の空港には思いのほか多くの人がいた。高い天井と活気ある空間に、自分が旅立つわけでもないのに心が躍る。電光掲示板で彼の乗る便を確認し、チェックインカウンターの辺りをうろついてみる。見つからなかったら電話をするしかない。
運良くすぐに彼の姿を見つけることができたときは、笑みがこぼれた。彼は同じ色の紐を首からぶら下げた人達に囲まれていた。同じ会社の人だろう。そのうちの一人の女性が彼の腕をつかんだ。暗めの茶色のセミロングを巻き、紺のジャケット、フリル付きのシャツそして膝丈のスカートというきれいなオフィスルックだ。
彼はつかまれた方と反対の手で彼女の頭をなでた。困ったように微笑んでいる。
私は呼吸が浅くなるのを感じた。わずかな酸素を取り込む度に、昔の記憶がよみがえり、心臓を締めつける。
彼の乗る便の搭乗手続きの開始を告げるアナウンスが鳴り響いた。女性はようやく彼から離れたものの、正面に立ち、彼を見上げている。
心臓が金槌で叩くような強く激しいリズムを打っている。多くの人の旅立ちという未来を迎える中、一人過去に捕らわれ惨めな思いをしている自分を俯瞰すると、自然と足が駅の方へ向いた。
「麻友子!」
名前を呼ばれ、一瞬足を止めてしまったが、振り向かずに歩を進めた。
帰りの電車に乗っている途中、スマホが震えた。リュックの外ポケットを開くと、天馬君の名前が光っていた。電車の中であることを自分に言い訳にし、鳴りやむのをまった。
時間をかけて空港まで行き、成長のない自分を確認しただけで終わってしまった。思い上がっていたことに沸騰するほど顔が熱くなり、抱いた甘い感情を吐き出すために深呼吸をした。
今まで通りの生活に戻るだけだ。そう念じて仕事のスケジュールを頭の中で再生した。
家の鍵を開けると、暗闇の中から「ピッ!」という高い音が響いた。部屋の電気を点けると彼女はケージの手前に来て両手で柵をつかみ、私の様子をじっと観察していた。
彼が日本を発ってから三日が過ぎた日の朝だった。頭の奥に鈍く重い痛みを感じながらも仕事に手をつけ始めたときのこと。スマホアプリの単音が無機質に鳴り響いた。放っておこうかとも思ったけど、ユッコのことを心配しているのかもしれない。
「元気か?」
本当に遠く離れたところからかけてきたのかと疑ってしまうくらい、音がはっきり聞こえた。
「元気だよ。今日も」
「朝四時に起きてケージを齧って私の睡眠を妨げ、ご飯をしっかり食べて、今は寝ている」と続けそうになったけれども、
「ちゃんとご飯を食べたし、問題ないよ」
と自分の中の優等生を存分に発揮した。
「麻友子は?」
「元気だよ」
「空港に来てくれたよな?」
その時の気持ちを再現してしまい、言葉に詰まる。
「そっちって真夜中じゃないの? 早く寝た方がいいんじゃ……」
「名前を呼んだ」
いつもより少し強めの語気であっさりと遮られ、話を戻されてしまう。
「ごめん。会社の人といたみたいだから、邪魔したら悪いと思って声をかけなかったの。名前を呼ばれたことには気づかなかった」
「気づかなかった」という嘘は見抜かれていたかもしれないけれど、私にも自分の心を守る権利があるはずだ。
「謝るのは俺の方だ。俺は馬鹿だ。何も学んでいない」
彼はあまり否定をしない人だった。他人も自分自身のことも。心の内ではどう思っているかはわからないが、口にすることはまずなかった。
「天馬君……もしかしてホームシック?」
「俺を誰だと思っているんだ。楽しくやってるさ」
いつもの彼らしい調子に私はホッとする。少し間を置き、彼は話を続ける。
「学生のときもそうだった。俺は麻友子の気持ちを理解していなかった」
「でも、私たちはとっくに別れているから。今はただペットを預ける側と預かる側の関係」
彼は黙っている。これ以上何かを言われても、私は困惑するだけの気がする。
