吸いたい男と吸わせたくない少女(1)【天正16年10月中旬】


 柔らかな陽が差し始めた廊下を歩く。

 頬を撫でるさわやかな空気が、とても気持ちの良い朝だ。

 日に日に増していく透明な冷たさが、眠気覚ましにちょうどいい。



「ふぁ」



 まあ、眠いもんは眠いんだけどね。

 堺に来てからしばらく、早起きをさぼっていたもの。

 まだ少し調子が戻っていなくて、眠いったらない。

 聚楽第に帰るまでに生活リズムを整えないと、仕事に差し障りそうだ。

 と、思っていたらまたあくび。眠い。



「お行儀が悪うございますよ」



 後ろから小言が飛んでくる。

 振り返ると、あきれ半分なお夏の仏頂面があった。



「お気を付けなさいませ、

 他所様のお屋敷なのですから」


「ごめんって……っ、あふ……」



 謝りながら発射してしまったあくびに、お夏の目がますます冷たくなる。

 悪かったって。でも生理現象は止まらないんだってば。

 屋敷の主人である紀之介様の前では、きちんとお行儀良くしているのだ。

 紀之介様の目に触れないところでくらい、ちょっと大目に見てほしい。

 そういう文句が顔に出てしまったらしい。

 お夏が目を三角にして口を開こうとした。



「お夏殿、そのくらいにして差し上げなさいな」



 軽やかな声が、私たちの間に滑り込む。

 お夏の後ろから、若い女性が笑みを覗かせていた。



「お百合ゆり殿……」



 振り向いたお夏が、うっとたじろぐ。

 百合殿──大谷邸の侍女頭でもある湯浅殿の奥さんは、熟れた梨のような色の小袖の袖で弧を描く口元を隠した。



「与祢姫様はまだお小さいのですから、

 少々あくびをなさってもようございましょう」

 

「我が姫様はお小さくとも、

 北政所様の女房でらっしゃいます」


「それは存じていますとも」


「でしたら」



 言い募ろうとするお夏の鼻先を、白絹色の人差し指が突く。

 


「お城の外でまで、気張りすぎることはないと思いますわ」



 百合殿の双眸が私を映して、眩しげに瞬いた。

 色眼鏡なんてかかっていない、好感の持てる眼差しだ。

 夫の湯浅殿と同じく、百合殿は気持ちの良い人柄の女性ひとだな。

 夫婦って似るものって、本当の話みたいだ。

 嬉しくなって笑み返すと、小鳥のような声が彼女の唇から転がった。



「お心遣いありがとうございます、百合殿」


「私めのことは百合でよろしゅうございますよ?」


「お気持ちはありがたいことです。

 しかしあなたを私の侍女のごとく扱うのは、

 大谷家への礼を失するのでは……?」


「あら、堅いことをおっしゃらないでくださいまし」



 百合殿が唇を尖らせて、私の遠慮をさえぎった。

 裾を払って私の前に膝を付いた彼女は、すっきりした二重まぶたの目に少し力を込めている。

 妙な迫力にたじろぐと、手をしっかりと取られた。

 姫様、と真剣さを帯びた声音で呼ばれる。

 


「貴方様は旦那様の大切な姫君ですから、

 どうぞこの屋敷ではお心安くお過ごしあれ」


「あ、えと、私はそのような者では、けっして」


「謙遜なさらないで、まことのことですからね」



 そうは言われても、恥ずかしいよ。自分でもわかるくらい、顔全体が熱くなってしまう。


 旦那様の姫君。


 大谷家の家中の人たちがたびたび口にする、私の呼び名。

 そこにどうも、将来の奥方様ってニュアンスが含まれているんだよね。

 紀之介様は私を幼子としていつくしんでくれているだけなのに、百合殿たち家中の人々は違うふうに捉えているらしい。

 おそらく私が張り切って、病気の紀之介様のお世話を焼きまくっているせいだ。

 寧々様の許可があるとはいえ、長く奥仕えを休んでお側にいるあたりが誤解を招いたんだと思う。

 気がつけばいつの間にか、こんな雰囲気ができあがっていた。

 事実は違うのにね! なんでだろうね!?



