オモイヤリ

富升針清

第1話

 それは私が春の陽気に誘われて、湖の近くを愛犬と散歩していた時の事です。

 湖の辺りで、一人の男性が深く悲しんでおりました。


「どうされたのですか?」


 今にでも湖に飛び込んでしまいそうな苦悩の表情を浮かべる男性に、私は思わず声をかけてしまいました。

 すると男性は立ち上がって、深い悲しみに変えた表情を水に映します。

 まあまあ、本当に如何したのでしょうか?


「えぇ。実は先日妻が亡くなったんです」


 そうポツリと呟くと、男性は自分の手を強く握り締めました。


「まぁ。それはさぞかし、お辛かった事でしょう」

「えぇ。私は妻が全てでした。私は妻を心の底から愛していました。その妻が……」


 男性の痛みは春の風を通して痛いほど伝わってきました。


「失礼ですが、奥様は何故、いえ、何が原因で亡くなられたのですか? もしよろしければお聞かせ願えませんか?」


 一体、どんな物語がこの夫婦に起こったのか……。

 少しばかり私の興味本位の不躾な疑問を許してくれるならと、私は彼に質問を投げかけました。


「えぇ。そうですね……。死因は、私にもよくわからないんです。ただ、何か事故だったんだと思います。でなければあんなことは……」

「貴方にもよくわからない? 何処か病気だったのでは?」


 そんな事もあるのかと、私は驚いてしまいました。

 しかし、愛した妻の死因すらわからないとなれば、それはとても可哀想。

 何かヒントになり得ないもかと、私は口を開きました。

 でも、彼は首を振るうのです。


「いえ。実は、私は医者なのです。妻が病気であれば、気付く自信がありました。そして助ける自信も。私は、妻が病気にならないために、沢山努力をしました……。神に誓いましょう。妻を病気にする要因を、私は全て排除した、と。妻は体があまり強いほうではなかったもので……。だから、私は妻のために妻の足を切り落としました」


 男性は誇らしげに、そして、嬉しそうに私にそう言いました。


「まぁ。興味深いお答えですこと。何故奥様の足を切り落とされたの?」


 私は驚いた様子で彼にまた問いかけます。

 すると、彼は不思議な顔をして私を見ました。

 それは何故、私がそんな質問をするのか、心底不思議そうな顔をしておりました。


「申し訳ございません。私、医学にはどうも疎いもので……」


 自分に学がない事を恥じるように告白すれば、彼はああと頷きました。

 きっと、彼の中では『ソレ』は常識なのでしょう。

 文化の違いというものは、中々侮れませんね。


「そう、ですよね。深く考えずに、申し訳ない。妻も同じ事を言っていました。でも、よく考えて見てください。外には病原菌が沢山いますでしょう? もし、妻が外出したところで病原菌におかされでもみたら……。考えただけでも身震いしてしまう。でも、それは外に出てしまうからだ。外に出なければ、そんな心配はいりませんよね? 足がなかったらどこにもいけない。ね? 実に理にかなっているとは思いませんか? でも、それだけでは駄目です。だから私は次に、妻の両腕を切断しました。……あぁ。これもわかりずらいかな……。失礼。これにも説明がいりますか?」

「えぇ。是非お願いいたしますわ」


 無知な私に、是非知恵を。


「どうも僕は説明不足な気がありましてね。妻にも多々指摘されていると言うのに、この悪癖ばかりは治らないようだ。ははは、お恥ずかしい」

「どうぞ、お気になさらず。それは此方の非ですので」


 私は笑い、彼の言葉を促します。


「では……。足を切り落としたのはよかったのですが、妻は何を考えたのか、車椅子というものを使いましてね……。こともあろうに外へ出ようとしたのです」


 男性は困った様な顔を両手で隠す様に話し始めました。


「まぁ。それは大変」


 私は少し驚いた声を出しました。

 どうやら、彼の気遣は愛する妻に少しも伝わらなかった様なんですもの。


「えぇ。ですから、私は考えました。そして、迷いました。しかし、妻を病原菌から守るため。彼女により健康に長生きしてもう為に、僕は苦渋の選択をして、妻の美しい手を切り落としたのです」


 隠していた顔が再び現れた時、彼は誇らしい顔をしておりました。

 それはまるで自分が誇らしい選択をした勇者の様な、それでいて全知を司る神の様な。

 そんな表情を。


「まあ、素敵な選択ですこと。奥様をそれほど愛されていたのね。でも、それで貴方様の努力はおしまいなんですの?」


 私は首を捻ります。

 たったそれだけで愛しているだなんて。

 なんて烏滸がましい人なのかしら!


「いえ。私はそれほど安い男ではこざいません。次に、妻にストレスを与えないように目をくりぬきました。知っていましたか? ストレスは本当に身体に悪いんです」

「でしょうね。私もそう思いますし、そんなお話も聞きますわ」

「えぇ。だから両目をくりぬいたんです。それなら、何も見えない。ストレスをうけにくい」


 男は穏やかに湖の水を覗き込む。

 でも、それは一瞬で。

 すぐ様彼の顔は曇り出しました。


「病原菌もなく、何一つ病気もしなかった妻が何故 ……」

「 もしかしたら、もともと病気にかかってらしたのではないでしょうか?」


 私は男性に言いました。

 だけど、男性はまだ湖の水を見つめていました。

 どうやら、私の声は彼の耳まで届いてなさそう。


「 … あぁ。でも、大丈夫。今度は完全に完璧に、妻を守ろう」


 男はつぶやきながら言いました。


「と、仰いますと?」

「今度、また新しい妻をもらおうとおもいまして。今度は大丈夫。きっと大丈夫。前の妻は何かの拍子に舌を噛み切ってしまった。今度の妻は全て歯を抜くつもりです。前の妻より、きっと幸せに、何不自由なく、私が守るつもりですから。」


 男は私に力強く言いました。

 あらあらあら。

 何と愛が深く面白いお話な事でしょうか。

 私は彼が間違っているとはおもいません。ただ、優先度が違っただけ。

 妻自身を大切にするか、妻に病原菌、いえ、病気の種を近づかせないようにするかの優先度が違っただけ。

 簡単に言えば、順番のお話。

 今度の奥様はどうやって、順番の間違えを夫に伝えるかが、自分の命を助ける鍵になるようですね。

 ああ。あの人は、本当に思いやりを持ってる方なんですね。

 ま、相当な重さでしょうが。


 今度の奥様は何処まで耐え切れるのでしょうね?


おわり

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