第22話 青山一葉の場合 <依存>
一葉は眼鏡を外して目頭の辺りをゆっくりと指圧した。
パソコンの画面に集中していたせいか、目を酷使してしまったようだ。
ふとパソコンの画面の時間を見ると午後の九時を回っている。
あ……もうこんな時間。
一葉は集中して『ニューワールド』をプレイしてしまった。
本来であれば、薫に指示されていた原稿を進めなくてはいけなかったが、原稿は全く進んでいない。
普段なら薫に進んでいない原稿について何か言われてしまうのを恐れてびくびくしてしまうのだが、今の一葉はそれ以外のことで気を取られていた。思い出すだけでじっとりと掌が汗ばんでいく。
ひと息ついて切り替えようと思った一葉は作業部屋から出てキッチンへ向かった。
キッチンには最近お気に入りの古民家カフェ・芦花で購入したコーヒーがあった。
仲良くなった女主人の芦花におすすめされた一品だ。
大人しい一葉に対して「一葉ちゃん」と気安く声をかけてくれ、優しく接してくれる芦花に母親の姿を重ねていた。
芦花から元気をもらおうとコーヒーを飲んで、それから執筆作業に取り掛かろうと思った。
キッチンに隣接しているリビングルームを横切る時、窓の外が目に入った。
近づいてみるとちらついていた雪が止んでいた。
少し視界が開けたせいか辺りがよく見える。
もちろん隣の学校も。
一葉はリビングにあるソファセットのテーブルの上に置きっぱなしになっていた双眼鏡に手が伸びた。そのまま窓辺に立ち覗き込む。
「あ……」
一葉は薫がよく観察している部屋に明かりがついていることに気が付いた。
こんな時間にどうして……と疑問が浮かぶ。
つられるように凝視するとはっと息を飲んだ。
生徒の横顔がちらりと見えたからだ。
一葉は急にどきどきしてきて双眼鏡を外した。
しまった、ダメなのに……。
ただでさえダメな自分なのにこんな行為をしてしまうと、余計にダメだと感じてしまう。
でも、自分はダメな人間なのだと分からせるためには、覗いた方がいいのかもしれない。
一葉は気持ちが塞がっていた。
自分の居場所だと感じていたオンラインゲーム『ニューワールド』内で、一葉が仲間とともに住んでいる『シェアハウス・ビタミン』唯一のルールを破ってしまった。
それは現実を持ち込まないこと、だ。
ゲーム内で団体戦バトルを繰り広げていたが、一葉はカカオの手腕に素晴らしさを感じて、まだまだ貧弱な語彙力だが小説家の端くれとしてどうしても言葉で賞賛したかった。
しかし、ぽろりと漏れてしまった言葉は、自分がこの現実で小説を書いているということだった。
『……それは一体誰のことなんだい?』
アセロラのメッセージを思い出すと、一葉の胸を突いた。
もしかしたら、シェアハウス・ビタミンを出て行かなければいけないのかもしれない。
そう思うと一葉は足元から崩れて行く感覚に襲われた。
「一葉ちゃん、まだ起きていたの?」
急に声を掛けられ、一葉はびくんと肩を跳ねさせた。
「あ……詩織さん」
驚いて振り向くと、リビングルームの入り口に詩織が立っていた。
そうだ、今日は泊まっていたんだっけと一葉は思い出した。
「どうしたんですか? あの先生は……?」
「こっちは疲れてるのに、ワインの飲み比べを誘ってきたくせに私より先に潰れたわ。いい加減お酒が弱いことに気が付いてほしいんだけど。あ、お水もらえる?」
「あ、はい」
一葉が詩織の傍を横切ると一瞬手に重みを感じた。
「一葉ちゃん、覗いてたの?」
目の前に見せられたのは双眼鏡。先ほど使っていたそれは詩織の手の中にあった。
一葉はバツの悪い気分で一杯になる。すみません、と俯き小さな声で謝った。
「あの部屋ね……もう一つの保健室なんだけど。時折、倒れてしまう子がいてね。目覚めるまであの部屋で過ごしている時があるの」
叱られると思った一葉は顔を上げ、静かに話し出した詩織の横顔を凝視した。
「あの部屋にいるのは……かわいそうな子なの。現実を受け入れることができなくって……自分の世界を彷徨っているの」
「自分の……」
「きっと自分が一体何をやっているのか、わかってないんだと思う……」
現実を受け入れられない。
まるで、誰かさんのよう。
「一葉ちゃんは大丈夫?」
「え?」
「自分を大事にしてあげれてる? 勝手なんだけど心配してたのよ」
「どうして……」