「まことだとしても、そう、そうだわ、

 紀之介様は私のことを娘のごとく思し召しで」


「うふふ、左様でございましょうか?」



 くすりと笑う百合殿の目の奥が、いたずらっぽくきらめく。

 私としては嬉しい勘違いだけれど、ねえ?

 ためらいっていうか、戸惑いもやっぱりあるわけで。

 だって、紀之介様の意に沿わない状況だ、と思う。

 娘や妹のように私のことを大切にするって、あの人は丿貫おじさんに言い切った。

 知らぬところで私が家中の人たちからの奥方扱いを受け入れてしまったら、きっと困らせてしまうだろう。

 勝手なことをと、不愉快に思わせてしまうかもしれない。

 舞い上がって紀之介様に嫌われるようなことになったら、悔やんでも悔やみきれないよ。



「ま、今はそういうことにしておきましょう」



 私の不安を察知してくれたのか、百合殿が握っていた手を離す。

 そしてぽんと、軽く両の手を打ち合わせた。



「ですが与祢姫様は紛うことなく旦那様の大切な姫君、

 我ら家臣一同にとっても大切な方です。

 ご理解くださいましね?」


「う……、ありがとう、ございます」


「ああ、お可愛らしいわあ」



 心底、という感じの感嘆を百合殿が口にする。

 控えていた他の侍女さんたちも、一斉にうんと甘く頬をゆるめて頷きあい始める。



「やはりお若い姫君がいらっしゃると楽しいわ」


「ええ、屋敷の内が明るく華やぐものね」


「そう! そうなのよ!

 姫様がずっといてくださったらよろしいのに」



 好き勝手言うねー、皆さん。

 お夏が口にお酢を突っ込まれたみたいな顔になってるよ。

 正気か? というような目を、大谷家の侍女さん一同に向けている。

 まるまる三年も私に仕えた彼女の苦労が垣間見えた気がした。



「朝から楽しそうだね」



 お夏の臨時ボーナスを思案する私の耳に、大好きな声が触れる。

 振り向いた私の視界に、お部屋から出てくる紀之介様が映った。



「紀之介様!」



 寝起きすぐ、のようだ。紀之介様は白い寝間小袖の上に一枚、昼用の小袖を肩にかけている。 

 桔梗の花びらみたいなブルーを含んだ紫のそれは、先日仕立てて贈ったものだ。

 私の選んだ物を、身に付けてくれているんだ。

 嬉しくなって駆け寄って、思いっきり紀之介様に抱きついた。



「おっと」


「おはようございますっ」



 さすが武士。紀之介様の体幹は、しっかりしている。

 思いっきり飛びついたのに、揺らぐことなく私を受け止めてくれた。



「おはよう、与祢姫は今日も活力に満ちているね」


「はいっ、紀之介様は?

 今朝のお加減はいかがですか?」


「昨日より良いよ」


 

 腕の中からお顔を見上げる。

 本当だ。紀之介様の整った面差しには、疲れや痛みの欠片も見えない。

 小さく覗く回復の兆しに、ふんわりとした喜びが胸にあふれた。

 

