第59話 いなくなった鳥・3(※ダグラス視点)
暗闇の中に響いた飛鳥さんの声に手を止めると、ペイシュヴァルツの前足が触れてこようとしたので即座に手を引っ込める。
「ちょっと待て、今はそれどころじゃない……!!」
一旦後ずさってペイシュヴァルツから距離を取って周囲を見回すと、再び飛鳥さんの声が響いてきた。
『えっと……私も何が何だか分かってなくて、どう説明すれば良いのか分からないんだけど……とりあえず私、今から地球に帰るわ』
あの時恥ずかしそうに何か言いかけていた飛鳥さんは何処へやら――戸惑いつつも『ちょっと出かけてくる』と言わんばかりの軽いノリで別れを告げられて、思わず声が出そうになる。
まさか、アレに無理やり連れ去られたのではなく、自分の意志で地球に行ってしまったのか?
飛鳥さんの意志で、私を捨て――
『向こうで色々やらなきゃいけない事あるから、ダグラスさんはその間追いかけてきたりしないで大人しく待っててほしい。皇帝やネーヴェやクラウスに八つ当たりしないでよね。皆私の為に動いてくれただけなんだから!』
私を捨てておいて、何を自分勝手な――って、ちょっと待て。
(……待ってて?)
待っててって――待っていれば良いのか?
「私が大人しく待っていれば……飛鳥さんは戻ってきてくれるのか……!?」
帰ってくるとは言っていないが、そう言ってるようにしか聞こえない。
飛鳥さんの言葉が、私の暗く淀む精神に一筋の光をもたらす。
『もう遅い……お前は神の手先に傷を負わせ、異界の王の手先を煩わせた。今更大人しくしてももう間に合わん。そもそもお前を騙す嘘偽りかも知れん。そんな女の戯言を信じるより扉を開いて魔界に来い。そして魔界から地球への扉を開ければいい。そちらの方が確実にお前が求めている者を手に入れられるぞ?』
確かに――飛鳥さんはしれっと嘘をつく。
都合の悪い事は言い逃れするし、辛いくせに辛くないフリをして強がったりする。
目で嘘はつけなくても、口はまやかしを紡ぐ。
声だけしか聞こえないこの状況では飛鳥さんの言葉は嘘か真かわからない。だが――
『私、嘘ついたり裏切ってたりで信じてもらえないかもしれないけど……その、向こうでやる事全部終えたらここに戻ってきて、ちゃんとダグラスさんと話あって仲直りできたらって思ってるから……だから……勝手な話だけど、信じて、ほしい。多分、一ヶ月二ヶ月位で戻ってこれると思うから……』
『一節、二節は長い……お前が魔界から地球の扉を開けばすぐに会える』
『……私、貴方みたいに愛してる、とか貴方だけ、だなんて大それた言葉はまだ使えないけど……それでも今、貴方の横を歩いていきたいって思う位には…………好き、よ』
彼女の言葉によって一筋の光が一気に広がっていく。
好き――私の横を歩いていきたいと思う位には、好き――
まさか、そんな――謝って仲直りしてまた誠意を尽くして愛を積み重ねていければと思っていた所に、そんな熱烈な愛の告白が聞けるとは思っていなかった。
脳が未知の感覚に戸惑いながらも、更に紡がれていく飛鳥さんの言葉を一言たりとも聞き逃すまいと集中する。
『だから、その……人に迷惑かけずに待ってて! 私もこれ以上この世界の人に迷惑かけたくないし……ちゃんと、帰ってくるって約束するから!』
ああ、ちゃんと帰ってくる――ちゃんと帰ってきて、私の横を歩いていきたい――好き――だから人に迷惑をかけずに大人しく待ってて――好き――
『これは嘘だ……女の戯言に耳をかすな……!!』
「うるさい……!!」
『何……!?』
「聞こえなかったか!? うるさいと言ったのだ!! 飛鳥が私に向けて語る言葉が例え嘘偽りの戯言だったとして、それがどうした!? 飛鳥はそういう女だし、嘘ならば2節後に捕まえて謝らせればいいだけの話だ!! 彼女の甘言を噛み締めている時にいちいち苦言で濁すような無粋な真似をしてくるな……!!」
眼の前の濃灰の光を纏う黒猫に一括した後、再び思考を巡らせる。
飛鳥が帰ってくる――だが、どうする? もう今の時点でしっかり周囲に迷惑をかけてしまっている。
どうすればいい? どうすれば一節二節で取り繕える?
