二人のお腹様(2)【天正17年3月中旬】

 亜麻色の髪を揺らして、茶々姫様が振り返った。



「与祢! 来てくれたのね!」



 待っていたのよ、と声を弾ませて軽やかに微笑む。

 愛らしい美貌が内側からきらめくようだ。

 つられて微笑み返しそうになるくらい可愛らしいが、冷え切った周囲の目の中で笑える勇気は私にない。

 香様の女房さんたちの視線が、私の背中蜂の巣にする勢いで刺しているのだ。

 下手な言動を取れば、敵認定されかねない。

 うう、胃がキリキリする。天使のような茶々姫様の微笑みが、悪魔の微笑みにしか見えないよ。



「ご機嫌麗しゅう存じます、

 日根の方様ならびに一の姫様」



 仕事用の愛想笑いを張り付けて、丁寧に礼を取る。

 孝蔵主様に骨の髄まで叩き込まれた礼儀作法は、こういう時に便利だ。

 メンタルが乱れ切っていても、とりあえず体が動いてくれる。



「え、と、お顔、お上げください」



 ぎこちない口調の許しが即座にかかる。

 杏とともに顔を上げると、茶々姫様と向かい合っている香様の肩が跳ねた。



「御方様がたのお健やかなご様子を拝見いたし、

 大変嬉しゅうございますわ」


「ありがとう……存じ、ます……」



 そう返す香様の声は、語尾に向かって小さくすぼんでいく。

 膝の上の手は所在なさげに握ったり、開いたり。まなじりが緩く垂れた目も、ほとんど視線を合わせてくれない。

 一生懸命に目線を追いかけても、つい、とすばやく逃げられる。

 メンタルを病んでた頃の旭様を彷彿とさせる態度だ。

 あああ、思い出したくないやらかしの記憶が蘇るうううう。



「うふふ、日根の方さまは恥ずかしがり屋さんね」


「あ……ごめんなさい……、

 お見苦しいところを……」


「いいのよ。日根の方さまのそういうところ、

 茶々はとってもお可愛らしいと思うわ!」


「そう、ですか?」


「ええ! 貰われてきたばかりの仔猫みたいだもの。

 ぎゅってしてあげたくなっちゃう!」



 反応に困っておどおどとする香様に、茶々姫様は涼やかに声を転がして笑いかけた。

 脇息に身を寄せ、長い睫毛を瞬かせる姿は悠然としていて、いかにもお姫様らしい。

 さすがお姫様歴イコール年齢の人だ。

 申し訳ないが、香様よりずっと相応の風格がある。

 ふにゃふにゃでも、変わっていても、この人は頭の先から爪先までお姫様なんだなあ。

 ……って、感心している場合じゃないか。

 茶々姫様に押された香様が俯きがちになってしまっている。

 見栄えというか、存在感の差が歴然になりすぎてやばいよ。



「茶々姫様のお姿をこちらで拝見するのは、

 初めてでございますね」



 後ろでふくらむ殺気に負けたのか、杏が二人の会話に割り込んだ。

 丸く開いた黒目がちの茶々姫様の瞳が、きょと、と杏の方へ向く。

 いいぞいいぞ、茶々姫様の興味が逸れた。

 横目で尊敬の気持ちを送って応援する。

 青い流し目が「お前もやれ」と返してきた。



「いつのまに日根の方様とお親しくなられたのですか?」


「わたくしどもにも教えてくださればよろしかったのに」



 調子を合わせて繋ぐと、杏がおおげさに言って頬に手を当てた。



「そうよねえ、杏。

 知っておればさきほど蕗殿に、

 姫様がこちらにお越しかもしれぬ、

 とお伝えできたのにね」


「まことにね、与祢姫。

 義従妹のわたくしにも秘密なんて、

 茶々姫様ったらいけずでらっしゃるわ」



 矢継ぎ早に、私たちは口々に文句じみたことを言い合う。

 さも驚いたように、ちょっと拗ねたふうにも装ってだ。

 天然気味の茶々姫様にどこまで通じるかわからない。

 でも気まずくなって撤退してくれたら、と望みをかけて年相応の子供のふりをする。



「与祢、杏? 茶々に怒ってる……?」



 騒ぐ私たちを前に、茶々姫様の眉が下がった。

 やったぜ! 遠回しな文句でも効いたっぽい!



「そう見えまして?

