⑧ 『奇才』

 バルネアとルーシアが勝負をすることが決まった翌日。

 いつものように仕込んでいた食材が底をつき、午後からは休業になったので、その時間を利用して、ジェノはバルネアの店から、ルーシアの泊まる宿屋の一室に移った。


 思えば、このナイムの街にいながら、バルネアさんの家以外で寝泊まりするのは初めてだ。


 旅慣れているので、特段移動に時間はかからなかった。

 そして、今日もルーシアに呼ばれるまで、静かに鍛錬でもしようと思っていたのだが、すぐに彼女から声をかけられた。


「ジェノ。オムレツを作ってみて」

 突然そう言われ、ジェノはこの宿の厨房を借りて、指定された料理を作る事になってしまったのだ。


 不慣れな厨房だということもあるが、いつもの行程で全く同じ作業をしているにも関わらず、彼は普段の何倍も苦労した。

 背後で椅子に座り、こちらの一挙一動を注意深く観察するルーシアの視線が、ジェノに強い疲労感を与えたのだ。


 ジェノは形よく作られたオムレツをフライパンから皿に移し、後ろを振り返り、ルーシアに「できました」と声をかける。


「あら? 私の前に給仕してはくれないの?」

 ルーシアは厳しい瞳のまま、動こうとしないジェノに言葉を投げかける。


「自分の稚拙な料理を、お出しするわけにはいきません」

「……バルネアに言いつけられたの?」

「いいえ」

 ルーシアの鋭い眼光に臆することなく、ジェノははっきりと答える。


 しばらくの沈黙の後、「そう。分かったわ」とルーシア言い、静かに席を立った。

 だが、彼女は何故かジェノの方に向かって来て、右手を出す。


「ほらっ、スプーンを寄越しなさい」

 ルーシアは今までが嘘のように穏やかに微笑み、ジェノに匙を渡すように促す。


「ルーシアさん。ですから……」

「いいから、寄越しなさいよ。今日は機嫌がいいのよ、私は。特別に味を見てあげるんだから、感謝なさい」

 ルーシアがそう言うので、ジェノは後で自分が食べる際に使うつもりだったスプーンをオムレツの横に置く。


「うん。まぁ、食べられる出来ね」

 スプーンでオムレツを口に運び、それを飲み込んで、ルーシアは微笑んだ。


「そうですか。ありがとうございます」

 ジェノとしては、自分の力量不足は認識しているつもりなので、ルーシアの気遣いに感謝の言葉を返す。だが、ルーシアは何故か不服そうに眉の根を寄せる。


「こらっ。この私が食べられるって言っているのよ。それがどれだけ凄いことなのか、貴方、全然分かっていないでしょう?」

「はい」

 嘘をついても仕方がないので、素直に答えるジェノに、ルーシアは嘆息した。


「ジェノ。言い方は気をつけているつもりだけれど、私は、こと料理についての嘘は言わないの。そんな私が、貴方の作ったオムレツは食べられる出来だと言ったのよ。<銀の旋律>の料理長である、この私が!」


 そこまで言われ、ジェノもようやく、ルーシアが自分のことを褒めてくれているのだということが理解できた。

 だが、理解はできても、その評価は過剰だとしか思えない。


「あっ、分かったわ。貴方、もしかしなくても、バルネアの作るオムレツを基準に考えているんじゃあないの?」

 嬉しそうな顔をしないジェノに、ルーシアが核心をついた質問を投げかけてくる。


「はい。このオムレツの作り方はバルネアさんに教えてもらいましたので。ですが、どうしても思うように作ることができずにいます」

 何度も空き時間を使っては試作を繰り返しているのだが、バルネアの作る最高のオムレツには遠く及ばない。だから、ルーシアが褒めてくれているのが分かっても、素直にその言葉を受け止められない。


「ねぇ、ジェノ。貴方はバルネアの店に転がり込む前に、料理修行をしたことはないの?」

「はい。自分の食事を自分で作っていただけで、修行をしたことはありません」

「本当に? たしか貴方がバルネアの家に居候するようになったのは……」

 きっと、バルネアが手紙か何かで自分の存在をルーシアに教えたのだろうと推測しながら、ジェノは口を開く。

 

「もう少しで三年になります。自分が料理に興味があると話すと、バルネアさんが教えてくれるようになり、それから勉強させてもらっています」

 ジェノは正直に答えたのだが、ルーシアは何故か額を手で抑え、大きく息をつく。


「はぁ~。本当に血統なんてなんの役にも立たないわね。廃止して正解だったわ」

 ルーシアはよく分からないことを口にし、


「いい、ジェノ。自分よりも優れた人を目標にするのはあたり前のことだけれど、バルネアを基準にするのは止めなさい。あいつは、天才……いいえ、奇才よ! あんなのを普通だと思っていたら、人生がおかしくなるわよ!」

 

 ジェノの両肩を手で掴んで、ひどく真剣な表情で説得してくる。


「自分は、バルネアさんを尊敬しています。どうか、そういった言葉は控えて下さい」

「尊敬? あの天然ボケの料理バカを?」


 ジェノは敬愛するバルネアを悪く言うルーシアに文句を言おうと考えた。だが、普段のバルネアの行動を思い出し、とりあえず黙っておくことにした。


「そもそも、料理を教わっていると言っていたけれど、あいつの説明で分かるの?」

 ルーシアのその問は流石に的外れだったので、ジェノも今度は反論する。


「バルネアさんの教え方は、丁寧で分かりやすいです。こちらの得手不得手も汲み取ってくれるので、とても助かっています」

 なんの迷いもなく言い切ると、ルーシアは目を大きく見開き、そして何故か嬉しそうに微笑む。


「……そう。そうなのね。それは、貴方だけではなくて、あのメルって娘に対しても同じなのかしら?」

 今度はとても優しい表情で、ルーシアは尋ねてくる。

 

「はい。メルエーナもバルネアさんの指導を受けるようになってから、どんどん腕を上げています。自分も負けられないと思うほどに……」

「へぇ~。あいつがねぇ。少しは成長しているのね」


 ルーシアは満面の笑みを浮かべ、「よし!」と気合を入れると、ジェノが作ったオムレツを再び口に運ぶ。


 やがて、オムレツを全て食べ終えたルーシアは、ジェノに急いで片付けをするように指示をする。


 ジェノはその言葉に従い、後片付けを済ました。

 その間も、ルーシアはずっとこちらを見ているのが気配で分かったが、調理の時のようなきつい視線は感じなかった。


「ジェノ、それが終わったら、夕食を食べに行くわよ。貴方がバルネアの店以外で美味しいと思う店を紹介して頂戴。お金の心配はいらないわ。お姉さんが奢ってあげるから」

「……まだ、食べるんですか?」

 オムレツ一個とは言っても、卵を三つ使っている。それなりに腹持ちは良いはずなのだが。


「当たり前でしょう。良い料理人っていう者は、美味しい料理を作れるだけでは駄目なのよ! 貪欲に新しい味を探求し、それを楽しまなければ駄目。しっかり覚えておきなさい!」

 ルーシアはそう言って楽しそうに笑う。


 本人に言うと怒られそうなので口にはしなかったが、ジェノは、彼女の思考がバルネアによく似ているなと思うのであった。

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