第16話 青山一葉の場合 <日常>


 私は先生に憧れている。


 読者の先入観を利用するミスリードの巧みさや想像だにしない犯行方法、犯人にすらも感情移入させてしまう心理描写、そして一気に伏線が回収された時のカタルシス。

 どれをとっても心を鷲掴みにして離さない。


 青山一葉はノートパソコンで作業をしていた手を止め、傍に置いていた小説の文庫本の上に手を置いた。北千住薫の作品だ。手のひらからじんわりとパワーをもらっている感覚がする。

 私もそんな小説が書きたい。

 もう少し頑張ろうと再び手を動かし始めた。


 ふと広い作業用デスクの上にあったスマホが鳴りだした。

びくんと肩を跳ねさせた一葉は作業していたファイルを慌てて閉じた。代わりに別のファイルを開ける。

 鳴っているのは自分のスマホではなく、先生のスマホだ。

 急いでスマホを手に取り画面を確認すると出版社からの電話だった。


「先生、薫先生……」


 作業をしていた部屋からパタパタと小走りに廊下を移動しリビングに向かった。


「いいわ、いいわよぉ。そう、そうやっちゃってっ」


 リビングに入るとお目当ての人物は双眼鏡を覗き込んでいた。

 少し興奮しながら不敵な微笑を浮かべている女性。歳は三十半ば頃か長い髪を緩くまとめ、質の良さそうな濃紺のガウンを羽織っている。

 彼女は雪のちらつく夜空を映し出したリビングルームの大きな掃き出し窓の傍に立ち、熱心に観察中だった。


「薫先生」

「なーに? 一葉」

「先生、お電話が入っています」

「誰から?」

「出版社からです」

「貸して」


 一葉がスマホを渡すと、華やかなネイルを施した薫の手が双眼鏡を手渡してきた。

 綺麗な女性の手、と一葉は思った。


「もしもし、お待たせいたしました。大作家・北千住薫でございます。……ああ、編集長! ご無沙汰しております。……え? 『その時、研修医は見たシリーズ・看護師その秘密』が重版決定ですって? まぁ、ありがとうございます。ええ……今度もベストセラーになる? まあ、お上手なんですからっ。はい、ええ……え、次回作ですか? そうですねえ……」


 電話越しにハイテンションで話す彼女を見て、すごいパワーだな、と一葉は思った。


 作家・北千住薫はミステリを主としている小説家である。

 大作家と自称しているがその二つ名に劣らず、ここ最近ベストセラーを次々に出している。

 人気作家ともなると住む場所も違う。

 一葉が今いるマンションは薫が所有しているマンションだ。ヨーロピアン調のデザイナーズマンションで所謂高級マンションと呼ばれている建物だ。

 五階建てだがわずか十三邸しかなく、重厚で品格ある外観で広々とした余裕のある造りになっている。マンションのエントランスや室内の玄関は大理石でデザインされ、内装は一つ一つの部屋が広い上、天井が高く上質な素材を使用されており、一般庶民の一葉からすれば気後れしてしまう家だ。

 家賃がいくらなのかは想像もしたくない。おそらく大学生になったばかりの一葉の想像を超えているだろう。

 リビングの窓に映った自分の姿を見て場違いだなと感じてしまう。

 地味なカーディガンに長めのフレアスカート。当たり障りのないデザインの眼鏡をかけている姿は、どこからどう見てもただの学生だ。

 このマンションに住んでいるとは誰も思わないだろう。

 でも一葉はここに住んでいる。薫のために住み込みのアルバイトをしている。


「そうだわ……例えば、二人の研修医が心の病に懸かった患者に遭遇し、事件に巻き込まれるスペクタクル・ミステリー! っていうのはどうでしょうか。は? 今すぐ書いてくれですって? いやでも……まぁ、そちらで出版するとは限りませんし? ……ふふ、編集長にはお世話になっていますしね。その話についてはまた後日にでも」


 薫はスマホの通話ボタンを押し電話を切った。ふぅとひと息吐くやいなや猛然と一葉の傍へ駆け寄り、一葉の両手をがっしりと掴むと喜びの大きさの分だけぶんぶんと上下に振り回した。