 わたくしども、怒っておりませんよ」


「ほんと?」


「もちろん、ただ驚いてはおります」



 眼差しに含まれた期待を、杏がすぱっと断ち切る。

 義父の織田様によく似た口振りに、茶々姫様の瞳が瞬く間に潤んだ。



「う……怒ってる……」


「そうお見えでしたら、

 おっしゃることがございますわね?」



 促されて、細い可憐な声が「ごめんなさい」と呟いた。

 胸元で両手の指先を合わせ、茶々姫様はけぶる睫毛まつげを伏せる。

 雨にうなだれる花のような仕草だ。

 心から反省している、かな。判断が付かない。

 隣の杏も同じらしく、心持ち目を細めてる。

 茶々姫様が自発的に会話を進めてくれる気配もない。

 しかたない、私がやるか。背筋を意識してぴんとさせ、口を開く。



「それで一の姫様、

 どうしてこちらにいらしたのですか?」


「寝ていたら、気分が良くなったの。

 それで嬉しくって内緒でお外に出たの」


「まあ、内緒でですか!」



 知っているけどな。

 わざと驚いてみせると、茶々姫様はこくりと小さな顎を引いた。



「供も連れずにお出かけとは、

 少々不用心ですね」


「ごめんね?」


「姫様のお姿が見えなくて、

 屋敷の方々が皆慌てておられましたよ。

 急な御用でもおありでしたの?」



 訊いてみても、茶々姫様はだんまりだ。

 胸の前で合わせた指先をもじもじとさせるばかりで、歳よりずっと幼げに見える。

 少し目をすがめてみせると、大粒の黒真珠みたいな瞳が彷徨い出した。

 子犬みたいで可愛いが、ここに居ない蕗殿の代わりに言わなきゃ。

 お咎めなしにしちゃうと、茶々姫様はまた脱走しそうだしね。

 この少女めいた可憐さからは想像もつかないが、茶々姫様も立派な妊婦さんだ。

 身の安全を考えて行動してくれなければ、大変なことになる。



「あのっ」



 さっきとは違う意味で重い空気を、裏返りかけの大きな声が破った。

 不意打ちに驚く私と茶々姫様の間に、香様がするりと滑り込む。

 茶々姫様ほどではないが十分すぎる長身が、視界をさえぎった。



「あ、浅井の姫様を、

 あの、あまり叱らないでください」


「御方様、いかなることでしょう」



 どういうこと? アポ無し訪問で困ってたんじゃないの?

