第59話 とある令嬢の愛し方・3(※ルクレツィア視点)
「ああ、ルクレツィア。意識が戻りましたか。飲めますか?
お父様のいつもの落ち着いた声が聞こえると同時に差し出された、ガラスの小瓶――受け取りたくても手も口もガチガチに震えてしまって飲めそうにありません。
それでも何とか差し出した手の上に乗った小瓶はすぐに地面に落としてしまいました。
「……仕方ありませんね、一時的に彼から魔力を借り……」
お父様がそう呟いて私から離れた後、ぼんやりと橙色が見えて、視界が温かく遮られる。そして何か柔らかい物が唇を覆って何かを流し込まれる。
この味――私が少し前に一度口に含んだ、苦い味。
体全身に染み渡るそれは体の震えを止めて視界をはっきりさせていく。背中の傷の痛みが一気に和らいでいく。
「あ、あ……アーサー様……?」
私の視界を遮ったのはアーサー様の手。それが離れてハッキリ映るのは青空と、鮮やかな橙色の髪を持つ、神様がお作りになられた至宝。
『大丈夫か?』
「はい、私……大丈夫で……」
答えきる前にまた勢いよく鼻血が吹き出て怪訝な顔をしたアーサー様から無言で再度ハンカチを鼻に押し付けられてしまいました。私、今とても恥ずかしいですわ。
アーサー様から人命救助という名のキスをされてしまったとはいえ、私は公爵家の娘――鼻血など気合で堪えなければなりませんでしたのに。
ああ、こちらを見下ろすお父様の冷めた視線がアーサー様の方に向けられています。
どうしましょう、今のキスシーン絶対見られてしまいましたわ。これは嫌味言われる程度の沙汰ではありません!!
(ツヴェルフでもない私がいくら人命救助の為とは言え、まだ交際のお約束もしてない殿方から接吻を受けるだなんて、不純異性交遊と受け取られてしまいかねません……!!)
お父様は鞭も魔法もアズーブラウも使えます。攻撃の幅が広すぎて何処からどういう攻撃を仕掛けてくるのか分からない分、氷竜より怖いですわ……!!
「……色々言いたい事はありますが今はその事に言及している時ではありません。実は行方不明になっていたツインのツヴェルフ……ミズカワ・アスカさんを先刻保護したのですが、先程の氷竜討伐の際に生じた雪崩でロットワイラーの方に流されてしまいました。公爵家の人間はロットワイラーに足を踏み入れてはいけない事になっているので魔導工学に強く有能な戦士でもある貴方に彼女を助け出してほしいのです」
あら、いつの間に雪崩なんて起きたのかしら? もう空もすっかり明るいですし――私、どの位眠ってしまっていたのでしょう?
「もちろん無償でとは言いません。謝礼として金でも宝石でも希少な武具でも、望む物や願いを言ってくだされば私の名において出来る限り用意させて頂きます」
(ああ、ここでアーサー様が一言『ルクレツィアが欲しい』と言ってくださったら、私……)
と思った瞬間、アーサー様が表情を歪められます。
「謝礼など不要です。友の婚約者が危険な場所にいるなら何の益がなくとも助けます。私の信念を穢すような真似はやめて頂きたい……!」
(ああ、アーサー様が何だかとても高潔な事を仰られてますわッ……!!)
ダグラス卿の婚約者というだけでアーサー様にそこまで気にかけられるアスカさんが心底羨ましいですわ……!!
