第20話 『練習』

 練習会場に入ると、すでに楽員さんたちは、所定の席に座って、大事な楽器をいじったり、こすったり、なでたりしているところであった。


 試し吹きなどもさかんにやっているから、騒音の渦中に巻き込まれたようなものだ。


 一般の方は入れないが、ぼくは関係者と言うことで、無事にパスすることができた。


 コンサート・マスターの席には、しっかりルイーザさんが座っている。


 彼女は、第1コンサート・マスターだが、多忙につき、次席の人に任せることが多いだろうとか、言っていたが。


 入口あたりに座っていた、ステマネさんらしき人が立ち上がり、音出しを制した。


 『ええーーーと。みなさん。いよいよ、本船は宇宙空間に出ました。現状、混みあう空間ですから、ゆっくりと月に向かっているとのことですが、それでも、一時間弱で、月に『つきます』。え~~、しゃれです。(反応なし。)こほん。で、到着しても、すぐには降りられません。全員が下船する訳ではないですが、検疫が行われます。なので、ここでの練習は、2時間です。副指揮者どのが、振ります。曲は、マエストロどのから、ベートーベン先生の七番をまず、するようにと、指示されています。では、ちょっと、お待ちを。』


 ぱらぱらと、拍手が起こった。


 やがて、副指揮者の、まだ若い、アンドルー・ピアレス氏が現れた。(指揮者は、50歳くらいまでは、若手である。)


 目下、売り出し中の若手というところなのだが、地球では仕事がないのが実情である。


 だから、このポストの競争は熾烈だった、と、言いたいところだが、応募者は二人しかおらず、どちらも採用された。


 そんな状態なのである。


 もうひとりは、『ヤヒメ・カグ』、という女性である。


 ぼくは、寡聞にして、そう言う方は聞いたことがない。


 もっとも、戦争と混乱が続いたから、5年分くらいは、情報が止まってしまっていたから、無理もない。


 アンドルー氏は、堅い表情で現れた。


 もっとも、この人は、それが普通だと聞いたことがある。


 実は、かのステ・マネさん以上の、相当なダジャレストらしい。


 にこりともせず、冗談を言うらしい。

 

 それは、非常に怖いという噂も聞いたことがある。


 『じゃあ、みなさん、よろしく。ベートーベン、ええと、七番です。頭から行きます。』

 

 この交響曲は、1811年から12年にかけて書かれた傑作である。


 『第六番』は、いわゆる『田園交響曲』だけれど、それは、1807年から8年に書かれたので、少し間が空いた格好である。


 その間は、欧州社会が混乱期にあったので、創作が進まなかったらしい。


 そうして登場したのが、前作までとは、また、まったく違う世界を作り出す革命的作品となった。(ベートーベン先生の交響曲は、みなそうである。)


 激しいリズムが主体になった、しかし、新鮮で強烈なメロディーが感じられる、しかも、哀愁さえも漂う、凝りに凝った交響曲である。


 第2楽章は、初演時から人気だったと言う。


 かなり、マニアックな低予算映画だった『未来惑星ザルドス』では、この第2楽章がまるまる使われていた。


 やはりオカルト的映画『ソイレント・グリーン』では、『田園交響曲』が使われていた。


 おお昔の話であり、現在こうした映画を知っている人は、少なくなった。


 第1楽章。


 主部はイ長調8分の6拍子だが、それは63小節目からで、そこまでは、かなり大きな序奏部が入る。


 この4分の4拍子の序奏部がないとしたら、この交響曲の様相はずいぶん変わってしまうだろう。


 とくに、主部と主題的な関連性はないのにもかかわらず。


 この最初の部分そのものが、すでにひとつの世界を形作っているのだ。


 まあ、それは、我々が大宇宙に出る前に、太陽系を横断するようなものだ。


 スコアを見ればわかるけれど、けっして、複雑な見た目ではない。


 副指揮者殿は、最初の一発を振り下ろした。


 『おわ!』


 ぼくも、ずっこけた。


 『こらあ~~~! 誰だ。Cじゃなあいよ。Cisだよ。当たり前だろう。まったく、しろとなんだから。』


 あ~あ、最初から、禁句を言ってしまったな。


 『すいません。しろとです。』


 フルートの二番の人が手をあげた。


 『いやいや、まあ、こういう場所だから、緊張するのはわかります。気を付けてください。宇宙人のなかには、CとCisの不協和音なんかが嫌いな種族もいるらしいです。食われますよ。あなた。』


 はははははは・・・・・


 いくらか、凍ったような笑い声が上がった。


 みんな、緊張している。


 無理もない。


 『じゃあ、気を取り直して、こんどは、止まらないで。』



 

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