 純粋にびっくりだ。香様が茶々姫様を庇う理由が浮かばなくて、戸惑ってしまう。

 内心を隠してまじまじと香様を見つめる。

 途端に彼女の顔色に怯えが濃くなる。

 なんか怖がられた……傷付くんですが……。

 でも、引っ込みが付かない。せめて話しやすいように、微笑んでみる。

 沈黙は、たっぷり五秒。ようやく香様は喉を震わせながらも、実は、と唇を開いてくれた。



「姫様は、あたし、じゃなくて、

 あたくしに、謝りに来てくださって」


「謝りにですか?」


「御化粧係様の手を独り占めにして、

 ごめんなさい、と……」



 私から逃げるように、香様が茶々姫様へ視線を送る。

 それを受けて茶々姫様は、忙しなく頷いて肯定した。

 黒く濡れた双眸が上目遣いに私を映す。



「茶々、日根の方さまのお側付きの方々を怒らせちゃったでしょ?」



 言いながら、茶々姫様は香様の女房さんたちへ目を移す。



「ずっとずっと、すごく申し訳ないわって思っていて……。

 それで、気分が良くなったから謝りに参ったの」



 眉を下げてごめんなさいと語りかけるその表情に、女房さんたちが固まる。

 面を食らうという表現そのものの反応だ。

 何目的で茶々姫様がここへ来たのか、知らなかったっぽい。

 私も杏も顔を見合わせる。



「さきほどお話ししにくそうにしていらしたので、

 少々皆様に席を外していただいたのです」



 その折にうかがいました、と香様がやわらかく言い添えた。

 女房さんたちの様子からして、どうやら人払いをしたのは本当みたいだ。

 払われて自由になったから、彼女らは急いで私と杏にヘルプを飛ばしたってわけね。



「そ、そやったら、

 そうおわしゃってくだされば……」


「いえ、それより、お詫びにならしゃるなんて」


「茶々、どうしても日根の方さまにじかに謝りたくって。

 お行儀悪く無理を通してごめんね?」



 軽く首を傾げるようにして、茶々姫様が女房さんたちに謝る。

 今度こそ彼女たちは言葉を失った。

 あまりにも素直な態度に、信じられないものを見る目になっている。

 そりゃそうか。簡単に非を認めて謝るなんて、姫君らしくないもんね。

 姫様と呼ばれる存在は、基本的に誰かに下げる頭を持って生きていない。

 生まれてから死ぬまで、親兄弟と夫にしか頭を下げないまま生きる。

 使用人に謝るなんて事態は、ほぼほぼあり得ない。

 たぶん、感謝を伝える機会よりレアだ。

 生まれも育ちもお姫様の茶々姫様が、抵抗感もなく誰かに謝るというのは、冗談抜きですごいことなのだ。



「みんな、許してくれる?」



 腰が引けた女房さんたちを、茶々姫様はじっと見つめる。

 経験の持ち合わせがないのだろう。

 ほんのり青ざめた彼女らは、完全に停止してしまった。



「あたくしは浅井の姫さまの謝罪をお受けいたそうと思いますが、

 皆様はいかがでしょうか」



 そっと香様が助け舟を出す。

 落ち着いてきたのか、ようやく振る舞いが女主人らしくなってきた。

 寧々様や竜子様たちと比べて思いっきり腰が低いが。

 まあ、香様の背景を踏まえれば許容範囲だろう。



「お、御方様が、

 良いとおわしゃりますならば……」



 一番早く我に返った年配の女房さんが、返事をかろうじて絞り出す。

 毒気をすっかり抜かれたそれに、細い眉が柔らかく開いた。

 そうして香様は、不安げに成り行きを見守る茶々姫様に向き直った。



「局様方もこう申されています。

 浅井の姫様、ご安心くださいませ」


「ありがとう! 日根の方さま大好きよっ!」



 愛らしい美貌が、鮮やかさを取り戻す。

 満面に笑みを浮かべて、茶々姫様は香様に抱きついた。

 礼儀ィィィ!? 舌の根も乾かぬうちに何してんの!?

 ざわつく私たちもなんのその。茶々姫様は、驚く香様へ頬擦りまで始める。

 幼く、親しげにすぎる行動だ。お行儀も礼儀もへったくれもない。

 けれど、香様は茶々姫様に怒りも、跳ね除けもなさらなかった。

 遠慮がちに受け止めて、ほんのわずかに微笑んでいる。

 思った以上に好意的だ。これは私たちも咎められない。



「ねえ、日根の方さま。仲直りできたから、

 茶々とお友達になってくれる?」



 ぎゅっと香様に抱きつく腕を緩め、茶々姫様が小首を傾げる。

 唐突な申し出に、香様の目がまんまるになった。



「あの、あたくしなどが友なんて、

 もったいない思し召しですわ」


「気後れしないで!

 だって日根の方さまは九条様のお家の方じゃない?」


「恐れ多いことに左様でありますが、

 元は和泉の鄙の賤女にございますし」


「殿下は尾張のお百姓さんだったよ?」



 香様の反論が止まる。

 さすが茶々姫様だ。羽柴の奥の誰もが控える話題を、さらっと口にできてすごい。

 秀吉様に聞かれたらご機嫌を……、この人の場合は損なわないか。

 逆に秀吉様が出自ネタで笑いを取ろうとするかもしれない。



「茶々たちって、同じ殿下の側室でしょ。

 同じ子を宿した者同士でもあるじゃない」


「ですが、殿下と北政所様方がいかが思し召されましょう」


「大丈夫よ、ダメって言われても茶々が説得するわ」



 真珠の枝のような指先が、水仕事の名残を残す指先に絡む。



「この城で茶々と一緒なのは、日根の方さまだけなの」



 亜麻色の髪を揺らして、茶々姫様が香様に顔を寄せる。

 黒真珠のような複雑な色の瞳が、香様をまっすぐ捉えた。



「日根の方さま、茶々のお友達になって」


「浅井の姫様……」



 眼差しを受け止めた消紫けしむらさきに似た黒い瞳の光が、はっきりとする。

 香様の面持ちが変わる。頼りなげなものから、奮い立つようなものへ。

 茶々姫様に取られた手へ、香様の手が重なった。



「あたくしでよろしければ」



 これまで聞いた声音のどれよりも力のある声で、香様は茶々姫様に応えた。

 茶々姫様の花の美貌が、喜びで輝きを増す。

 つられるように香様の頬も、最後の強張りを手放した。



「これからは茶々のこと、

 茶々って呼んでくれる?」


「はい、茶々様。

 あたくしのことも香とお呼びくださいませ」



 お二人がくすぐったそうに微笑みを交わす。

 それで女房さんたちの雰囲気が、瞬く間に和らいだ。

 主人である香様と茶々姫様に注ぐ視線の棘が、嘘のように消えていく。

 代わりに添えられるのは、幼な子を見守るように温かさだ。

 誰もが頬をゆるめ、穏やかな吐息をこぼす。


 そんな最中で、私と杏は目配せをしあった。

 周りに気づかれないよう、さりげなく。

 青空を透かした雲の色の目が戸惑っている。

 映し出された私も、似たようなものだった。


 これでよかった、と言っていいのだろうか。

 茶々姫たちが円満な関係を築いていくならば、おそらく今までのような揉め事は減る。

 そうすれば寧々様の憂いが晴れ、竜子様の気持ちも落ち着く。

 秀吉様だって、側室同士が仲良くすることに悪い気はしないだろう。

 可愛い茶々姫様と仲良くなった香様の好意だって上がるはずだ。

 そうなれば、考えうるかぎり最もベストな結末、と呼んでいい。

 悪いことなんて一つもない。丸く良い形に収まったかに思える。



 でも、どうしてだろう。

 心から言祝げない私が、確かに私の中にいた。



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