さつきび

古川早月

第1話「しあわせなよる」

「――! ――!」


 誰かが叫んでいる。

 ぼんやりしていてよく分からないけれど、きいたことがある声だ。

 誰だっけ……思い出そうとしても、分からない。


「――ちゃん、――月乃ちゃん!」


 あれ、わたしの名前を呼んでいる。

 なんだろう。聞き覚えはあるんだけど。

 まあ、いいや……。眠いし、もうちょっと寝よう……。


「―─月乃つきのちゃん!起きて!」


 ドン、という鈍い音がした。

 それで、頭のなかを覆っていた霧が晴れていく―─。

 

 目を開けると、眼前には見慣れた顔。かなり近い。その表情は自分が目を開けたのを見ると、少しばかり呆れたものになった。


「ようやく起きた。はかせ帰ってきてるよ?」


 その少女―─皐月日さつきび花恋かれんは「まったく、月乃ちゃんは寝起きが悪いなぁ」なんて言って、それからフッと微笑みを浮かべた。

 図鑑で見たことがある花を想起させるような、柔らかい微笑み。つられて自分の顔も笑顔になる。


「……おはよう、花恋ちゃん」

「いまは夜だからこんばんはだよ。さ、はかせ待ってるから起きて! 晩ご飯一人で食べることになっちゃうよ!」

「……おきる」


 ううんと唸りながら、上体を起こす。

 まだ自分の体温が残っているベッドから抜け出し、皐月日月乃は花恋の後ろに付いて自分の部屋を出た。


   *   *   *


 リビングに向かうと、メガネを掛けた男性が「やあ月乃、ただいま」と微笑んだ。


「……おかえりなさい、はかせ」

「ご飯買ってきたから食べようか」


 男性―─はかせはテーブルに置かれていたビニール袋から弁当を取り出す。それを見て、花恋が待ちきれないという風にきいた。


「はかせ! 今日のご飯なに?」

「ふふふ……」


 はかせはニヤリと笑う。心なしか、メガネがキラリと光った気がした。


「見て驚け。今日はなんと、牛タン弁当だ!」

『牛タン!?』


 花恋だけではなく、そのやり取りをぼんやりときいていた月乃も声を上げた。ふたりの声がシンクロしたのを満足気に眺めたはかせは、「スーパーで割引されていたから買ってきたんだ〜」と言って弁当せんりひんをふたりに見せる。そこには「めっさ美味しい牛タン弁当」という文字が。


「牛タン……食べたことないなぁ」

「わたしも……」


 花恋と月乃の視線は、牛タンという未知の食べ物に注がれている。はかせはふたりの興味津々な様子を見て微笑み、「じゃあ、あっためておくから手を洗ってきなさい」と言った。

 はーいと声を揃えて言ったふたりは洗面所に駆け込む。それを見ると、はかせは電子レンジで弁当を温め始めた。


   *   *   *


『いただきまーす!』


 温め終わった弁当を電子レンジから取り出すと、三人は弁当を開けて食べ始めた。

 弁当はご飯の上に牛タンとネギが乗っており、付け合せとして小さい卵焼きがふたつあるだけのシンプルなものだ。もっと野菜を入れたほうがいいんじゃないのかとはかせは思ったが口にせず。無言で弁当を食べているふたりを見た。


「どう? 美味しいかい?」

「……なにこれ」


 花恋は目を見開き、2秒ほど固まってから笑顔になった。


「すごくおいしい!」

「お、それは良かった。月乃は?」

「……おいしい」


 月乃は少しだけ笑顔になりながら言う。感情をありありと顔に出す花恋とは違い、彼女は感情表現が乏しい。そのため、表情から満足度を推し量るのは難しいが、嘘は言わない子だ。本当に美味しかったのだろう。


「おおう、買ってきてよかったよ……」


 はかせは微笑むと、牛タンとご飯を口に入れる。ほどよく味付けがされている牛タンはご飯と相性抜群だ。買ってよかったなと、心から思った。

 ふたりは既に弁当を食べ終えている。それほど美味しかったのか、余程お腹がすいていたのか……恐らく両方だろう。


『ごちそうさま!』


 声を揃えて言うふたりに、はかせは「あ、ちょっと待って」と言って袋からチーズケーキを取り出した。


「これ、デザートね」

「いいの!?」

「いいよ。これも安かったし」


 花恋はキラキラした目ではかせを見つめた。月乃も嬉しそうにしている。

 ふたりは台所の食器棚から皿を取ってくると、はかせにお礼の言葉を言ってからチーズケーキを食べ始めた。

 はかせはゆっくりと牛タン弁当を食べながら、その様子を眺めていた。


    *    *    *


 その後、満腹になったふたりはお風呂に入り、歯磨きをするとすぐに眠ってしまった。

 はかせはふたりのまえでは吸わない煙草に火を付け、それを吸い込んでから読書に耽る。

 いつもと変わらないしあわせな夜は、静かに更けていった。

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