第242話 感情と理性の衝突の末に


 腕に絡む優里の手をそっと離す。

 驚いた様子の優里にどんな表情を向ければ良いのか分からず、苦笑いする。


 優里は(いいんですか?)という視線を向けてくるだけで再び私の腕を引き寄せる事はしなかった。安心しつつ立ち上がって彼がいる方向へとゆっくりと歩きだす。


 音石が紡ぎ出した昨夜の私と、今の私の気持ちは違う。


 まだ彼に対する恐怖はある。テレビもネットもスマホもゲームも漫画もパソコンもカラオケも無いこの星に残りたい理由なんて正直無いし、あの人の言う言葉を信じてる訳でもない、し……


 所々で感情を抑えようとする思考に足取りが重くなりつつも、何とか陣の縁に辿り着く。


 既に大分塔から浮上しているようで屋上が大分小さく見えて足が竦む。

 時間が時間だからか街の灯りは殆ど見えず、屋上の篝火と青白い星の光だけがうっすらと街を照らしている。


「アスカ――!? ―――!!」


 私の少し上でクラウスの声が落ちてくる。見上げるとラインヴァイスに乗ったクラウスが必死な表情で何か叫んでいる。


(……クラウスだって、ここまでしてくれてるのに……)


 クラウスにここまでさせておいて、こんなギリギリな状況で今更『あの人が気になるから』なんて理由で戻っていいのだろうか?

 これまでの努力と苦労の重みがズシリと心にのしかかり、足を踏みとどまらせる。


(……地球に帰れば、元の生活が待ってる……今ならまだ十分向こうで生活を立て直せる。気になる漫画やドラマの続きだって見れる。こんな世界であの人に頼って生きる道を選ばなくていい……地球に帰った方が絶対に良い……!)


 それが分かっているのに、足が動かない。

 進むことも戻ることもできないまま私はダグラスさんの方を見てしまった。


 必死に縋るように目に。こちらに向けて差し出してくる手に心が動く。

 でも差し出してくる手とは逆の手が握る黒の槍が頭に警鐘を鳴らす。


「アスカ、下がって! そいつは絶対に君を幸せになんかしない!! アスカの居場所はここにないんだ!!」


 クラウスも翻訳魔法を使えるようになったのだろうか? 彼の声にダグラスさんの表情が歪む。

 ペイシュヴァルツがグッと近づいてきてダグラスさんが私達との間に大きな黒の魔法陣を展開する。


 ダグラスさんのその表情が怖くて、引き下がろうと足をズラした瞬間――背後から強い力で突き飛ばされて、足が転送陣から外れる。


「………えっ?」


 宙に浮いた感覚は一瞬だけで、その後スローモーションのように数秒ゆっくり落下していくと感じた後、


「……sorry」


 綺麗な声と共にスローモーションが解けて真っ逆さまに落下する。



「「飛鳥アスカ!!」」



 2人の声が上から落ちてくる。


 床に、叩きつけられる前に、防御壁を――と思うけれど、何で、どうしてと頭がうまく動いてくれない。


 引力に抗えない中、物凄い勢いで近づく白い石造りの床が直ぐ傍まで迫って――


(駄目、ぶつかる……!!)