 紀之介様の金属アレルギーと掌蹠膿疱症の治療がスタートして、そろそろ一ヶ月。

 道三先生や丿貫おじさんたちによる漢方薬での投薬治療に合わせて、紀之介様と私は一緒に金属除去と禁煙に取り組む毎日を送っている。


 金属除去は上手くいっていると思う。

 髭剃り等の剃刀はポピュラーな金属製から、私が剃り味を求めて試作していた黒曜石製のものへ。

 素手で金属を触る機会を減らすため、手の保湿も兼ねて綿の手袋の常用を始めていただいた。

 文房具の金属類も注意深く取り除き、可能なかぎり代替素材でできたものに切り替えた。


 禁煙は前世の私が行ったものを参考に進めてもらっている。

 口寂しくなったら、ミント系の飴で誤魔化す作戦だ。

 煙草の刺激とは違うけれど、メントールの刺激はほどほどに欲を満たしてくれる。

 飴であれば噛みたくなったら噛み砕いても構わないから、噛み癖のある紀之介様にはもってこいだ。

 そういうわけで喫煙で失ったビタミンCも補えるよう、水飴と金柑やビターオレンジのジャムで禁煙飴を作って常備した。


 しないよりましってことで、簡単な栄養管理もさせていただいている。

 肌質改善と新陳代謝の向上に効果がある、ビタミンCとビタミンB群。

 皮膚の炎症を抑える働きを持ち、皮膚と粘膜の維持に関わるビオチン。

 これらを含む食品を、積極的に紀之介様の膳に上げている。

 特にビオチンは、令和の世で掌蹠膿疱症など皮膚疾患の治療に有効だとされていた。

 なので含有量が多い卵や海藻類などは、毎食ごとに取り入れているように気を配っている。


 そんなこんなな試行錯誤でも、功を奏したらしい。

 びっくりするほど順調に、紀之介様の病状は改善しつつあるのだ。

 深刻だった手足の膿疱は、少しずつ、しかし確実に減っていっている。

 このところは新しい膿疱も発生せず、徐々に赤みやひび割れが治り出してさえいた。

 お顔の湿疹も、口内炎も同じくだ。波が引くように落ち着いていき、近頃は見違えるほど良くなった。

 道三先生たちさえも驚かせる、驚異の回復っぷりである。

 


「与祢姫、どうした?」



 じっと見つめていると、紀之介様が小さく首を傾けた。

 少し乱れた髪の落ちかかる頬は、すっかり滑らかさを取り戻しつつある。

 まだ爛れの痕は残っているものの、薄くなっていている。この調子ならば、じきに消えてしまうだろう。


 着実に、紀之介様は良くなってきている。


 実感が私の隅々に満ちていく。

 言葉が喉に詰まって、たまらなくなる。

 ただあたたかな腕に身を預け、吐息を甘くするしかできなくなった。



「朝のお支度、お手伝いいたしますね」



 髪を撫でてもらいながら囁くと、うん、と紀之介様が目を細めてくれる。



「よろしく頼むよ」


「おまかせを」



 くすぐったい気持ちで笑い合う。

 ささやかなひとときが心地いい。

 本当に、毎日が幸せだな。



「では、その前に」



 引き締まった腰に腕を回したまま、私は首を後ろへめぐらせる。

 能面みたいな無表情のお夏と、にこにこした百合殿と目が合った。



「百合殿、お夏、すぐに湯浅殿と佐助を呼んで!

 紀之介様の居間と寝間を家探しするわよ!!」


「与祢姫っ!?」



 睨むように鋭く視線で促す私に一礼をして、お夏と百合殿が凄まじい速さで廊下を歩み去る。

 湯浅殿や佐助を呼ぶ声を尾のように引いて遠ざかる背中に、紀之介様が手を伸ばす。



「お前たちっ! 待て、待ちなさいっ!」


「止めちゃダメですから!」



 今にも走り出そうとする紀之介様にしがみつく。

 腕に渾身の力を込めて、下半身、脚の動きを封じる。



「離してくれないか、与祢姫」


「嫌です」


「言うことを聞かないか!」


「また煙草を吸った紀之介様の言葉は聞きませんっ」



 頬を膨らませて睨むと、紀之介様が怯んだ。

 


「……何を言い出すかと思えば、

 煙草など吸っていないよ」


「嘘吐き、臭ってますよ」


「嘘じゃない。寝間小袖に臭いが残っていただけだろう」


「一昨日洗った物に臭いが残ってるわけないでしょ」


「じゃあ俺の寝間に」


「昨日お掃除して臭い取りもしたでしょうが! 私が!」



 しらばっくれようとする紀之介様に吠える。

 一日がかりで私はお夏や百合殿たちを指揮し、紀之介様のリビングと寝室を隅々までぴっかぴかにしたのだ。

 仕上げにルームフレグランスとして焚いたアロマオイルは、紀之介様と一緒に選んだ。

 それを忘れたとは言わせないぞ。忘れたとは! 言わせないからな!!

 


「俺を信じてくれないのかい?」


「信じて差し上げたいですよ」


「ならば家探しなどする必要は、」


「本当に吸っていないなら、

 家探しされても困りませんよね」



 ぐっと紀之介様が黙り込む。

 逸らされた視線があからさまだ。

 まったくもう、この人は。

 ばたばたと複数の足音が近づいてくる。

 逃げ出そうとする紀之介様を捕獲しながら、私は盛大なため息を吐いた。



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