翼をください
鈴女亜生《スズメアオ》
前編
石質樹木の上に立ってクーネは両翼を広げた。翼にぶつかる風を感じながら、そこから空中に向かって歩き出すように、一歩踏み出す。空中に放り出され、身体は倒れ込んでいく。
その勢いのまま、クーネは大空に飛び出した。翼が風を受け、クーネの身体は落下することなく浮いてくれる。
しかし、それは飛行と呼ぶには心許ないもので、滑空と呼ぶ方が相応しかった。石質樹木の上からゆっくりとクーネは灰の大地に落ちていく。
そのまま、クーネは灰の大地に埋まるように落下していた。その様子を見て、石質樹木の下でクーネを見ていたヨクトが青褪めた顔で呟く。
「また失敗だ…」
「大丈夫!?」
ヨクトの隣で同じようにクーネを見ていたウカが、慌ててクーネの元まで走ってきた。落下したとはいえ、灰の大地は柔らかい。クーネは灰の中から這い出ながら、笑顔でウカに「大丈夫」と言った。
「ごめんね。また失敗したみたいだ」
ヨクトが落ち込んだ様子で肩を落としながら、クーネに謝ってくる。眼鏡が光って良く見えないが、少し泣きそうになっているようだ。
「大丈夫だよ。慣れてるから」
そう言いながら、クーネは右の翼に取りつけていた代替翼を外した。それを受け取ったヨクトが暗い表情を変えることなく、もう一度、「ごめん」と口に出している。
「ヨクトくんは頑張っているよ。ウカもそう思うよね?」
クーネがウカに話を振ると、ヨクトの隣でウカも頷いていた。
「クーネちゃんがあそこまで飛べるようになったんだもん。ヨクトくんは凄いよ」
「もっと柔らかい素材が手に入ったら、もっとちゃんとした物が作れるんだけどね。そうしたら、クーネさんもちゃんと飛べると思うんだよ」
「だからって果ての山とか行かないでよ?翼獣とか、私達だと相手にできないからね?」
「そうだよね…翼獣の素材とか手に入ったらいいんだけどな…」
「私達には手に入らないね。あれは高過ぎる」
クーネが愚痴を零すように言うと、同意するようにヨクトとウカも頷いた。ヨクトは代替翼の改良のために、これからすぐに作業室に戻るようだ。
「クーネちゃんも行く?」
「私は荷物だけ取りに行かないと。ウカは先に行ってて」
クーネはそう言って、ウカをヨクトと一緒に作業室に行かせてから、一度教室に戻るために校舎に入っていく。
そこでクーネは衆目を集めることになった。
ℱ ℱ ℱ
西暦四一八二年。人類の背中に翼が生え、空を飛べるようになってから、既に千年以上が過ぎていた。人々は当たり前のように空を飛び、『人は空を飛ぶ』ということが常識になっていた。
その時代に生まれたクーネは生まれつき翼の発達障害を抱えていた。左翼は無事に育ったのだが、右翼の成長が幼少期に止まってしまい、子供のように小さな翼のまま、大きくなることがなかった。
この状態になると空を飛ぶことはできない。それだけで終わりだったら良かったのだが、この世界は空を飛べない人に優しくなかった。
劣等生、落第者、人間未満、出来損ない。クーネにつけられた名称はクーネにも把握できないほどで、クーネは奇異と侮蔑の籠った目に晒されることになっていた。
校舎に戻ったクーネはいつものようにその視線に晒されていた。今更、この程度の視線では何とも思わない。本来なら飛べるほどに翼が成長する十年ほど前から、クーネはこの視線に晒され続けていたのだから。
クーネはいつものように毅然とした態度で歩いていると、小さな話し声がいくつも聞こえてきた。全ての細かな内容は分からない。ただ断片的に聞こえてくる悪口や悪い噂から、何を話されているのかは概ね想像がついた。
特に最近は『翼剥ぎ』という、顔を隠し、人を襲っては翼を剥ぐ犯罪者が現れたこともあって、その犯罪者がクーネなのではないかと噂されることが多くなっている。
もちろん、クーネはそんなことをしていない。他人の翼を剥いだところで、クーネの翼が大きくなるわけではない。そのようなことをしても意味がない。
噂はただの噂だ。気にすることではない。そう言い聞かせて、クーネは毅然とした態度のまま、廊下を歩いていく。この時のクーネは聞こうとしていない話が何故か耳に入ってくることには気づいていなかった。