 ギュッと眼を瞑り視界を閉ざすと、何か温かい物に包まれる。


「くっ……!!」


 直ぐ側に聞こえる男性の声で、抱きしめられているのだと知覚した瞬間、ブワッ、と身体が浮き上がり、そのままドンッと音がして落下している感覚が止まった。


 痛くはない――けど、動けない。


 恐る恐る目を開くと、ダグラスさんが私を床から庇うように仰向けに私を力強く抱きしめている。


「大丈夫、ですか……?」

「え、あ、はい……」


 心配そうな表情で紡がれる言葉に、心が揺らぐ。


 私の反応を確認するやいなや心配そうな表情から一転、狂気に歪んだ表情で私を見つめた後ゴロリと体勢をひっくり返されて強く抱きしめられる。

 痛さすら感じる抱擁に先程揺らいだ心が一気に収縮する。


「ちょっ……痛い! 離して……! 離してってば!!」

「嫌です……もう離さない……! もう貴方の心が誰にあろうと関係ない……貴方は私の物だ、私だけの物だ、一生逃さない……!!」


 翻訳魔法を通して畳み掛けるように吐きだされる言葉が酷く重々しい。必死に押しのけようとするけれど、全く力を緩められない。


「さ、さっきと言ってる事違うじゃない!!嘘つき……嘘つき!!」

「嘘じゃない……!! 私が、貴方が嫌がる事をやめれば、貴方は自分の意志で戻ってきてくれると思った!! しかし、あの女が突き飛ばさなければ貴方は地球に帰ったでしょう……!? だからもう貴方の言う事は一切聞かない、信じない……昨夜の記憶が消えて貴方の心はもう私にはない……それがよく分かりましたから……!!」


 ダグラスさんの悲痛な声が響く。この人の向こうに見える夜空はもう転送陣が消えて青白い星と小さな星達が輝くだけ。


 もうどうしようもないのだと理解した頭が、全身から血の気を引かせる。


「残念でしたね……? 転送は終わりました……もう貴方は帰れない。せいぜい私に媚びて、縋ってください……そうしてくれれば私も貴方を酷い目に合わせなくてすむ……」


 ニタリと微笑うその勝ち誇ったように歪んだ表情が絶望を誘う。


(どうして、どうして、どうして……!?)


 どうしてなんて――分かってたじゃない。ソフィアは最初からそう言ってたじゃない――


 頭の中で狼狽える私に、冷たい私が問いかける。


 どうして、と言うなら、どうして私はあの陣の中にいなかったの? 立ち上がったりしなければ、今頃無事に転送されていたのに――


 あのまま何の声にも耳を傾けずに陣の中央で転送を待っていたら、こんな事にはならなかったの?

 あのまま勢いに任せて飛び込んでいたら、こんな事にはならなかったの?


 地球に帰る事を躊躇したくせに、この人の所に飛び込む勇気も出なかった私はダグラスさんを怒らせて、ソフィアに痺れを切らせて、その結果が――時間切れ。


 ゲームでも制限時間がある選択肢では大抵制限時間が物凄く長い場合でもない限り、タイムオーバーは大抵ロクな事にならない。これは明らかにそのパターンだ。


 涙が、溢れる。ダグラスさんの狂気に満ちた顔がまた喜びに歪む。優しく涙を拭う手が、恐い。


「ああ……飛鳥、飛鳥、飛鳥……!!」


 絶望に打ちひしがれる私を愛おしむかのように再び私を抱きしめて名前を繰り返し呟くその声が恐い。


 この人から痛い位に愛されているのは感じる。だけどもう、この人は私の愛を認めてはくれない。

 認めてくれるチャンスを手放してしまったのは、私。この人が変わってくれるチャンスも――私が手放してしまった。


 そしてさっきまで私の中に確かにあった感情も、恐怖の渦に飲まれて見えなくなってしまった。

 


 私は、とても重要な選択肢を間違えてしまった気がする。



「嫌だ……嫌……、こんなの、嫌……!! 嫌ぁ……!!」


 恐い、怖い――この人が、怖い――その気持ちが膨れ上がって、もう地球に帰れない恐怖に、一人置いていかれた寂しさに耐えきれず声が溢れる。


「ああ……昨夜の素直な貴方も良いが、今の嫌がる貴方も凄く良い……!」


 抑えきれなくなった私の悲鳴に対して恍惚とした声を漏らされた後、悲鳴を塞ぐように深く口付けされる。

 彼の舌とともに身体に入ってくるのは、とても暗く重く、冷たい魔力。


 大量に注がれる負の魔力から逃げるように意識が遠のいていく。


 彼の手が私の下腹部の辺りに触れる。服越しに彼の手から黒の魔力の波動を感じる。身をよじろうとしても全く身動きが取れない。


 何をしようとしてるんだろう? これから私はどうなってしまうんだろう? 未来が、見えない。見えるのは涙でぼやけた、青白い星だけ。


 それすらもう瞼に閉ざされかけた、その時――ピシッ、と割れ物にヒビが入ったような音が頭に響き、ダグラスさんの動きが止まった。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る