皇帝の間の修繕費用と、窓が割れた事で生じた怪我人の治療――は金で何とかできる。また金に余裕がなくなるが致し方ない。
後は赤青緑――赤は単純だ。恥をかなぐり捨てて謝れば許されるだろう。
厄介な青と緑にはそこまで迷惑をかけていない、謝れば何かしらの条件をつけて許されるはず――
『貴様……!! 魔を統べる程の力を持ちながら、何の力もない女の下僕と成り下がるか……!!』
「はっ、誰が下僕になどなるか…‥!! 私は彼女に何もかもを捧げるつもりなどない。何でも聞くような傀儡や下僕に成り下がるつもりもない……!!」
ただ――いなくなられる位ならいくらでも嘘をつけばいい、騙してくれればいい。捧げられるものはいくらでも捧げるし、聞ける話ならいくらでも耳を傾けよう。
だが全てを捧げるつもりはない。よって私は飛鳥さんの下僕ではない。
飛鳥さんがいつか緑のように目でも嘘をつけるようになったとしても、その結果私に害を及ぼすような事があったとしても、それはその時に仕置すればいい。仲直りすればいい。
「ああ、そうだ……!! 嘘をつかれない事が一番だが、嘘をつかれたらそれはそれで楽しみようがある……!! だから私はひとまず彼女の言葉を信じよう……!! 一節二節で帰ってくるのなら私はこの世界で……飛鳥さんと生きる世界で大人しく待つ!!」
『何と愚かな……!! 主のその強大な力と我の力があればこの世界を統べる事もできように……何もかも自分の物にしたくないのか? 人を従えたくはないのか? 先程お前を苦しめた存在を
その見当違いな誘惑につい乾いた笑いが出る。悪魔が睨みつけてきたので笑うのを止めて睨み返す。
「……お前は人間というものをよく分かっていないな?」
『……何だと?』
「人の欲というものは確かに尽きん……一つ手に入れればもっと先を、上を、数多くの物を求めていく。1つの物で満足する事など滅多にない……そんな貪欲な感情はお前達にとってさぞ都合の良いものなのだろうな」
人の欲に目をつけて誘い、取り込んでいくのは非常に狡賢なやり方だ。
もう少し、もう少しと求める欲はいつしか全てを得たいと思う欲に繋がり、強くなりたいと思う欲は頂点に立ちたいと思う欲にも繋がっている。
欲は弱者も強者も、誰しもが持っている。
「だが生憎私はもう頂点を知っていてな……頂点の景色は思うほど綺麗ではない事を知っている。むしろ期待していた景色ではなく落ち込んだものだ」
多くを求めればそのうち処分に困る。上に立てば立つほど責任に追われ、時間と本来持っていた物を失う。
欲を満たせば必ず心が満たされるという訳ではない。そのくせ欲を満たした分の代償がのしかかる。
『……お前が何を言っているのかよく分からんな……』
「ふう……人の心に入り込む品なき者には比喩も通じんか……ならば分かりやすく言ってやろう。私は今の力と地位で満足している。これ以上の地位や部下を持つとかえって面倒臭いのだ! 私に足りないのはもはや飛鳥だけだ……それも待っていれば手に入ると分かった今、お前に魂を売る理由など一つもない!!」
しばらくは名誉挽回と金策の為に魔物討伐に奔走せねばならないが――別に苦ではないし、飛鳥がいない間のストレス発散の場と考えればむしろ願ってもない事だ。
それによくよく考えてみたら、災厄に包まれ壊れかけた世界や血生臭い魔界で飛鳥が笑顔になれるはずがない。
心からの笑顔に包まれた幸せな家庭など築けるはずもない。
よって――魂を売ってもデメリットしか無い。