教室に戻ったクーネは自分の席に置いていた荷物をまとめた。それら荷物を手に取ると、教室を出て、ウカやヨクトの待っている作業室に向かい始める。
その途中で、クーネは階段を下りてきた人物とぶつかりそうになった。互いに気づいていなかったようで、ぶつかりかけた直前になって、揃って背中の翼を広げ、驚いた顔をしていた。
クーネがぶつかりそうになった相手は一瞬、女の子かと思うほどに綺麗な顔をした少年だった。作り物と言われた方が納得のいく顔に、左翼を大きく広げたまま、クーネは一瞬見蕩れてしまう。
「ああ、ごめん…」
少年の口から爽やかな風のような声が漏れてきた。あまり大きくなく、聞いていて心地好いと思える声だ。
「いや、こちらこそ…」
クーネが左翼を閉じながら、謝罪するように頭を下げていた。ほんの少し前まで、少年の美しさに見蕩れていたが、今は既に気持ちを切り替えて、次から気をつけようと考えていた。
その途中、少年がクーネの翼をじっと見ていることに気がついた。何かを言われると思ったクーネが咄嗟に、適当な別れの言葉を言って、その場を立ち去ろうとする。
そこを呼び止めるように少年が言ってきた。
「君の翼、綺麗だね」
「え?」
聞いたことのない言葉に驚き、クーネが振り返ると、少年は小さく笑みを零してから、その場を立ち去ってしまった。その後ろ姿に声もかけられないまま、ただただクーネは驚いていた。
ℱ ℱ ℱ
作業室ではヨクトが代替翼の改良中だった。ウカがその作業を見ながら、クーネが来たことに気づくと、笑顔で「遅いよ」と声をかけてくる。
「ごめんね。ちょっといろいろあって」
「どうしたの?」
ウカにそう聞かれたクーネは少し悩んだ。悪い噂だと話しても気持ちがいいものではないから、クーネから話をすることはないが、今回の場合は違う。クーネ的にも思うところがあり、二人に聞いてみたいこともある。
少し話してみようか。そう思ったクーネが階段で少年とぶつかりそうになった話をウカにした。その途中で、クーネが来たことに気づいたヨクトも話を聞いている。
「それでその人に、翼を綺麗だって言われたんだけど、私の翼って綺麗なのかな?」
クーネが話の最後にその疑問を投げかけると、ヨクトは少し慌てたような顔をしていた。どことなく、顔を赤らめ、少し困ったように声を出す。
「ク、クーネさんは綺麗だと思うよ…」
「そう?自分の翼が綺麗とか、そんなこと考えたこともなかった」
翼に飛ぶ以外の価値観を持ったことがなかった。クーネがそう考えている先で、ヨクトは落胆したように肩を落としていた。クーネはそのことには気づかず、その隣に座っていたウカが固まっていることの方に気づく。
「どうしたの?」
「い、いや、そのクーネちゃんの翼を綺麗って言った人のことが気になって…そんなに綺麗だったの?」
「ああ、うん。その人は凄く綺麗だったよ。制服を着てなくて、声も出さなかったら、多分ずっと女の子だと思ってたくらいに綺麗だった」
「そ、そうなんだ…」
ウカは考え込むように視線を落としており、クーネはそのことが気になったが、そこから何を聞いても、ウカは何でもないと言うばかりだった。
「本当に?」
「本当に何でもないよ」
そのやり取りが続き、聞いても答えてくれないと思ったクーネが諦めたところで、ようやくヨクトが落ち込んでいることにクーネは気づいた。
「あれ?ヨクトくん、どうしたの?」
「いや、何でもないよ…」
ヨクトもそれしか言ってくれず、クーネは少しだけ寂しかった。
ℱ ℱ ℱ
翌日になっても、クーネは少年の言ったことが頭から離れなかった。世間では、翼は飛ぶための道具であり、飛ぶことによって価値が出てくる。クーネもそう思っていたのだが、少年の言ったことはそれとは全く違う価値観の言葉だった。
いつもなら、ヨクトは一日程度で代替翼の改良を済ませてくるのだが、その日は忙しかったのか、改良が終わらなかったそうなので、クーネは一日中、そのことを考えてしまう。
もしかしたら、翼は空を飛ぶためのものという価値観に一番囚われていたのは自分なのかもしれない。そう思い出したら、言いようのないモヤモヤで胸が一杯になった。
昨日の少年がクーネの教室に現れたのは、その時だった。クーネを見つけるなり、すぐに近づいてきて、笑顔で話しかけてくる。
「良かった。合ってた」
