よく知る人とよく知らない人に会いにゆく(1)【天正16年5月下旬】
しとしとと雨が降る午後は、いつもより廊下が静かになる。
外での遊興や仕事がやりにくくなるから、みんな屋内に入ってしまうせいだ。
そんな、心なしかひんやりした廊下を歩いていく。
「
ありがとうございます」
手を引いて歩いてくれる東様を見上げて、お礼を言う。
「いいのよ、お与祢ちゃんに頼られて嬉しいわ」
東様はおっとりとえくぼを深くしてくれた。
ほんっっっと良い人だ、東様。
気の乗らない場所への引率を受けてくれるなんて、神かもしれない。
寧々様の命令であっても、えって顔した同僚がいたくらいなのにさ。
この方だけは、いつも通りのにこにこで手を挙げてくれた。
「それにしても、災難ね」
「まことにです……」
顔を見合わせて、同時にため息を吐く。
「浅井の一の姫様のご機嫌うかがいなんて、
上手くいくのかしら?」
秀吉様の側室は、ランク分けがされている。
出身や本人の寵愛度などの要素でざっくり分けられ、それに従って扱いに違いがある。
ちょっと前までトップランク側室だった、竜子様を例に取ってみよう。
居住スペースは、御殿が丸ごと一つ。
今もお住まいのそこは、建物数棟に弓場のある広い庭付きだ。
厨房とお風呂まで完備されていて、正室の寧々様に次ぐ規模である。
食事も自前の厨房で作った温かい食事を食べられ、日常的に私からメイクを受けることを許されていた。
衣服も装飾品もコスメも、常時浴びるように秀吉様や寧々様から与えてもらえる。
まさに天下人の元側室、現第二正室という華やかでリッチな暮らしぶりだ。
反対に最低ランクの側室方は、同じ側室と思えない暮らしぶりとなる。
居住エリアは、城奥の端っこの方の御殿。
同ランクの側室複数人と共有で、一人当たりだいたい二間くらいが割り当てられる。
お風呂も一ヶ所を共有で、食事はさらに正室や上位側室の女房用の厨房と共用となる。
お風呂はゆっくり入れないし、食事は冷めまくるそうだ。
当然、私から直でメイクは受けられない。
衣服もろもろも、自腹を切って用意するか、盆暮れの年二回支給される物を待つしかない。
下手をしなくても、寧々様の女房である私の方が良い生活をしている……。
さて、本題の茶々様はというと最低ランクではない。
かといって、上位ランクにもいないんだけどね。
中の上、上の下くらいの中間層だ。
お住まいは、他の側室三人と一つの屋敷を割り当てられ、それを三等分にしている。
秀吉様に目をかけてもらっているから、ほんのちょっと待遇は良い。
数多の側室方の中では普通程度の待遇ではあるけど、最低ランクよりはずっと快適な暮らしをなさっている。
そんな茶々姫様の住まいが、私と東様が向かっている場所なのである。
今日はね、茶々姫様のご機嫌うかがいという名目の偵察だ。
秀吉様の要望を受けてのことだが、断じて石鹸で落とされたわけではない。
寧々様に命じられたから、しかたなしだ。
やっぱり変な病気だったらまずいからね。
肌の健康状態を判断できる目を持つ私に、ちょっと見て来させようって話になったのだ。
一目でやばそうなら、私の判断で強制宿下がりを発動していいって言われた。
暗に、つまみ出してよし、と言われている気がしなくもない。
それでも素人判断は怖いから、即座に玄朔先生にお願いをしたよ。
皮膚科が得意なお医者さんをよこしてください、って。
返ってきたお返事は「OKまかせろ、良い皮膚科医がいる」。
さすが安心安定の曲直瀬グループ。
あらゆる診療科のお医者さんが揃っているものだ。
そして安心して迎えた今朝、お医者さんは聚楽第にやってきた。
きたんですけどねえ……。
「なあ、お与祢」
後ろから軽く袖をつままれる。
ふりむくと、禿頭の老人が一人。
品の良い僧衣に着られている彼は、不思議そうに辺りを見回して囁く。
「なんでこの城、
あっちこっち無駄にきんきらきんなのや?」
「丿貫おじさん、聞かないで」
聚楽第でそのワードは禁句だから。
目で訴えかけてみるけれど、自由人にはいまいち伝わらない。
一年近くぶりの大叔父は、唇を少年のように尖らせた。
「えぇー、こんなきんきらきんなんやで」
「えーじゃないからっ、きんきらは禁止っ」
秀吉様の耳に入ったらヤバイんだってば!
人差し指でシーッとジェスチャーをすると、老人はしぶしぶ黙り込んだ。
どうして……どうして、この人が来た。
医者を呼んだら丿貫おじさんが来るとか、予想外がすぎるわ。
丿貫おじさんが元医者なのは、知っていた。
洛中で医業と薬種問屋を兼業していたのは、母様からよく聞いていた。
だが、まさか超名医・曲直瀬道三先生の直弟子だったとは。
しかも知らぬ間に医者として復帰していて、昨年の九州攻めで従軍医をしていたとは。
何もかも、聞いてなかったよ!?