「どうしてって……あなたがここに来た理由と今やっていること、ズレているでしょう?」
一葉はぐっと息が詰まった。
「一葉ちゃんは大人しいタイプだし、きくはああだし。ゴーストライターをさせられているのも無理やりでしょう?」
「全然! そんな……そうじゃないんです……。私は書かせてもらっているんです。先生には感謝しているんです」
「じゃあ、なぜそんな顔をしているの?」
一葉は目を丸くした。
どんな表情をしてしまっているのだろうか。
一葉は急いで笑おうとするが強張って上手くできなかった。
「一葉ちゃん。あなた、こっそり違う小説書いているでしょ?」
「え!? な、な、何で……」
一葉はぎょっとして詩織を凝視すると、彼女はすまなさそうに眉尻を下げた。
「……ごめんね。先週ここに泊まりに来た時、たまたまファイルが開いていたから少し読んじゃった。あなたの作品を読んでね……本当はきちんと自分の名前で書きたいんじゃないのかなって思ったの。私はあなたの文章が好きよ。ニセモノである必要はないと思う」
一葉は弱々しく横に首を振った。
「……詩織さん。私、ニセモノでもいいんです。ホンモノの私は何もできないから」
自分に出来ることはとても少ない。
様々なことに対して不器用に生きてきた一葉にとって、本当の自分で物事にあたり上手くいった試しは少なかった。
詩織のようなタイプの人間には、何故そう生きてしまうのか到底解らないだろう。
ふと窓ガラスに映った自分の顔を見てみると、おどおどした印象の薄い顔がそこにあった。
「何もできないなんてそんなことないわ。あなたの人生よ。自信を持ってやりたいことをやって生きるべきだわ。やりたいことを我慢するなんてもったいない。言いたいことがあれば言うべきだわ」
「言いたいことなんて……」
「そんなのあるわけないじゃない」
唐突にリビングに響いた声を追って見れば、いつの間に起きてきたのか薫がリビングルームの入り口に立っていた。
目をしょぼしょぼさせてつまらなさそうに一つ欠伸をする。
「騒がしくて起きてみれば。詩織、何を仕方のないことを言っているのよ?」
「仕方のないこと?」
「そうよ。世間知らずで自信がなくて何にも出来ないのよ、この子は。かわいそうでしょう? だから私が面倒を見てあげているの。書くチャンスだって与えてあげたの」
「恩着せがましい考え方はやめなさい」
詩織が薫を鋭くにらんだ。
しかし、薫は飄々として一葉の傍まで来るとそっと肩を抱いた。
「この子はね、私がいないと駄目なの」
薫は悪びれもせず言った。
「そうです……先生がいないと駄目なんです。私は何も出来ない……」
一葉は自然と言葉が零れ落ちた。
その言葉に詩織が何とも言えない表情を浮かべ、薫は一葉に向かって優しく微笑んだ。
「詩織、勝手なことを言わないでちょうだい」
薫は言ったそばから大きな欠伸をし、目がしょぼしょぼするのか手で擦っていた。
そのままふらりキッチンへ行き冷蔵庫を開けた。ぷしゅっと軽い音が鳴った。ミネラルウォーターでも開けたのだろう。
「……一葉ちゃん。いいの、それでも?」
「……詩織さん、気にしないで下さい」
「でも……」
「……あの、先生を連れて行ってもらえませんか? あんなに眠そう。私、仕事しないと……」
一葉はくるりと背を向けて作業部屋へと戻ろうとしたところ、背中に声がかかった。
「一葉ちゃん、一つだけいい?」
「何ですか?」
「病院の近くにね、古民家カフェがあるんだけど知ってる?」
「知ってますけど……」
急にお気に入りのカフェの名前が出てきて、一葉は訝しげに詩織を見た。
「コーヒーが美味しくて私も良く行くんだけど、悩んでいる時にもそこに行くのよ。カフェのマスターがね、話を聞いてくれるの。私より遥かに人生を知っている人。一度行ってみて。気分転換になるし」
「……はい」
「あまり根詰めすぎないようにね」
「はい」
一葉は返事をした後、すぐに背を向けて作業部屋と戻った。
詩織の言葉が痛い。
胸に刺さって見たくない何かが育ちそうで怖かった。
ふと一葉は思った。
私はあの子と同じなのかもしれない。
一葉は今日見た患者のことを思い出し、自分と重ね合わせた。
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