ホッとした様子でそう言ってくる少年に、クーネは言葉を詰まらせた。自分の姿に悪く言う人や避ける人は多かったが、まだちゃんと話したこともないのに、わざわざ探しに来る人は初めてだった。ウカやヨクトでも、もう少し最初は距離があったものだ。
「どうして、ここに?」
「君に興味があって」
興味がある。そう言われたのは少年で二人目だった。一人目はヨクトで、そのヨクトもここまでまっすぐな言葉ではない。もう少し恐る恐るといった感じだったので、クーネは戸惑った。
いつのまにか、教室中の視線がクーネと少年に集まっていた。その視線は正に変わったものを見る目で、クーネがいつも感じている視線だ。
この視線に少年を巻き込んでいる。そう思ったクーネは少し迷った後に立ち上がっていた。そのクーネの突然の行動に驚き、少年が不思議そうな顔で聞いてくる。
「どうしたの?」
「そうやって人前で私に話しかけない方がいいよ」
忠告するようにクーネは言ってから、教室を出ていこうとした。
ウカやヨクトでさえ、クーネに人前で話しかけてくることはない。それはクーネが二人を巻き込んでしまうと思い、そうするように言っているからだ。それが利己的な考えであることは分かっているのだが、クーネはどうしてもそうしたかった。
しかし、少年はクーネの言うことを聞いてくれなかった。何故か一緒に教室を出て、廊下も並んで歩いてくる。
「どうして、君に話しかけない方がいいの?」
何も分からないという顔で、当たり前のようにそう聞いてきた。そのことにクーネの心は驚きと苛立ちで一杯になった。
「私に話しかけたら、貴方まで変な目で見られるから」
「それで話しかけない方がいい理由になるの?」
「貴方が変な目で見られたら、私が嫌な気分になるの。勝手だって分かってるけど、他の人が嫌な気持ちになって欲しくないの」
「それなら、別に問題ないよ。僕は嫌な気持ちにならないから。それよりも、君に興味があるって言ったのに、話しかけない方がいいって言われた方が嫌な気持ちになったよ」
自分の言葉に返すための言葉を用意しているみたいに、少年はクーネの言葉を真正面から否定してきた。そのことでクーネは何を言ったらいいのか分からなくなり、口を噤んだ。その様子を見た少年が不意に笑いかけてくる。
「話しかけないでいて欲しいのが君の勝手なら、僕が話しかけるのも僕の勝手だよね。僕はヨハネ。君の名前は?」
「私の名前を知らないの?」
「左の翼しかない子ってことで、君のことはすぐに見つかったけど、君の名前をちゃんと知っている人がいなくて、失敗作とか、人間未満とか、そんな呼び方しか聞けなかったよ」
そう言われて、クーネは気がついた。自分の噂をしている人にとって、クーネは人ではない。そこに名前があるという当たり前のことに興味が湧くはずがない。
「私はクーネ」
「クーネ。クーネね。分かった。覚えたよ」
クーネが面と向かって人に名乗ることはあまりなかった。そのため、言い慣れない自分の名前に、妙なこそばゆさを覚えた。
「どうして、ヨハネはそこまでして私に話しかけたいの?」
「それは…君の翼が綺麗だから。とても綺麗な白さで、きっと大切にされたのだろうと分かるから。それができる人と話してみたかったんだ」
クーネは自分の翼に目を向けた。その翼にやはり綺麗と思ったことは一度もなく、今も特に思うことはなかった。
ただ大切にしているという点は確かにそうだと思った。クーネにとって、大きく育った左翼は唯一の翼とも言えるもので、手入れを怠ったことは一度もなかった。右翼がちゃんと育たなかった分、この左翼は大切にしようとクーネ自身も思っていた。
「さっきはあんなことを言ったけど、君が気になるなら、人前で話しかけることはやめるよ。だけど、たまにこうして君と話をしてみたいんだ。いいかな?」
「それくらいでいいのなら、構わないけど」
「良かった」
再びホッとしたように笑ったヨハネにクーネはやはり戸惑った。奇異の目や侮蔑的な視線に慣れたクーネにとって、その明るい感情に満ち足りた表情はあまり向けられたことのないもので、どのような顔をしていたらいいのか分からなかった。
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