KIND〜シャーデンズンプフの影〜

@shibachu

Ruprecht

 じくじくと冷たい泥の膚触りが足首から下を這い回っている。不快感を振り払うように、ゲオルグは円匙を荒々しく地面に突き刺した。掘り出した穴からじんわりと水が滲み出てくる。小さなあぶくが浮き上がるのを、少年は見逃さなかった。さらに泥を掻き分けると、ぱきりと何かが割れる音が先端に触れた。

 彼は躊躇いもせず、あかぎれた手を凍てついた泥の中に押し入らせた。ごつごつした手触りを指先が掴む。引き上げた泥の塊の中に、赤黒い甲殻が覗いていた。眠っていたザリガニはかすかに触角を震わせるばかりで、ぐったりと鋏を垂らしている。しばらく眺めたあと、ゲオルグは獲物を盥に投げ入れた。

 狩りを終えた少年は家に帰ることにした。二股に分かれたブナの幹に舫いだ小舟に、わずかばかりの荷を積む。泥の重みに辟易としつつ、力を込めて櫂を漕ぐと、舟は蝸牛の鈍さで水面を這った。湖沼を漂う古びた舟の周りでは、水鳥たちがゆったりと寛いでいる。ゲオルグが恨みがましく睨んだが、泥攫いの少年の存在など意にも介さず羽を繕っていた。

 痩せた木々が太陽の恵みを逃すまいと伸びている林の中に、ゲオルグの家は建っている。手入れの行き届かぬみすぼらしい小屋。藁葺きの屋根に陰湿な影が落ちているのを目にすると、日の差さぬあばら屋が自分の姿と重なり、足取りは泥濘を踏んだように重くなった。

 不意に玄関の扉が開いたのを見て、ゲオルグは足を止めた。扉から男が顔を出すと、草叢に身を躍らせる。盥から中身が溢れ、草叢を濡らした。仰向けにひっくり返ったザリガニが喘ぐように足をばたつかせる。

 男はきょろきょろと周りを伺っていたが、近くに潜んだ子どもには気付かない様子だった。何度か見た顔だ。このところ家を訪れる男の一人で、たしか近くの村落で店を営んでいる。キツネのように足音を忍ばせて立ち去った男の姿が見えなくなっても、ゲオルグは草叢に隠れたままでいた。やがて日が傾き、胃が空腹を訴えたことでようやく立ち上がると、草の上に転がった盥とザリガニを拾って家に入った。

「おかえり。遅かったのねえ」

 眉間を寄せた母親の声がゲオルグを出迎えた。息子が手にしているザリガニを見て、母親の眉がますます歪む。

「お前、また沼に行ってたのかい。危ないから駄目だって、あれほど言っているだろう」

「だって、あそこくらいしか食べるもの獲れないし」

「昔から、底無し沼に落ちて死んだ人間は絶えないんだ。本当に危険なんだよ」

「落ちなきゃいい。あそこはもう、庭みたいなもんさ。底無し沼もどこにあるか分かってるんだ」

「母さんの言うことが聞けないのかい。ループレヒトにお仕置きされちまうよ」

 いつものやり取りに苛立っていたゲオルグも、母親が口にした聞き慣れない言葉に棘を抜かれた。

「ループレヒト?」

「聖夜にやって来る聖人は二人いるの。良い子の許には、クリストキントがプレゼントを持ってやって来る。でも悪い子の許には、ループレヒトがやって来て罰を与えるんだよ。そんなの嫌だろう」

 うちにはクリストキントだって来たことがないじゃないか。ゲオルグは反論する代わりに唇を尖らせた。母親は続ける。

「それにね、母さん、今日は仕事にありつけたから、お金が入ったんだよ。少しだけどね。明日はお前、村まで買い物に行っておくれよ」

 渡された貨幣は昏く光っていた。母親の口にする仕事の響きと同じ後ろ暗さがあった。

「さあ、それじゃあ今日のところはお前が獲ってきてくれたザリガニで料理を拵えようかねえ」

 息子の手から食材をひったくると、母親はびっこを引いて台所に向かった。その夜のスープは沼の味がした。


 他人のいる場所は息苦しさを覚えて身が竦む。百人に満たない人口の村も、母親と二人で隠者の生活を送る少年にとって居心地が悪い場所だった。向かいから自分と同じ年頃の子どもが群れでやって来るのを見て、ゲオルグは辺りを見回した。しかし家の近くや湿地とは違い、村の道にはウサギが隠れられる草叢すらない。仕方なく顔を伏せて子供たちをやり過ごそうとした。

「なんだか臭うぞ。泥の臭いだ」

 はっと顔を上げると、子供たちに取り囲まれていた。一様に鼻を摘んだ村の子供たちの顔には嫌な笑みが貼り付いている。

「おいお前。お前みたいなのが村に入ってきちゃ駄目じゃないか」

 一番背の高い子が睨みつけてくる。猟犬に追いつめられたウサギの心地で、その男の子を見上げた。

「知ってるぞ。お前、沼の近くのぼろ小屋に住んでいるだろう」

「インバイの子だよ」

「早く村から出て行けよ」

「汝、カンインするなかれ」

 囃し立てる猟犬たちの言葉には知らない単語も含まれていたが、その鋭さは深々とゲオルグの胸に突き刺さった。心臓からだらだらと血を流してウサギは駆け出した。逃走路を犬たちが塞ぐ。足を蹴られ、あるいは突き飛ばされ、散々地面を転げ回っては嘲笑を浴びせられる。それは数分の出来事だったが、週の巡りよりも永く感じられた。

