2回目の再会

志穂は、母親からの手紙を読んで、しばらく迷った。例の人魚の姉には,既に一回出会っているから,母親のお願いを果たしたことになる。しかし、出会ったとはいえ,志穂が途中で話を中断し,逃げてしまっているから,姉にとっては、念願の再会を果たしたことには,ならないのだろう。


母親も,人魚の女の子に出会って,貝殻を通して話したこともあると知って,少しだけ人魚の姉に対して,親近感が湧いた志穂にも,姉のことが可哀想に思えて来た。


そして、人魚の姉に出会っているときは,怖すぎて,実感する余裕のなかったことには,母親の手紙のおかげで,考える余裕ができて来た。それは,自分は、本当は、人間ではないということだ。


自分が人間ではないということは、これまでの人生も,半分嘘だということを意味する。これまで疑ったことすらなかった,自分の存在の前提の一つの条件が覆されて,志穂は、戸惑いを覚えた。


人間ではない。じゃ,何なんだろう?人魚?


志穂は、「リトルマーメイド」の絵本やアニメ映画の中の人魚の姿しか知らない。漠然としたイメージしかない。


怖くて、チラッとしか見ていないが,この間,人魚の姉が志穂に見せようとした姿は,リトルマーメイドとは,まるで違っていた。


「海水に触れるまで,魔法は解けない。」


人魚の姉の言葉は、今でも,頭の中を駆け巡り、自分に,問いかける。


「本当に,このままでいいの?自分とは何なのかよく知らないまま,生きて行けるの?海に待っている姉がいると知りながら,その事実を無視して,これまで通り過ごせる?」


答えは,「出来ない。」だった。


志穂は、決意した。


次の土曜日に,電車に乗り,また海岸へと向かった。人魚の姉にちゃんと会って,逃げずに話を聞くと決めていた。しかし,一つ問題がある。この間会った時に,貝殻を姉に返してしまったから,連絡が取れない。前回は、会いたいとは思っていなくても,貝殻のおかげで会えたのだが,今は,会いたくても,会えるかどうか,わからない。


電車を降り,1週間前と同じ場所を目指して歩いた。海岸に着いてみると,やっぱり誰もいなかった。この浜は,どうやら,人間にあまり活用されていないようだ。でも,その方が,志穂にとっては、都合がいい。人気が少しでも感じられたら,人魚の姉は、姿を見せてくれないに違いない。


志穂は、1週間と同様に,岩によじ登り,しばらく座った。しかし,誰も現れなかった。志穂は、少しガッカリしたが,もう貝殻を返してしまったから,しょうがないとも思った。自分が今ここに来ていることを姉に知らせる術はない。


なら,自分が姉を探しに行くしかない。そう思ったが,なかなか踏み切れなかった。水に入るのが怖いからである。姉によると,志穂にかけた魔法は,海水に触れると,解けてしまうらしい。つまり,海に入ってしまうと,自分が人間ではなくなる。今も,人間ではないようだが,物心がついてからずっと人間の体で過ごして来たから,この体しか知らないし,今の自分以外の体になるのは,とても抵抗がある。嘘でも,このままがいいと思った。


岩の上に座っているうちに,日が暮れるとともに,辺りがだんだん薄暗くなり,志穂は、焦った。

「このまま諦めて,帰るわけには行かない…決めたのだ。もうあとへ引けない。」


志穂は、果てしなく広がる海へ目をやった。この海のことを全く何も知らない,泳いだことすらない自分が海へ飛び込んだところで,姉を探し出せるはずがない。そもそも,姉のことも,何も知らない。名前すらも,知らない。


しかし,自分は、このままでは,ダメだ。このまま,自分のことを何も知らずに,海の彼方に姉がいると知りながら,彼女を見捨てて生きていくことなんて,出来ないし、父親との二人暮らしも,真実を知ってしまったから,もう割り切れない。自分は、変わるしかないのだ。父親を見放す訳ではない。縁を切る訳でもない。姉と話が出来たら,また戻って来ればいい。


志穂は、心を決めて,波の中へ,一歩進んだ。すると,すぐに足から力が抜け,立てなくなった。海に飛び込もうという逆らえないくらい強い衝動に突然駆られ,従うしかなかった。頭で考えるより先に,体が勝手に動いたように感じた。気がついたら,水の中にいた。しかし,少しも苦しくなかった。


そして,驚いたことに,姉がいた。


「やっぱり戻って来たのね。」

姉が笑顔で言った。


志穂が来ていることに気付いても,わざと,姿を見せなかったのだ。志穂が海に入るように仕向けたのだ。


志穂がこれに気づくと,すぐに海から出ようとした。すると,姉が志穂の手を掴んで,引き止めた。

「もう遅い。魔法は解けている。」


志穂は、姉の手を振り解こうとしたが,無理だった。姉は、華奢な体格でありながら,かなりの力持ちのようだった。


志穂は、自分の姿が少しずつ変わり始めていることに気づいた。しかし,不思議なことに,少しも痛みを感じなかった。気持ちも,変に落ち着いていた。いつからか,海から出ようと焦っていた気持ちも,前の体がよかったと執着する気持ちも,どこかへ吹っ飛んでいた。体が変われば変わるほど,海に抱かれているかのように気持ちよくて,抵抗しようという気持ちには,なれなくなっていた。


姉が妹のこの様子の変化に気づくと,そっと手を離した。志穂は、手にも足にも力が入らないため,泳げずに,海の底へ沈んで行った。姉がついて行った。


海の底で,動けずにうずくまり,何も出来ずに体が変わって行く様子をじっと見ている妹の姿を見ると,姉が手を差し出した。志穂が自分の手を握ってくれるのを待っているようだった。


志穂は、一瞬迷ったが,もう姉の手を気持ち悪いと思っている場合ではないと思った。自分の手も,少しずつ,姉の手の形に似て来ている。体も,もはや,人間のものではない。どんどん変わっている。志穂は、仕方なく,姉の手を握った。


「これで,わかってもらった?家族だということ,姉妹だということ?」

姉が志穂を試すように言った。


志穂は、静かにうつむきながら,頷いた。すると,体の変わるペースが早まり,ますます気持ち良く感じた。

「気持ちいい…なんで!?」


「今,自分を受け止めたから。」

姉が言った。


姉は、志穂の体が出来上がるのを静かに待った。


ところが,志穂の様子が落ち着くと,凄い勢いで妹に抱きついて,喋り始めた。

「あなたに魔法をかけて,人間に育ててもらって,本当にごめんね!毎日,後悔したよ。頑張って,自分で育てたらよかったのに!一緒に,そばにいればよかったのに!本当にごめんなさい!」


しかし,志穂は、体が同じになっても、前と変わらず,姉に対して,家族思いのようなものを抱けずにいた。むしろ,志穂が海に入るように,わざと自分の姿を隠していたことを狡いと思い,不信感を抱いた。


この姉は,何者?果たして,志穂のことを本当に,思っているのか?それとも,何か下心があるのか?志穂には,わからなかった。

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