「さあ、御託が済んだならいるべき場所に帰れ、愚かで穢れた悪しき魔物よ……!! お前らの世界の扉なんぞ、私が生きている限り絶対に開けぬ……!!」
『この、変態が……!!』
私を軽蔑するような目で見据え、不快な負け惜しみを零す相棒――に乗り移った姑息な悪魔をいい加減黙らせなければ。
私は今、こんな所で小者と押し問答している場合ではないのだ。
「ペイシュヴァルツ、いい加減に起きろ!! この非常時に寝てるだけならまだしも乗っ取られるとは情けない!! お前も色神と呼ばれる存在ならば、さっさとこの口うるさい悪魔を蹴散らしてみせろ!!」
そう威圧した声が闇に溶けた直後、濃灰の光が濡羽色――漆黒に非常に似た黒に変わった後ペイシュヴァルツを包んで消えた。
そして数秒――暗闇の空間でなお黒いと感じる本当の漆黒の中から漆黒の獅子が大きな欠伸をしながら現れた。
『……すまぬ。久々に濁りなく広々とした器の寝心地があまりに良くて14年ぶり……いや、これまで以上にない位に熟睡してしまっておった。不覚を取った』
威厳ある獅子が大人しく頭を下げる姿に戸惑いつつ、改めて姿を眺め見る。
これまでずっと濃灰だった目も黒くなり、腹の白い部分もすっかり消えている。
そして、蝙蝠の羽は龍の羽のごとく大きくなり、猫というよりは獅子のような姿。
前足近くでワサワサと蠢く尻尾らしき物は一体何本あるのか、この暗闇では正確に確認できない。
――これが、本来のペイシュヴァルツの姿か。なるほど、これは乗ったら様になりそうだ――と、思ったらまた大猫の姿に戻る。
「……何故戻った? 先程の姿の方が余程様になっていると思うが」
『余の魔力はこの世界の生物の内面に強く影響を及ぼす。だから余は本来の姿でいたくないのじゃ。そんな事よりそち……どうやってあの者の誘いを退けた? あの者は人の心の隙を突く事に長けておる。簡単に拒絶できる奴ではないはずじゃが……』
拒絶――確かに、飛鳥さんの声を聞くまではあの誘いはなかなか甘いものだった。
飛鳥さんの声が聞こえてこなければあのまま、ペイシュヴァルツを騙る悪魔に手を貸して精神も体も乗っ取られていたかもしれない。
「こればかりは愛の力……としか言いようがないな」
ペイシュヴァルツが目を見開き固まった状態でこちらを見ている。
確かに、私自身もこんな
思えばペイシュヴァルツのこの喋り方に気づかせてくれたのも飛鳥さんだった。
ペイシュヴァルツの独特な喋り方を聞いてなければ、乗っ取られている事にも気づかなかっただろう。
両手を焼いてしまった苦い過去と共にこみ上げてくる、紙切れに何やら書き込んでいる飛鳥さんの笑顔。
本当に、私は彼女に酷い事をしてきた。それでも飛鳥さんは私と共に生きようとしてくれている。その愛情が私を救ってくれた。
その愛情に応えたいと強く願う心が悪魔の誘いを撥ね付けたのだ。
暗闇の中に光が差し込む。ああ、現実に戻らなくては。
(目覚めたらまず公爵達に頭を下げなければ……)
その後どういう罰を課せられるのか――ズシリと心が重くなったのを感じながら光に身を委ね、重い瞼をゆっくり開く。
ぼんやりと現実の視界が広がり徐々に鮮明になっていく中、視界にあった赤と青、緑と灰色が公爵と皇帝である事に気づいた時には思わず言葉を失った。
赤の服がボロボロに、青と緑の衣服も所々擦り切れている上に皆、髪がかなり乱れた状態で苦笑いで私を見据えている――という、どう言葉を切り出せば良いのか分からない状況だったからだ。
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