「ユッコの状況は定期的に報告するようにするから。じゃあね、おやすみ」
電話を切るまで、彼は何も言わなかった。彼が言い淀むことは珍しい。本当にホームシックだったのかもしれない。後から湧いたその発想が侵食し、後悔がその間に割って入る。
ユッコのケージの前に座り、音を立てないように扉を開いた。ハンモックの中でアンモナイトのような形で寝ている彼女を撮影し、彼に送る。すぐに既読となり、「ユッコの匂いを嗅ぎたい」と、変態じみた返信があった。
天馬君とは大学のフォトサークルで出会った。コンテストに投稿するような本格的なものではなく、身近なものを撮影して仲間内で見せ合うような気軽なものだった。初めはカメラに興味はなかったけれど、配られていた勧誘用のチラシが目を引いた。メンバーの誰かが撮影したシジュウカラの背中の黄色の鮮やかさに惹かれ、撮ってみたいと思ったのだ。
天馬君は人物を撮影することを好んだ。彼にカメラを向けられ褒められると、誰でもいい笑顔になれる。
私はというと、道端に生えている野草や落ちている石、野良猫や鳥など散歩コースにあるようなもの撮ることが好きだった。
一年目の本格的な夏が来る前だった。月一の定例会という名前の飲み会で、各々の成果物を見せ合った。目当ての鳥類は動くだけに難しく、ほとんど収めることができなかった。
それらしく撮れたのは野草ばかりで、誰のものと比べても退屈なもののように見えた。まるで私の人間性をそのまま体現したようだ。そう思い、電源を落とそうと指をかけたときだった。
「これ雑草? 好きなの?」
天馬君は私のカメラの液晶モニターをのぞき込んで尋ねた。カラスノエンドウの花の赤紫と空の青のコントラストが収まった写真が表示されている。
「うん。これはカラスノエンドウの花。野草とかそういうのが好きなの」
雑草と言われたことが少し悔しく、控えめに訂正をする。彼の纏う雰囲気は私のものと対極にあるから、馬鹿にされるのではないかと思って斜に構えてしまう。
「野草? 雑草との違いって何?」
てっきり流されるだろうと思っていたので、私は泡を食った。
「はっきりはわからないけど、邪魔だと思うか、きれいだと思うかの違いじゃない? たぶん」
彼はモニターから視線をそらさずに微笑んでいる。私が持ったままのカメラに手を伸ばし、写真を遠慮なく送っていった。ときどき指を止めては、物珍しそうに見ている。彼の呼吸を感じるくらい距離が近いものだから、私は聞かれてしまうのではないかと焦り、ますます心音を速める。
定例会はお開きになり、私たちは店を出た。二次会組は次の店をどこにするかを話し合っている。私は参加せずに帰るつもりだった。
「そういえば、椎名さんの住んでいる方面、最近痴漢が出るってクラスの女子から聞いた。気をつけてね」
野田君は親切にも声をかけてくれた。
「椎名さんは自転車?」
そう尋ねてきたのは天馬君だ。
普段は自転車で通学しているけど、その日は久しぶりの晴天で、散歩がてら通学をしてきたのだった。夜に定例会があることをすっかり忘れて。
「野田、俺二次会不参加で。椎名さんを送って帰る」
「わかった。先輩たちにも言っておく」
二人は私の意向を無視して、あっさりと決めてしまった。天馬君と話しをしたのは今日が初めてだった。気を使いたくなかったので、正直なところありがた迷惑だ。
夜道はしんとしており、痴漢でも幽霊でもなんでもいいから現れて、静寂と気まずさを破って欲しいほどだった。
「さっきは悪かった。椎名さんの大切にしているものを悪く言うつもりはなかったんだ」
彼の声が透った。そんなに気にしているとは思っていなかったので、反対に私が彼を傷つけてしまったのではないかと、決まりが悪くなる。
「私の方こそ、ごめん」
彼に申し訳ないと思ったというよりも、自分の卑屈さを打ち消すために謝罪を口にしたかった。
「俺の軽薄さが見抜かれたようだった」