「助けに行くという行動は変わらないのにわざわざ益を断り人を不快にする貴方のその信念、私には全く理解できませんが……対価が無くとも動くというならそれはそれで構いません。ですが後からやっぱり……と無理難題を言われても私は一切応じませんよ? 本当にそれでいいのですか?」
「くどい! 友も友の婚約者も、私が私の意志で助ける!」
ああ、アーサー様の怒り顔カッコいいですわ……何だか少しお辛そうなのが気にかかりますけど。
そしてお父様は凄い不機嫌な割に本当、笑みは絶やしませんのね。こちらはこちらでもはや感動の域ですわ。
「……非常に癪に障りますが、今は貴方に頼るしか無い。どうか宜しくお願いします。ルクレツィア、いつまでも膝枕されてないでいい加減起き上がりなさい」
お父様からそう言われて初めて自分の頭がアーサー様の太ももに乗っている事を認識する。
「え、あ、はい、ごめんなさいまし……!! あ、アーサー様、このハンカチは綺麗に洗って乾かしてシワも綺麗にしてからお返ししますわ!」
お父様から物凄く面白くない感が漂ってますので慌てて起き上がって、お父様の元へと駆け寄る。
『……ラリマー嬢!』
その呼びかけに対して首が千切れ飛ばん勢いで全力でふり返ると、歩み寄ってきたアーサー様から金貨を2枚手渡されました。
『これでその服を修理するか代わりの服を買うといい』
「アーサー様……」
そう言えば背中が酷い事になっていたのでしたわ。
まあアーサー様を守った名誉の負傷ですから傷が残っていた所でどうという事はないのですけれど。
そしてこの金貨はもう洗わずに亜空間に永久保存させて頂きますわ。
(……でも、もし傷が残っていたら、私いわゆるキズモノになるのかしら……!?)
そうしたらアーサー様が責任取って結婚してくれるなんて展開もありうるのでは……!? 卑怯! ああ、何て卑怯な私……!! ですけれど恋の駆け引きには時に卑怯も必要――
「ラリマー家が服一つまともに買えない家だと馬鹿にするのはやめ」
「ナチュラルに念話を盗聴しないでくださいましお父様ッ!! プライバシーの侵害でしてよッ!!」
お父様を怒声と眼圧で黙らせた後、もう一度柔らかくふり返る。
「アーサー様、どうか……どうか、お気をつけて……!! あ、あと、お約束通りこの体に戻ってまいりましたので今後は是非ルクレツィアとお呼びになってくださいまし……!!」
血に塗れたアーサー様に浄化の術をかけながら凝視すると、アーサー様は顔を背けた後、そのままザクザクと深い雪の上を歩き始められました。
「そんな、アーサー様……目覚めたら名前で呼んでくれるって……!」
そう叫ぶと、クルりと振り返って厳しい顔で念話が送られてくる。
『ラリマー嬢。君は私から名前で呼ばれるまで絶対死なないのだろう? それなら私は一生君の名を呼ばない。助けてくれた事には感謝しているが、君はもっと自分の命を大切にしろ』
(ああっ……怒りの顔は美しいけど自分に向けられるとすごく凹みますわ……!!)
そう言えば、暗闇から這い上がる為の最後の気合――最後は声に出してしまっていた気がします。きっちり聞かれてしまっていたのですね。アーサー様のお叱りは氷竜の一撃より心にきますわ。
(な、名前で呼ばれなかったら死に……駄目ですわ、今『自分の命をもっと大切にしろ』って言われたばかりですわ……!!)
