十三・復活 その6
遥か向こうに、先ほど貸し出したボートが浮かんでいる。
「ボート、出ているのね。借りてったの、誰?」
「名前なんて知るかよ」
「男? それとも女の人?」
「どっちも。……思い出した。男の方は塚って呼ばれていた」
「ああ、あの人ね。どこかとぼけた顔した、年齢不詳って感じの」
くすくす笑い始めた千春。
笑い声に被せるように、芹澤が続ける。
「釣りだってさ。女の方は、髪が長い人。似合わないね」
「その人は多分、堀田っていう人だわ。似合わないって、堀田さんが釣りをすること? それとも二人のバランスっていう意味?」
「どっちでもいいじゃないか」
「……元気ないんじゃなくて、不機嫌なんだ、行人」
「な――」
「怒ってる。どうしたの? 堀田さん達に何か言われたんじゃない?」
「何でそう思うんだよ」
「さっき、石投げたのを見たから。届かなかったけど、ボートめがけて投げてたもんね」
「そんなつもり、なかったんだが……当たりだよ。あいつが――吉河原が来るとかして予定が狂いっ放しでいらいらしてたとこへ、あの塚って男に変なこと言われたから」
芹澤はすっくと立ち上がった。
「やっちゃおうか、もう」
続いて立ち上がった千春が、無邪気な言い方をした。
「大丈夫かな。色々と邪魔があるぜ」
首を捻る芹澤だったが、千春は頭を横に振った。
「私は平気。早い方がいい」
「……そうだな」
芹澤も決意したかのように、強くうなずいた。
* *
広げたままの地図を助手席に投げ出すと、車を再発進させた江藤。
「ジュウザ饅頭でも売っていれば、もっと分かりやすいんだろうがな」
自分のつまらない冗談に顔をしかめると、彼は咳払いをし、引き締めた表情を作った。
* *
欠伸をかみ殺した堀田から見て前方、塚は横顔にいかにものんびりとした風情をたたえ、釣り糸を垂れていた。
「幸せそうねえ、塚さん」
「そうですねえ。どうですかねえ」
曖昧に笑う塚。
「幸せと言えば幸せであり、不幸と言えば不幸と言える」
「何、それ」
「お馬鹿な魚が引っかかるのを、こうしてのんびりと待っているのは楽でいい。その反面、真奈美さん」
塚は顔だけを堀田に向けた。
「と大っぴらにできないってのは、実に辛いのですよ」
「ほーんと」
手にしていた文庫本を投げ出し、堀田は軽く伸びをした。
「奥さんの目が届かないところまで、久しぶりに来たって言うのに、テントじゃね」
「ま、道がない訳ではありませんよ」
釣竿を持つ手をじっと止めたまま、薄笑いを浮かべる塚。
「さっき、管理人小屋に寄った」
「それが?」
「こっそり、これを借りました」
塚は上着のポケットに手を入れると何かを取り出し、堀田の眼前に突き付けた。ちゃりんという音がした。
「鍵じゃないの」
「そうです。こいつのおかげで、バンガロー……四番のバンガローが自由に使えるんですよ」
「……周到ね」
呆れた風な息をついた堀田だが、その表情は満更でもなさそうだった。
「それにしても、釣れませんねえ」
塚は鍵を仕舞い込むと、元の姿勢を取った。
「おサカナの方がヒトよりも難しい。やれやれ」
* *
灰皿には吸い殻が盛り上がるほどになっていた。
「……人助けとは言え、危なくはないのかな」
煙草を挟んだ指を梨本へ向けながら、生島はため息とともに煙を吐いた。
「記憶喪失の奴を放り出せるかい?」
管理人の梨本は不服そうである。
「医者に診せた訳じゃないんだろう?」
「外科医には診せたが、脳や精神科の医者には診せてない」
「ほら見ろ。本人が言ってるだけじゃないか。記憶がないかどうかなんて、素人に判断できるはずがない」
「俺が決めたことだ」
への字に口を結ぶ梨本。
「いくら生島さんでも、口出ししてほしくないね」
「そりゃな、あんただけの問題で済むなら、口出ししないよ。でも、従業員として雇うってのは、客にも迷惑がかかるかもしれん話だぜ。ちょっと軽率じゃないかね。警察に知らせたらどうかな」
「吉河原君は、正直な人間だよ」
梨本が胸を叩くポーズをした。生島はそれに対し、苦笑を返す。
「梨本さんの人を見る目を、どうこう言いたくはないけどね。そもそも、その吉河原隆介という名前自体、あとから付けた物だと言ったよな」
「ああ、言ったさ。記憶がない上、身分を証す品を何も身に着けてなかったのだからね、彼は」
「何で、『吉河原隆介』にした?」
「湖に注ぐ川を二十分ほど遡った河原で倒れていたんだ。七月の終わり頃だったか、胸に重傷を負って、息も絶え絶えのところを連れて帰った」
「どうしてまた、そんな場所にいたのかね」
「知らんよ。身なりはぼろぼろ……と言うよりもむしろ、ほとんどちぎれて流されていた。上半身は完全に裸だった。登山者ではないだろうなあ。植物か鉱物を採集してたのかもしれん。きっとそうだ」
「やばいことにつながっているとは考えられないか?」
片目で目配せした生島。
「どんなやばいことだね。教えてもらおうじゃないか」
「そういきり立ちなさんなって。そうだな、たとえば……麻薬の運び屋だった吉河原は組織を裏切って追われる身となった。この近くの山に逃げ込んだが発見され、逃げる途中に重傷を負った。運よく助けられた彼は、これ幸いと記憶喪失を装い、そのまま姿を隠そうとしている」
「はっ! 馬鹿馬鹿しい。さすが、ドラマを作っているだけあらあな、生島さんはよ」
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