横目で見た彼は笑っていた。心なしか、うれしそうにも見える。
軽い口調からはわかりづらいけど、彼は思慮深い人なのかもしれない。表面的な情報で判断していた私こそ軽薄だ。
特に話すことも思い浮かばず、気にしていない風を装って黙々と歩いた。潰しきれない何かを踏んでしまい、液体がピュッと飛ぶイメージが足から伝わる。サクランボンだろう。見上げるとソメイヨシノの木があった。隠す雲はないのに、星がほとんど見えないのは、田舎育ちの私からすると、不思議で仕方がない。伸び切っていた野草が刈り込まれたらしく、生ぬるい風が吹くと空気が青臭く染まった。
「俺には何もない夜道にしか見えないけど、椎名さんにはいろいろなものを集めているんだろうな」
見られていた気配はなかったから、面を食らう。
「天馬君は人をよく観察しているんだね」
「相手が椎名さんだからだ」
どう解釈すればいいものかわからず思考を巡らせてしまう。そんな風に他人の言葉に振り回されるのは苦手だった。そうこうしているうちに、アパートの前に着いた。古く、個性のないアパートが輝かしいゴールに見える。私は礼を言った。街灯で照らされている彼はきれいな笑顔を浮かべている。
「付き合っている人はいるの?」
「……いないけど?」
「じゃあ俺と付き合おう。連絡先教えて」
唐突な提案に私は顎を落とし、「へ?」と自分から出たものではないような間抜けな声が聞いた。
彼はズボンのポケットから自分のスマホを出し、右手に構えた。私が教えるまで引っ込める気はなさそうだ。私もスマホを取り出し、連絡先を交換した。
「じゃあ今日からよろしく、麻友子」
なにがよろしくなのかはわからなかったけれど、こうして流されるまま彼と付き合うことになった。
なんとなく始まった関係だったけれど、楽しいことがたくさんあった。遊園地やショッピングに出かけることはもちろん、近所を散歩したり、一日中布団の中でだらしなく過ごすことも退屈しなかった。彼とは趣味が全く違うのに、不思議と居心地がよかった。
彼は優しく、私が何をするにも褒めてくれた。その誉め方がわざとらしくないから心地よかった。「好き」や「愛してる」といった心をくすぐる言葉もたくさんくれた。
悩みがあるとすれば一つだけだ。彼は人好きのする容姿と性格の持ち主で、周囲には常に人が、特に女性が多くいた。彼は誰にでも優しいし、褒めるし、スキンシップも多かった。
誰と仲良くするのも自由だし、行動を制限して、可能性を狭めるのは彼にとっていいことではない。頭ではわかっていても心がついて行かず、嫉妬と募らせるだけだった。
「彼はそういう性格だから」「そんな彼を好きになった自分が悪い」。そう小さく諦めて、しまいには自分の嫉妬心に向き合うことに疲れ、互いに就職活動が終わったころに別れを切り出した。
彼は困惑と怒りを混ぜたような顔をしていた。初めて見る表情に私は委縮してしまう。
「少し疲れたの。それだけ。天馬君は何も悪くない」
悪いのは自分だ。彼とも自分とも折り合いをつけることができない自分が悪い。
「誰かに何かを言われたとか?」
私は首を大きく横に振る。
「俺は麻友子にたくさん『好きだ』って伝えたつもりだけど、それでも足りないか?」
十分だった。私にはもったいないくらいだった。でも私が望んでいたのは、そんな甘い言葉をたくさんもらうことではなかった。
そんなことを口にしたら、彼は怒るかもしれない。怒るだけならいい。彼らしさを奪ってしまうかもしれない。そんな権利は、私にはない。
「他に好きなやつができたのか?」
「違う。天馬君のことは大好きなことは変わりない。だから疲れたの」
「理解ができない」
「互いに理解ができないんだから別れよう」
彼は納得をしていないようだったけど、私たちは別れた。彼と過ごした日々が過去のものになっていくのはさみしかったけど、同じくらい心底安堵した。一緒に歩いたいつもの散歩道は私だけのものに戻った。