「一葉、重版決定よ! また大ヒット間違いなしねっ」

「先生、おめでとうございます」

「大作家・北千住薫の快進撃は止まらないわね。世間に薫ブームを巻き起こしてやるわ!」

「その意気です、先生」


 一葉は腕をぶんぶんと振り回される勢いで眼鏡がずれてしまい、時折直して困った表情を向けているのに、それでも薫は一葉の手を放さず喜びを爆発させていた。


「それにしても嬉しいわぁ」

「はい、先生」

「うふふ、これもお隣の学校のお陰よねぇ。五色学園、ホント最っ高!」

「……そう、ですね」


 薫は再び窓へと興味を移し、その窓から見える情景に目を眇めた。


「このマンションから見えるあの学校は、小説を書くのに恰好の材料だわ。……ほら、一葉こっちに来なさい」


 手招きされ一葉は窓へと近づく。

 窓の外を見れば学校から漏れる蛍光灯の明かりで、学校をぐるりと囲む木々がぼんやりと明るく照らされ幻想的に見えた。


「双眼鏡で見てごらんなさい」

「いや、でも……」

「一葉、誰も気づかないわ」


 こくりと唾を飲み込んだ一葉は、言われた通りに双眼鏡を覗き込んだ。

 薫が愛用している高性能の双眼鏡だ。遠くまでハッキリと見えてしまう。


「どう、見える?」

「はい」

「一葉、あそこの校舎を見て。二階の左から三番目の部屋に人がいるでしょう?」


 一葉が薫の言う通りに視線を動かすと、なるほど白衣を着た人物が三人と生徒と思われる人物が一人いる。

 最近のお気に入りスポットなの、と薫は付け足した。


「今の時間は夜の七時過ぎか……こんな遅い時間に何をしているのかしら? 時々、あの部屋に今いるメンバーが揃うの。大人しそうな生徒なのに一度暴れたこともあるのよ。大人しい人が取り乱すって……何が起こっているのかしら。想像するだけでゾクゾクしちゃう」


 ふふ、と笑う薫は楽しそうだ。

 本当に何が行われているかはわからないが、薫は想像力を掻き立てられるらしく、得も言われぬ快感が得られるらしい。


「一葉、これを見て何か思いついたことは?」

「……あの、先生。こういうこと、やっていてもいいんですか……?」


 ここに住み始めてからの趣味だと薫は言っていた。時々、一葉もネタ探しだからと言って薫の言うままにやらされているが、当然この行為に対して罪悪感が大きい。

 一葉は恐る恐る視線を薫に向けた。

 一葉より背が高くてスタイルがいい綺麗で大人の薫が、切れ長の双眸をひたりと一葉に向けていた。


「一葉、私に意見する気?」


 強い言葉だった。一葉はひゅっと息を飲んだ。

 ただ薫と言えば一葉が述べたことに対して嫌悪を表したわけではなく、目を丸くしただ驚いたとその一つの感情だけを表情に浮かべていた。

 傲慢で不遜でひどく純粋な先生、一葉はそのアンバランスさも薫の魅力の一つなのだろうなと感じていた。


「……いえ、先生」

「あなたは余計なことは考えずに小説を書いていればいいのよ。締め切りまでまだ時間はあるからゆっくり考えなさい」

「はい」


 薫は軽い口調で話し、一葉の持っていた双眼鏡をすっと手に取った。そのままダイニングキッチンの方へ移動する。きっとお気に入りのワインでも飲むのだろう。

 一葉はふぅと溜息を吐き緊張を解いた。


 一葉は大学に入学と同時に住み込みのアルバイトを始めたが、それは薫のアシスタント兼ハウスキーパーだった。

 そしていつの間にか、彼女の小説を代筆している。

 世間的に言えばゴーストライターというヤツだ。それが日常化したのはさほど時間はかからなかった。

 大学入学を機に上京する一葉に、出版社で編集者をしていた親戚が頼み込んできたのが始まりだった。

 北千住薫の下で住み込みでアルバイトをしてほしい。締め切り破りの常習犯で困っている。一葉は北千住薫のファンでしょう、と泣きついてきたのだ。

 一葉は小説家になるという夢を持っている。その夢を目指すきっかけになったのは読書だ。一葉はとりわけ北千住薫の作品が好きだった。高校時代に出会いその魅力に取りつかれてしまった。

 また本人に出会えば突拍子もないことをする予測できない大人で、大人しくスクールカーストでいうと下位の自分とは真逆の存在に惹かれないわけがなかった。

 ゴーストライターと言っても小説を書かせてもらっている。住み込みだがちゃんとアルバイト料がでている。

 上京して大学に通っているが、廻りに上手く溶け込めずいまだ友人がいない一葉にとって、好きなことができるこの仕事はとても贅沢なのだと思う。


 しばらくして、ピンポーンとインターホンが鳴った。

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