第37話 『月の名曲喫茶』 その2


 むかしのローマの貴族、ボエティウスさまは、音楽には、3種類があると考えた。


 まず、ムシカ・インストゥルメンターリス。


 これが、普段、人間が聞き演奏する音楽。


 つぎに、人間の体が調和的に存在する、ムシカ・フマーナ。


 これは、実際に聞こえる音楽が鳴っているわけではない。


 最高のものが、ムシカ・ムンダーナ。


 宇宙の音楽というわけだけれど、天体の運行や、四季のうつりゆきとか、自然の調和を現す音楽。


 哲学的に、この宇宙が規則的に奏でる理想の音楽なのだろう。


 その名前を冠した喫茶店なわけだ。


 まさか、月の商店街に、その名前の喫茶店があるなんて、思わなかった。


 ガイドブックにもなかったと思う。


 外開きのドアをそっと開けると、こじんまりとした店内には、2列の小さなテーブルと座席があり、一番歩道よりに、ちょっとひろめの座席がある。


 ぼくは、初めてでもあり、遠慮がちに会釈しながら座った。


 すると、初老のおばさまがやって来た。


 『いらっしゃいませ。地球の方?』


 『はい。』


 『それは、素晴らしい。なかなか、地球の方は寄ってくれなくて。メニューは、少ないですが、どれにしますか。それと。よろしければ、音楽のリクエストもどうぞ。こちらが、リストですよ。』


 『あ、はい。ありがとうございます。じゃあ、ホットコーヒーの、ミルク付き。それに、トーストで。』


 『わかりました。』


 メニューも、なんだか、懐かしい。  


 見回すと、ほかのお客様は、一番向こうの暗がりのなか、スピーカーの前辺りに、後ろ向きに座っている、女性らしき人だけである。


 わりに、大きな身体つきだ。


 なんとなく、どこがで見たような。


 まあ、いいか。


 しかし、びっくりしたのは、そのリストだった。


 『おわ。これは、すごい。モーツァルト先生、山とある。なんと、幻の、K.93がある(注1)。ベートーベン先生もすごい。お、ニ長調のピアノ協奏曲もあるぞ(注2)。な、な、な、な、カスキさんの交響曲だとお(注3)。素晴らしい。そりゃもう、これだなあ。』


 『コーヒーお持ちしました。トーストは、少しお待ちください。なんせ、年寄りひとりで、きりもりですの。なにか、お気に入りがありましたか?』


 『そりゃもう、カスキさんの、この、交響曲お願いします。だって、最後まで、CD化されなくて。気をもんだんです。』


 『あら、あなた、なみのしろとじゃなさそうですね。』


 『はは、いや、なみのしろとなんです。でも、この録音は、どこから?』


 『それが、遥かむかしの、珍品レコードを持ってきてくださったかたがあって。』


 『すごい、すごい。もう。聞きたくて、たまらない作品でした。』


 『それは、月までいらしたかいがありましたね。』


 マスターは、カーテンの向こうに消えた。


 『あの、スピーカーは、もしかして、タンノイかしら。』


 ぼくは、メカには詳しくない。


 タンノイのスピーカーなら、むかし、ある輸入レコード屋さんで、聞いた。上品な良い音だったが、レコードを買って帰っても、自宅では、まったく音が違った。


 プレーヤーや、アンプや、カートリッジも良いものかなあ。


 と、思ったが、見にゆく自信はない。


 判らないから。


 すると、いくらか、おどろおどろしく、音楽が始まった。


 すぐに、いかにも、フィンランド的な良い旋律が流れた。


 『ふうわあ〰️〰️〰️〰️。いいなあ。』


 と、思った。


 すると、暗闇にいた人がこちらを向いて、くっすりと、笑ったように見えた。


 どきっとした。


 その彼女は、すこし、しなをつくるようにしながら、こちらに、やってきた。


 こうして見ると、なおさら、美しい。


 いや、神々しい。


 しかし、これで、人妻である。


 それは、もちろん、かの王女さま、次期女王さま、であった。

 

 『あ。ども。』


 ぼくは、座ったまま挨拶した。


 本来なら、失礼なことなんだろう。


 しかし、王女さまが、一人歩きかい。


 危ないなあ。


 『ふふふ。まあ、あなたが、現れるとは、予測はしておりましたわ。ね、ママ。』


 トーストを持ってきた、おばさまが言った。


 『まあ。お知り合いなんですか。王女さまの。』


 『もちろん。地球使節団の、ライブラリーさま。重要人物ですよ。』


 『へえ。そうですかあ。まあ、変わったリクエストするとは、思いました。この曲リクエストした人は、初めてです。』


 『まあ、頭のなかは、音楽しかない方だから。』


 『こほん。』


 『あら、失礼しました、座っても?』


 それは、ぼくが、嫌だなんて、言うはずがない。




    ・・・・・・・・・・


 

 

(注1) 『深き淵より K.93』ケッヘル番号は与えられたが、モーツァルトさんの作品ではないとされる。C.G.ライターという方の作品らしいです。なかなか、録音はなく、ペーター・マークさま指揮の録音が知られているくらいだが、やましんは、大好き。


(注2) ベートーベンさまの『ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品61』を、『ピアノ協奏曲』に編曲したバージョン。ベートーベンさん自身による編曲。意外に、あまり、沢山の録音があるようでもない。カデンツァが、ティンパニ入りで、面白い。


(注3) ヘイノ・カスキさま(1885~1957)は、フィンランドの作曲家。ピアノの小品で知られるが、『交響曲ロ短調』を、自身の代表作品と認識していたとされる。しかし、CDがいまだに出てこないので、なんとか、やましんが生きてるうちに出てくださいと、ひたすら、願っております。シベリウスさまと、同じ日に亡くなったことでも知られている。





  




 


 

 


 

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