ユッコとの生活が始まって一か月。一口に説明すると、ものすごく大変だった。
彼女は非常に早起きだ。ほぼ毎日四時台に目を覚まし、ケージを齧って騒ぎ立てる。ひどいときには三時台に目を覚ますこともある。悪い夢でも見たのか、夜中に突然「ピッ!」と鳴き出すこともあったから、その度に起きて彼女をなでてなだめることもあった。私の生活のリズムは大いに狂わされ、新生児のいる家の苦労を生まれて初めて想像した。
疲れが取れず、仕事も滞り、それだけでも散々なのに、追い打ちをかけるように実家の母から電話があった。
「たまには家に帰ってきなよ。まだ仕事が忙しいの?」
何かと理由をつけ、かれこれもう三年は帰省をしていない。帰るのが億劫になるほどの距離ではなかったが、実家に帰るとどうも消耗してしまう。
「忙しいのもあるし、友人からペットを預かっているから、あまり家を離れたくないんだ」
私が新しい口実を口にすると、「どんな?」と母は尋ねた。「デグー」と答えてもわからないだろうから、「ネズミっぽい生き物」とだけ答えた。
「ネズミ? そんなのを飼う人の気が知れないね。どうせ押し付けられたんでしょ? あんたって本当に要領悪いね」
「家族」を盾に母はいつも無遠慮に言葉を吐き出す。言っていることはどれも間違っていないのかもしれない。反論する意思は子供の頃にとうに奪われていたし、したところで、倍以上の反駁を受け、負かされるのも目に見えている。
「あの人も麻友子に会いたがってるし、そんなネズミ放っておいて帰って来なよ。そう言えばこの前あの人にすっごいムカついちゃって」
父の悪口がとめどなく続いた。「うんうん」と機械的に言いながらゲラを見る。視線は上滑りするし、赤ペンを右手に持つ手が全く動かない。
おしゃべりを楽しんだ母は満足したように、「近いうちに帰っておいで」と優しくねぎらうように言って電話を切った。十日分くらいの仕事をしたような気がする。電話が終わると、見計らったようにユッコがケージを齧り始めた。牧草を補充し、気分転換のために散歩に出かけた。金木犀の香りを運ぶ風を受けたら気分が和らいだ。天馬君は元気にしているだろうか?
家に帰るとユッコがいなくなっていた。ケージの扉が開きっぱなしになっている。きちんと閉じていなかったのかもしれない。
私はあわてて彼女を探した。名前を呼んでもペレットの袋を振って音を立てても、彼女は姿を現さなかった。私が家の扉を開けた隙に、外へ出てしまったのかもしれない。ペット化されているから野生に適応することなんて、できないはずだ。
外で微動だにできず、茂みに隠れて怯えているユッコの姿を想像すると、涙がにじむ。天馬君にもユッコにも申し訳なく思ったが、まだ近くにいるかもしれない。玄関に向かって踵を返す。
その時、カチャという音が部屋のどこからか聞こえ、その音の元を探した。ユッコはカーテンレールの上にいた。カーテンを伝って昇り、動けなくなったようだ。静かにこちらを見下ろしている彼女と目が合った。第三者目線で見たら、なかなかシュールな絵面だと思う。
イスに上って彼女を救出した。彼女は嫌がらずに私の両手に収まる。溜まっていたほこりを浴び、私はむせた。ユッコに怪我はないようだから、一安心だ。
デグーは、背中の毛は長くさらさらとしているけれど、お腹の毛は短く、下に隠された、指に吸いつくような柔らかい脂肪を感じることができる。温かさと気持ち良さから、調子に乗って触り過ぎたのかもしれない。
許容を超えたことを知らせるように、彼女は人差し指の先を強く噛んだ。血がぷっと浮き出る。彼女を落とさないよう痛みに耐えながらケージに戻したあと、洗面台へ向かった。
流しっぱなしにした水に指を晒す。痛みが脈を打ち、静かに血が流されていく。それなりの量の水を流しているのに、洗面台が白いせいか、血が混じっているのがはっきりと見えた。