「そら、黙っとったし」
へらぁっと丿貫おじさんが笑って流す。
まったく肩書きに頓着していないところが、おじさんらしくて憎たらしい。
東様も予想外だったのか、きょとんと私たちを見比べる。
「お与祢ちゃん、まことに知らなかったの?」
「はい、大叔父が医師であるのは知っていましたが、
まさか曲直瀬家の縁者とまでは……」
道三先生の直弟子どころか、姪婿で玄朔先生の義兄ってなんなん。
道三先生の偏諱をもらっていて、『遠藤道貫』なんて立派な名前までもってるし。
戦国医学界のトップエリートど真ん中じゃないか。
なんで富も名声も投げ捨てて、山科で百姓もどきをしていたんだ。
丿貫おじさんが、心底わからない。
「ははは、可愛い大姪の前では、
ただの面白いおじさんでいとうござりましてなあ」
「あらあら、道貫様ったら」
あはは、うふふ、と丿貫おじさんは東様とのほほんと笑い合う。
なんだろう。山科のおんぼろ屋敷に戻ったかのような、ゆるい心地になってくる。
仕事中のはずなのに、なんかもうぐだぐだだ。
「それはまあ、置いといてや」
ひとしきり笑ってから、丿貫おじさんが私に視線を戻す。
「わしが診察させていただく、
浅井の一の姫様とやらはどないな方なのや」
「玄朔先生から聞いていないの?」
「聞くには聞いたんえ」
しかし、と丿貫おじさんが首を捻る。
「あの義弟殿ときたら、
なーんやはっきりせぇへんでなあ」
「はっきりしないって?」
「診療記録は見してもろた。
どないな体質の方かも聞いた。
そやのに、お人柄についてはあいまいや」
玄朔先生らしくない物言いだな。
あの人はお医者さんらしいお医者さんだ。
言葉や当たりはおだやかでも、すぱっと言うべきことは言う。
医療に関わるならば、なおのこと口を濁すわけがない。
「お与祢は知っとるか?」
「一の姫様のお人柄かあ」
そういえば、よく知らないわ。
周りの者のめんどくささやうっとおしさは、嫌になるほど知っている。
だが考えてみると、茶々姫様本人のことは周りのキャラの濃さに紛れがちだ。
泣き虫で人見知り。
とても気が弱くて、極端に前へ出てこない人。
このくらいしか、私は知らない。
それだって根拠は実体験よりも、他人から聞いた話が多いな。
判断材料と呼べるほどでもない気がしてくる。
茶々姫様に直接会ったことも、言葉を交わしたこともないのだ。
当たり前のことだったわ。
「ごめん、わからないわ」
「ふぅむ……東様はご存知やろか?」
「そうですわねぇ」
水を向けられた東様が、こめかみに指を当てる。
記憶を取り出そうとするように、軽く叩くことしばらく。
優しげな曲線の眉を、そろりと下げた。
「一の姫様のことは、
よくよく存じてはおりませぬ。
ですが……」
「ですが?」
「柳のようなお方とお見受けします」
柳? 川の側で葉を揺らしてるあの柳のことだろうか。
意図を飲み込めない私とは反対に、丿貫おじさんは何か納得したようだ。
顎の先を掻きながら、伏し目がちになる。
ややあって、丿貫おじさんは顔を上げた。
「よぉわかりました」
「これだけでよろしい?」
「ええ、十分ですわ。
とりあえずお会いしてみまひょ」
にかっと笑って、丿貫おじさんが歩き出す。
にこりとそれを受けた東様も、私の手を引いて続く。
雨の音ばかりが、廊下を包む。
静けさが落ち着かなくて、大人二人の言葉の意味を考えてしまう。
丿貫おじさんは、何がわかったのだろう。
東様はなぜ、茶々姫様を柳に例えたのだろう。
「お与祢ちゃん、どうかした?」
東様がそっと声をかけてくれる。
振り仰ぐと、ふっくりとした笑みが向いていた。
聞いてみても、いいかもしれない。
「東様」
「なぁに?」
「東様は、浅井の一の姫様を、
いかがお思いですか」
笹の葉に似た東様の目元が、瞬く。
ぱちり、ぱちりと、ゆっくりと。
そうしてから、東様は私の耳元へ唇を寄せた。
「嫌いではないわ、
でも、だからと言って、好きではないわよ」
「どういう意味ですか?」
「どうでもいいってこと」
喉で笑って、東様は更に言い足した。
「一の姫様が寧々様に、
何かなさらないかぎりはですけどね」
………私、絶対、東様に逆らわないようにしよ。
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