この状況を打破するようなアイデアが思いつかず、こちらを一切振り返らないアーサー様の背中が見えなくなるまで見送る。
またお父様の圧を感じてトボトボとアズーブラウに乗っていたお父様の後ろに座ると、アズーブラウが空に浮き上がりました。
「お父様……アーサー様を国境ギリギリまで送ってあげてはいかがでしょうか? 私ショックで謝罪しそびれてしまいましたの」
「……下手に国境に近寄ってロットワイラーを刺激したくありません」
「お父様……もしかして怒ってらっしゃいます?」
その問いに何も言葉は返ってきません――これは間違いなく怒ってらっしゃいます。
(……あの時、どうしてシーザー卿はわざわざお父様を怒らせような事を言ったのでしょう? お父様に怒りの感情があるのはお父様に関わってる者なら誰でも分かる事なのに)
まあ『面白くなりそうだから』と言われてしまえばそれまでですけれど……アスカさんを塔から降ろした事を誰にも言わない辺りとか、お父様が誰にも言ってない同血の呪い子の情報をいったい何処から手に入れたのかとか……本当にシーザー卿は面倒で薄気味悪い方ですわ。それにしても……
「……お父様。私、先程人生を振り返っていたのですが……どうしてお父様はシーザー卿にちゃんと怒りませんの?」
「彼の挑発に乗っても何一つ良い事はないからです」
普通の質問にはサラリと答えられます。確かに挑発行為はスルーなさるのが一番良いのかも知れませんけれど……
「それでも、自分を壊れた人間呼ばわりされたら普通は怒るものですわ。私、4歳の頃に着いて行った六会合で『壊れた人間から生まれた割には普通』ってあの方に言われたのにお父様がニコニコ微笑っていたの、本当にショックでしたわ」
私の呟きでしばしの沈黙が流れた後「ああ」とお父様は思い出したように小さな相槌を打たれました。
「あの頃にはもう彼から壊れた人間呼ばわりされる事に慣れていましたからね。それにあの時は……貴方が普通だと言われて嬉しかった」
「え……? 意味がよく分かりませんわ」
そう言うとお父様はチラりとこちらに振り向き、眉を下げて微笑みます。
「私は自分が壊れている事を自覚しています。ですから私から生まれる子も壊れていないか心配だったんです。なので彼から普通だと言われて安心したんです。貴方が普通で本当に良かったと、そう思いました」
(お父様……!!)
それは、子が普通で良かったと想う気持ちは――愛と呼ぶものではないのでしょうか? いいえ、お父様にとって愛では無かったとしても、私は――
感激の言葉を紡ぐ前にお父様の目から力が消えて、言葉が重なる。
「……が、安心していた期間は短かった。貴方があの年に出会ったあの男に対する異常に執着的な恋愛観は明らかに『普通』じゃありません」
そして再び前を向かれただただ深い溜め息をつかれましたので、私、後ろに少し引き下がって深く頭を下げました。
「……申し訳ありません、アーサー様が大変だと聞いて居ても立ってもいられず……アレクシスに替え玉を強制した上に超希少な
流石に自分がしでかした罪がバレれば相当なお叱りを受ける案件だとは分かっていましたので、お父様にバレずに帰りたかったのですけれど――今日はアーサー様と本当に濃厚な時間を過ごせましたの。もう、どんな重い罰でも受け入れますわ。
「ここに来るまでにどんな罰を与えようか考えていましたが、それなりに痛い思いをしたようですのでもういいです。
呆れているような声で、優しい言葉を呟く。
(……お父様は、けして壊れている訳ではないのです)
そう――お父様は普通の人よりちょっと感情が足りないだけなのです。
感情が足りないなりに持ってない感情がどういう物か調べたりして自分なりに信念を持って生きようとしているだけで、けして壊れている訳ではないのです。
(恐ろしい所も多々ありますけれど……それでも、私はそんなお父様が嫌いじゃないのです)
怖かった。だけど嫌いにはなれなかった。お父様が私との絆を一応大事にしたいと思っているのはずっと伝わってきたから。
久々に思い出した想い出を振り返りつつ、いつもと違うアズーブラウに目を向ける。
普段のアズーブラウには無い鶏冠やヒレは、神化の証。通常の主に付き添う姿ではなく、神としての力を振るう形態。
「ところでお父様、どうしてアズ―ブラウはずっと神化してますの? 色神の神化の維持には相当な魔力を消費すると以前お聞きした気がするのですが……?」
「……少々扱いに困る物を封印してしまいましてね。迂闊に神化を解かせられず、どうしたものかと思っています。本当に……色恋というのは恐ろしい。圧倒的な力を持つ者は愛情など抱かない方が世の中平和なのかも知れません」
その言葉で大体状況を察しつつ、お父様の嫌味は聞こえないフリをして顔をそらすと既に遠く離れた白い雪山が見える。
今そこにいるであろう人を想い、両手を汲んで静かに祈りを捧げる。
(アーサー様、本当に、お気をつけて……)
私の大切な家族が壊れてなどいない事を気づかせてくれた、誰より何より大切な人。
これからまた危険な場所へと赴かれるアーサー様と無事に再会できる日をこうして願う事しかできない私をどうかお許しくださいまし。
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