絆創膏をあてて、部屋中をくまなく点検した。齧られたコードから感電し、火事になることもあるらしい。何か誤飲をし、死んでしまったという話もネットで見た。幸いなことに齧られていたのはイスのキャスターだけだった。黒いプラスチックが粒となって散らばっている。学生時代から使っていたものだから、買い替えるいい機会になったと思うしかない。
その晩、ユッコは静かだった。たくさん自由に遊んで疲れたからかもしれない。私もゆっくり眠っていたかったけど、指の痛みがそうはさせてくれなかった。噛まれたところから次第に腫れ始め、手の甲まで広がった。赤く腫れた手は野球のグローブを髣髴させる。掛布団が触れて擦れるだけで痛み、仕事が一層滞ることを想像すると、頭が痛くなった。
翌日、朝一番に病院へ行った。ときどきお世話になる近所の病院で、初老の男性の先生が診てくれる。
「飼っているネズミに人差し指を噛まれて、腫れてしまって」
例によって、齧歯目の総称である「ネズミ」を借用する。私が差し出した手を先生は消毒し、その上から大きめの絆創膏を貼った。
「はい。じゃあ上着を脱いで」
目の前では先生が注射の準備をしている。破傷風予防のものらしい。私はTシャツをまくって腕を出した。腕とは反対の方を向き、意を決して目を閉じる。噛まれた上にさらに痛い思いをするなんて、ペットなんて飼うもんじゃない。
「それにしてもネズミね」
先生の口調には嫌悪が含まれているように聞こえた。私たちとは違って、ドブネズミが家にも外にも現れることを体験している世代だ。あの長い尻尾は嫌悪の象徴のようなものだろう。
私だって好きで飼っているわけじゃない。生活は不規則になるし、怪我までした。それでもかわいところはあるし、知りもせずに嘲られるのも癪だ。
「まぁでも好き好きだよね。お大事に」
続く否定や侮蔑を予想してうんざりしていただけに、肩透かしを食らった気分だ。好きにはなれなくても、理解はしてくれる。そんな人もいると知り、診療に対するものとは別に、心の中で小さくお礼を言った。
その晩、天馬君から電話があった。預かって以来、週に一回くらいは電話を寄こしてくる。ユッコの近況報告から始まり、互いのプライベートを共有する。南アフリカでの生活は楽しいらしく、異国情緒あふれる話を聞くのは、私の最近の楽しみの一つになっていた。
「ユッコも私も元気だよ」
心配をかけまいと、ユッコのお転婆ぶりは内緒にしておく。
「そろそろ麻友子も疲れてきたところじゃないかと思ってたんだけど」
「思い当たる節があるの?」
「俺は飼い始めてしばらくは寝れなかったし、手を何度も噛まれた」
まさに今の私と同じ状態だ。噛んだ張本人を見やると、素知らぬ顔で伏せて寝ていた。
「女同士だと上手くいくのかな?」
「寝れてないし、手も噛まれたけど、一応元気だから」
「悪い。飼育費用から治療代を出しておいてくれ」
彼曰く、ユッコは甘えん坊で好奇心が強く、それなのに神経質なところもあるとのことだった。環境に慣れ、たくさん遊ぶと満足して寝てくれるらしい。ユッコの攻略法は伝授されたものの、どうしたらいいものか頭を抱える。
ネットで調べたところによると、多くの飼い主が部屋に放って、遊ばせているらしい。退屈させないためにも有効なようだ。一方で、それは危険も伴うし、壁紙や床を齧られてしまうこともあるという。
私が借りているアパートではペットの飼育が禁止されていた。電話で話をしてもあしらわれてしまうのは経験からわかっていたので、アポだけ取って、わざわざ管理会社に赴いた。事情を説明し、部屋にダメージを与えないことと、他の住人には言わないことを約束し、元の飼い主が戻るまで、という条件でなんとか飼育許可をもらった。
