蝶と青薔薇の踊る夜

酒匂右近

第1話

「え、今日はヒスメナは来ないのかい?」


 放課後、IDEA作戦室にイスカの声が響き渡った。

 午前中はヒスメナと同じ講義に出席していたから、早退の知らせは寝耳に水だった。

 早退することは自体は珍しくもない。

 IDEAメンバーだけでなく、名家の令嬢もやっているのだから時にはそちらの用事を優先することだってあった。ヒスメナは自宅生ということで門限もある以上、業務の途中で抜けることもままあることだった。

 けれど今日は、理由が理由だった。

「はい。エルジオンで婚約者に会うそうで。どうも急なことで連絡を受けた時もすごく慌てていましたね」

 その連絡を受けたのはオペレーター女子だった。

 お昼ごはんを一緒に食べているときに。ヒスメナのモバイルに一報が入ったらしい。 それから急遽早退する段取りを付けていたと。

「そう、婚約者……」

 心なしかイスカの声が一気にトーンダウンした気がする。

 ヒスメナに婚約者がいてもおかしくはない。

 むしろ今まで聞かなかったこと自体が不思議だったのだ。

「どんな人なんでしょうね。でもあのヒスメナさんのお父さんが選んだんですから、きっと素敵なひとでしょうね」

 『あの』の部分にやたら力が入っていることは否めない。過保護なあの父が容易に許したと思えないから、相当に人品優れた傑物なのは間違いなさそうだ。

 

 ーーどうしてヒスメナは教えてくれたなかったんだろう。

 学業に専念しているうちは関係のないこと、として話さなかったのかもしれない。いやむしろ、話す必要がないと考えていたのではないか?

 イスカは、ヒスメナの将来に関わりがないから。

 家柄がものをいう世界ではイスカは、ヒスメナに関われないから。


 どんどん胸中にもやが広がっていく。

 何なのだろう。いくら考えても数式のように明確な答えが見つからない。

 気が付けばIDEAメンバーがイスカの顔を見て面食らった顔をしていた。

 そんなにおかしな顔をしているだろうか。

『どうしたんだい? みんなそんな驚いた顔をして』

 和やかな顔をして雰囲気をやわらげる。

 そんなポーカーフェイスがうまくできない。

 どうして今は。

 焦って次の打開策を探そうとすると。


「会長、お話があります。少しお時間よろしいでしょうか」


 混乱するイスカから衆目を引きはがすように、おもむろにオペレーター女子が立ち上がった。

「ここでは難ですので、場所を変えてお話ししたいことがあります」

 有無を言わさない笑顔で。イスカの手を引いた。

 それ以上の会話すら断ち切るようだった。

 

 作戦室からの去り際、オペレーターはほかの白制服に声をかけた。

「あとは任せましたよ」

「任せといて」

 眼鏡の白制服女子はじめ、返ってくる声は頼もしいものだった。

 後日気付いたことだが、あらかじめ今日の業務はリストアップしてあったらしくイスカとヒスメナの担当分は減らされていた。オペレーターの分も同様に。まるで最初から抜けることを想定していたいような手際の良さだった。

「オペレーターも、会長のことは頼みましたよ」

 不敵な笑顔を返して作戦室の出入口が閉じた。

 そうしてイスカは作戦室から連れ出された。


 +++


「まさかIDAスクールからも連れ出されるとは思わなかったよ」

 IDAスクールの時計塔が遠ざかっていく。

 薄闇色が優勢になる景色を、見るとはなしに視界に収めた。

 エルジオンに向かうカーゴバスの車内は、イスカとオペレーターの貸切だった。

「イスカちゃんは自分のこととなると途端にすごく鈍くなりますからね」

「君にそう呼ばれるのは久しぶりだね」

 前に呼ばれたときはどれだけ前だっただろうか。すぐには思い出せない。

「最近はIDEA作戦室で話すことばかりでしたから」

 IDEA会長としてではなく、ただのイスカとして話すのは久しぶりだった。

 人目のあるところでは「会長」呼びだけれども。

 オペレーターがイスカに向けるのは親しみのこもった視線だった。

「あの時、そんなに変な顔をしていただろうか」

「イスカちゃんは甘え下手ですからね」

 質問には答えず、慈愛のこもった苦笑だけが返ってくる。 

「構ってほしいけど迷惑じゃないかな、って我慢している時のきょうだいの顔と同じなんですよ」

 息を呑んで驚愕した。

 それって、

「わたしはさみしがっているのかい?」

 自分で自分の感情が、まるでわからない。

「ええ。彼氏とか彼女とか。仲の良いきょうだいに恋人ができて、拗ねてる子にそっくりなんです」 

 そう断言するものだから。

 オペレーターの前では、小さい子のままだと錯覚してしまう。

「イスカちゃんはヒスメナさんのことが、本当に大好きですからね」

「う、あの、それは、」

 否定できない。

 けれど、それは、ちょっと違うというか。

 だってヒスメナには婚約者がいて。

 ヒスメナの一番にはイスカは……。

 

 何か言い返そうとして、でもふさわしい言葉が見つからなくて。

 言葉なくオペレーターを見つめ返すにとどめた。

 満面の笑みを浮かべている。

 イスカの言葉に耳を傾けるように。

 どんな言葉が出てくるかを待つように。

 どんな言葉でも受け止める覚悟があると、無言で示している。

 言葉に詰まってしまう。すごく居心地が悪い。

 何だろうこれ。

「お姉さんっぽく振舞うのは上手ですけど、甘えるのが下手なところも下のきょうだいと同じですね」

 施設では姉的な役割をしていたはずなのに。

 オペレーターとは次元が違う。圧倒的な姉力だった。

 そもそも年長として振る舞えたのは小等部のころまでだった。それ以降はほぼ一人っ子状態で過ごしてきたせいか、イスカは足元にも及ばなかった。

 力なくため息をついて尊敬のまなざしで見据えた。

「君には負けたよ……」

「なんでそんな完敗って顔してるんですか」

 ほかにちゃんと言葉にすることがあるでしょう……とあきれ気味だった。

 気を取り直すようにため息をついて。

 本当に手のかかる小さい子のような扱いそのものである。

 オペレーターからするとイスカはどんなふうに見えているのだろう。


「そもそもイスカちゃんはねーー」

 そのあとオペレーターに言われたことは、それからもしばらく尾を引くことになったのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

蝶と青薔薇の踊る夜 酒匂右近 @sakou763

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