「もう行こうぜ。こいつ、ちっとも抵抗しないから面白くねえ」

 解放されてからも、ゲオルグは臥したままでいた。恐る恐る顔を上げると、どこをどう走ったものか、村の広場で寝そべっている。大人たちが遠巻きに見ていたが、彼が顔を上げた途端に顔を背けた。

 一人だけ目が合った。昨日ゲオルグの家を訪れた男だった。

「お前はここに来ちゃいかん。家に帰りなさい」

 追い払う仕草を見せたその男に彼は近づいた。広場に構えた店の手前で立ち止まり、はっきりと敵意を持って男を睨みつける。

「何だ、その目は。野良犬が人間の住むところに来るんじゃない」

 ゲオルグは、軒下にぶら下がっていた七面鳥を乱暴に引っ剝がして両手で抱えた。踵を返して走り出した彼を、誰も止めはしなかった。

 棲み慣れた沼地まで逃げ延びてから、少年はやっと足を休めた。母親から渡された貨幣をポケットから取り出し、全て投げ捨てる。沼はそれらを受け取り、静謐の中に飲み込んだ。我が身を投げ入れても、同じように受け入れてくれるだろうか。自分がいなくなったとして、母親は一人で生きていけるだろうか。

 ゲオルグは初めて声を上げて泣いた。──枯れるまで。


 その日以来、ゲオルグが村に行くことはなくなった。村の男たちが相変わらず彼の家を訪れることはあったが、母親や男たちから促される前に家を出た。七面鳥を盗まれた男も何食わぬ顔でやって来る。特に何かを言われることもない。変わったことはひとつだけ──男たちが去ったあとには食料や生活必需品が置かれていた。

 家の庭には猫の額ほどの畑があったが、父親が他所に愛人を作り出て行ってからは荒れ放題になっていた。足が悪い母親に畑仕事は無理だったし、まだ幼かったゲオルグは野菜が種から育つことさえ知らなかった。もっと言えば、放っておいても勝手に生えてくる雑草と、食卓に上る野菜の分別もなかった。

 窮月のある日、ゲオルグは畑の──正確にいえば昔は畑だった荒れ地の土を穿り返していた。耕そうとしている訳ではない。土の中から時折見つかる虫は、沼地で獲れる貝やザリガニ同様、手軽に獲れる貴重な食べ物だ。味の良い芋虫などは御馳走とも言えた。

「お前がゲオルグか?」

 何の気配もなく、声が降って来た。びくりと震えて見上げた先に、黒い毛皮を纏った長い髭の男が見下ろしている。

「誰?」

 訊ねると、「ループレヒト」と男は答えた。

 母親から聞いたその名をゲオルグは思い出した。悪さをする子どもの許を訪れて、罰を与える聖人だったか。

「僕、悪い子じゃないよ」

 少年は慌ててかぶりを振った。

「お前は村で七面鳥を盗んだだろう」

 口元を覆う髭のせいで表情は読めなかったが、ループレヒトの声はにべもない。

「村の子たちは、寄って集って僕に暴力を振るったんだ。大人たちは見て見ぬ振りをした。あいつらの方が悪い」

「人の悪口を言ってはいけないよ」

 毛皮に覆われた黒い手がゲオルグの肩に伸びる。寸でのところで躱すと、少年は脱兎の勢いで木立に飛び込んだ。そのまま一心不乱に森を駆ける。

 小一時間ほど逃げただろうか。二股のブナの根元に隠れたゲオルグは、水面から顔だけを出して冬籠りのザリガニのように息を潜めていた。辺りは沈と静まり返っている。此処ならまず見つからないと思われた。

「無駄だよ。出て来なさい」

 畑の時と同じ、声は唐突に降って来た。

「それとも、こちらから出向いて引きずり出そうか? 荒っぽいやり方は嫌いなんだがね」

 その言葉を聞いて少年は観念した。追跡者に姿を晒した訳ではない。その逆だった。冷たい泥の中にとうとう頭まで潜り込ませた。全身を沼の暗闇に委ねたゲオルグは、息苦しさどころか虚無の心地良さを感じていた。

 しかし、快感は一瞬のことで、直後に居心地の悪い浮遊感が襲って来た。気付けば体は宙にあり、黒い大きな手に脇から抱えられている。途端に沼の腐敗臭が鼻を刺激し、少年は口から泥水を吐いた。

「やれやれ、随分と無茶をする子どもだ。これは相応の罰を与えねばならんな」

 少年を岸まで引き上げた髭の狩人は、しげしげと獲物を眺めて口を開く。

「よし、決めたぞ。お前はこれから教会で奉公に務めなさい」

「ホウコウ?」

 聞き慣れない言葉だ。

「そうだ。教会で働くのだ。給金は出ないがね。食事と寝床だけは保障する」

「お金なんているもんか」

「世俗に塗れていないのは大変結構」

 ループレヒトの声に初めて温かい響きが交じる。

「まずは掃除だ。それから、教会の屋根や壁の修理。畑仕事。家畜の世話もやってもらわねばならんな。やることは幾らでもある」

「そんなの、どれもやったことない」

「覚えなさい。やり方は教えよう。だが、手助けはせん。一人でやらねばならぬ。これはお前への罰なのだから」

 ループレヒトは少年の肩に手を置いた。ゲオルグも今度は避けなかった。

「ともあれ今日のところは、湯浴みと洗濯だな。汚れた格好で教会の床を踏んでもらっては、あとで掃除が大変だ」

 ループレヒトが声を上げて笑った。黒衣の聖人と少年は並んで歩き出す。森を抜けると、黄昏空に一番星が輝いていた。

 ──to be continued written by livre.

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