部屋に放つことを知られたら、家を追い出されかねない。かと言って、ペット可物件に引っ越すのも、いずれ天馬君が帰ってくることを考えると、ためらってしまう。それに短い時間で何度も引っ越しを繰り返すというのは、ユッコへの負担となるだろう。
ペットサークルの購入も考えたけれど、部屋を見渡してあきらめる。今は落ち着いているものの、仕事によっては段ボール数箱分の資料であふれかえるし、広げるためのスペースも必要だ。そうなると、大きいペットサークルは用意できず、効果は期待できない気がした。
退屈させないためにもう一匹飼うのはどうだろう。ペットチェーン店のホームページを見、デグーのいる店舗を探した。自転車で行ける範囲の店舗にいるようだったので、さっそく行ってみた。
石鹸と消毒液を混ぜたような匂いの中に、少しだけ動物の臭いを感じた。店内は犬や猫、そしてそれらのためのグッズを中心に埋め尽くされていた。奥の方にひっそりとある小動物コーナーにはつい親近感を抱いてしまう。
ユッコとは違うカラーの、ブルーと呼ばれる青みがかったグレーのメスがいた。私がアクリルケースをのぞくと、その個体は木箱の中に隠れてしまった。臆病なのだろう。こんなにも小さい生き物なのに、個性が強くあることに興味がそそられた。
私がデグーのケースに張りついているものだから、店員さんが声をかけてくれた。事情を説明すると、
「メス同士は仲良くなりやすいとは言われていますが、そうとも言い切れないんですよね。激しいケンカになって大けがをしたり、かえってストレスになる可能性もあります」
という答えが返ってきた。よかれと思ってしたことが、本当に彼女のためになるとは限らないらしい。万一、相性が悪かった場合、ケージをもう一つ用意しなければいけないし、それは私の負担にもなる。負担が増えれば、ユッコのために使える時間も減ってしまうだろう。
私が「こうしたい」と思っても、彼女それを望んでいるとは限らない。何が一番ユッコのためになるかを考える日々が続いた。
おやつを与えてみたり、ねこじゃらしであやしてみたりもした。抱っこをされ、自由を奪われることは好きではないけれども、なでられることは、いつまでたっても飽きが来ないらしい。なでる箇所を変え、時には両手で少し強めに揉んだりもした。
考え、試して過ごしているうちに、ユッコは極端に朝早く起きることは少なくなった。
私も徐々に元の生活リズムを取り戻し、ユッコと触れ合う時間を定期的にとれるようになった。ケージを開け、浴び砂の入ったガラス製のボトルを持っているのを見ると、彼女は私の手にまとわりついた。ボトルを置くと、彼女はその中に入り、体を転がして毛の汚れを取った。砂の粒がガラスを叩き、ボトルの中で小さく響く。砂は外まで飛び散り、煙が舞った。
体のお手入れが終わったら、私になでられる。私は両指を使って彼女の顔をなで繰り回す。気持ちがいいらしく、「ピピピピピ」と鳥がさえずるような声で鳴く。お腹や脇の辺りをなでると、目をつむり、なでられる面積を広げんばかりに手をいっぱいに広げた。胡坐をかいた私の腿に乗ってもらうと、その部分だけ明かりが灯ったようにぽっと温かくなる。彼女が伏せて気持ちよさそうになでられているのを見ると、心も温まるようだった。
一番大きな変化はお礼に甘噛みをしてくれるようになったことだ。同じ齧歯目でも、ハムスターにはない現象らしい。しばらくなでたのちに手を止めると、私の手の表面を削るように齧ってくれる。これがけっこう痛いのだけれども、飼い主として認めてもらえたようでうれしかった。手を噛まれた直後は触るのが怖かったけれど、めげずに世話をし、触れ続けた甲斐があった。
初めの頃からは考えられないくらいコミュニケーションを取れるようになり、ユッコは私の生活の一部になり、私はユッコの生活の一部となった。互いの生活リズムを把握し、すり合わせ、ちょうどいいところを見つけられたのだと思う。聞いてはいたが、デグーというのは本当に賢い生き物らしい。
ユッコと暮らし始めて半年が過ぎた。天馬君が旅立ってから半年、という意味でもある。この一か月ばかり電話がなかった。送っていたユッコの写真や動画には既読表示がついているので、生きてはいるらしい。
でも、本当に無事なのだろうか? スマホを盗んだ誰かが勝手に見ているだけかもしれない。南アフリカでのテロや事故の報道はないから、単に忙しいだけだろうけれども。
話をしたかった。なぜ彼がユッコと暮らすようになって、「愛を知った」と言ったのかがわかった気がした。そして、私にユッコを預けた理由も。
彼が変わろうとしている一方、私は昔のままだ。空港に見送りに行ったとき、私は逃げてしまった。彼が女性と親しくしているのを視界に入れたくなかった。
心の中でせめぎあいが続いたけれど、思い切って電話をしてみることにした。ユッコについて報告をするという口実もある。私からかけるのは初めてで、いつもより早い心音が指先にまで伝えているようで、少し震えている。しばらく待ってみたものの彼は電話には出なかった。安堵と残念に思う気持ちでドッと疲れたので、散歩に出かけることにした。特に何か必要なわけではなかったけれど、スーパーにもついでに寄ろうと決める。
スーパーの入り口で、買い物を終えた野田君と久しぶりに会った。
「連絡あった?」
「誰から」と言わないところに彼の配慮を感じた。天馬君が私に連絡をしていないことも想定していたのだと思う。
「天馬君からならあった。今、彼のペットを預かってるの」
「なんだっけ? テグー?」
「それはトカゲだね」
「相変わらず動物に詳しいね」
「野鳥とかそういうのを少し知っているくらいだよ……あのさ、天馬君と連絡取ってる?」
「いいや。最後に会ったのは天馬が南アに行く少し前かな。何かあったの?」
野田君は怪訝な顔をしている。話が長くなることを考え、邪魔にならないよう入り口から少し離れたところに移動をした。
「実はこの一か月くらい連絡が取れてないから、心配になって」
私がそういうと、野田君は自分からも連絡を入れると申し出てくれた。
「椎名さんの家とか連絡先が変わってないことを天馬に教えちゃった。ごめんね」
私は首を横に振った。野田君が教えなくても、天馬君のことだから、どのみち何らかの方法で知ろうとしただろう。
「嫌いで別れたわけじゃないし、困っていたみたいだから。気にしないで」
「一つ聞いていい?」と前置きをし、野田君はためらいがちに私に尋ねる。
「嫌いじゃないなら、何で別れたのかな、って」
「気になるよね?」
「天馬が振られたときにも、なだめていたのは俺だし、気にはなる」
私は天馬君が落ち込んでいることも、野田君に話をしていることも知らなかった。天馬君のそんな姿を想像したら、心が痛んだ。
「好きなのに別れるって、変だよね」
「何か事情があったんだろうとは思う」
彼と付き合っていたときも、再会したあとも、自意識に苛まれている自分がいる。「彼がどうしたいか」を無視して、自分を守り続けようとしていた。彼は「愛が足りなかったから振られた」と言っていたけど、私の方こそ足りていなかった。私も、いい加減に向き合わなければいけないのだ。
「彼が他の女性たちと親しくしていることに嫉妬をしていたし、折り合いをつけるためにケンカもできない自分が嫌で、彼から離れたかったの」
天馬君と向き合えない自分の弱さを人に打ち明けたのは初めてだった。野田君は苦笑いしている。否定的な言葉を想像すると、怖くて怖くて仕方がない。
「悪いのはやっぱり天馬だ」
野田君は眉間にしわを寄せながら笑った。否定されなかったことに安堵し、肩から力が抜けるのを感じた。
「彼と向き合わずに逃げた私もいけなかったと思う」
長年溜め続けたものを吐き出したら、胸のつかえがとれたようだった。心配そうに見ている野田君を安心させるために、意識的に口角を上げてみる。
「だから、次に彼と話すときに、あのときの自分の気持ちを伝えようと思う」
野田君は、ようやく表情を緩めた。感情が表情についてきたようで、私も笑ってしまった。
その晩も天馬君からの連絡はなかったけれど、翌朝、「次の土曜日に電話する」という短いメッセージが届いていた。忙しくて見るのも大変かもしれないと思い、あえて返信はしなかった。連絡があったことをとりあえず野田君に伝えよう。
彼が私の気持ちを否定しないであろうことは、ユッコを託したことからもわかったつもりだった。
それでも、七年間秘め続けた気持ちを打ち明けている自分の姿を想像するだけで、心音がはっきり感じられるようになった。
空になったマグカップを手に、イスから立ち上がった。その音で察したユッコが牧草を食むことをやめ、ケージの手前にやってきた。小さな両手でケージの柵をつかみ、私を観察している。かまってもらえないとわかると、彼女はまた牧草を齧り始めた。イスの上で膝を抱えて座り、淹れ直した紅茶を飲みながら、ユッコの立てる咀嚼音に耳を傾ける。牧歌的なその音を聞いていたら、心が落ち着きを取り戻し始めた。
土曜日の朝を迎えた。スマホを確認したが、今のところ着信は残されていない。今日一日をこうして落ち着かない気持ちで待っていなければならないと思うと、緊張で吐き気を覚えるくらいだった。ユッコと遊ぼうかとケージに近づいたときだった。スマホが鳴り、ユッコの警戒する声が響いた。何も考えずに、すぐに出る。
わずかに間が空き、ネットの通信不良を疑ったが、あくびをかみ殺している音が聞こえた。
「連絡できなくて悪かった。野田からも『生きてる?』って連絡があった」
「心配していたんだけど、元気そうでよかった。忙しかったんでしょ?」
「死ぬほど忙しかった」
「信号が青になった」や「明日の天気は晴れだ」と同じくらいあっさりと言うけれど、またあくびをしている声が聞こえたから、かなり疲れているのだろう。
「出されていた宿題の件、何を言いたいのかわかったから」
「なんだったかな」
「ユッコをお迎えして、ようやく愛を知ったってやつ」
「ああ」と相槌を打った彼の声や優しいものだった。笑みを浮かべているのがわかる。
「俺から答えを言わせてくれないか?」
「どうぞ」と私が言うと、彼は深呼吸をした。
「俺はあのとき、『自分が麻友子に対してどうしたいか』ばかりで、麻友子が本当に何を望んでいるのかを全く考えていなかった」
彼がしたいと思ってしてくれたことに私は不満なんてなかった。それはたぶん、彼もわかっている。視界がぼやけ始めた。喜びからか、それとも自分の愚かさを嘆いてかはわからない。
「俺は俺なりに麻友子を大事にしていたつもりだったし、麻友子も俺のことをよく理解してくれていた。だから気づかなかった。俺は麻友子のことを理解しようと思ってなかった」
彼はもう一度深呼吸をし、話を続ける。
「俺が気づけないこともあると思う。だから麻友子も理解されようとしてくれ。何をして欲しいとか、して欲しくないとか、もっと言ってくれ……って俺たち、別れたんだけどな」
彼は自信がないのか、徐々に声音が弱くなっていく。私は「うん」と返事をしたけれど、鼻をすすりながらだったから届かなかったかもしれない。
「今、付き合っている男は……いや、いてもいなくても関係ない。俺とやり直してくれないか?」
初めからそうだった。彼は私の話をいつも丁寧に聞いてくれていた。私が否定されることを恐れず、話をすればよかっただけだ。
ユッコはいつの間にか静かになっていた。頭の先をハンモックから出して寝ているようだったが、目を閉じ、黄色い前歯を見せているその顔は笑っているようだった。
デグーの教科書 小峯洋 @yo_komine
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