第191話 最後に残った優しさを
赤の公爵とアマンダさんが去った後、嫌な沈黙が漂う。
窓ガラスこそ割れなかったものの紙や本が散らばり、クッキーやお皿もテーブルの上に落ちてしまっている。
「アスカ様……すみません、私、少々お手洗いに行ってまいります」
顔色が悪いセリアが胃を抑えながら執務室を出る。痛そう。
ダグラスさんは椅子に座って机に肘をつき額を抑えて俯いている。
私がちゃんと喋れていたら2人に痛い思いをさせずに済んだのに。
もう感情なんて綺麗サッパリ消えてしまえば私もこんな嫌な気持ちにならないで済むのに。
浮いた状態からソファに静かに戻され、防御壁を解かれる。
横になれたのはいいけれど足先が晒されていると不安になる。足先を包むものが欲しい。
毛布――は床に落ちている。手首と腕を使って苦戦しつつ何とか拾い上げ、顔面まで持ってくる。これを腰のあたりにズラそうとすると突如毛布が宙に浮いた。
その向こうにダグラスさんが見える。
(うわ……左頬めっちゃ腫れてる……)
どう考えても赤の公爵に殴られたからできたものだろう。あまりの見事な腫れように目を離せないでいると腰から足にかけて毛布がかけられた。
そのまま去られそうになった所を、咄嗟に袖を引っ張って引き止める。指の皮膚がズレる感覚が少し痛い。
だけど引き止められた事に気づいてくれたのか、振り返ってしゃがみこんでくれた。
「……何だ? この顔を馬鹿にしたいのか?」
無気力に微笑う表情が、悲しい。
「……いくらでも馬鹿にすればいい。笑えばいい。罵倒でも恨み言でも、何か言ってくれるのなら、もう何だっていい……」
投げやりに呟くダグラスさんの左頬に手を添える。白の魔力の使い方はあんまり難しいものじゃなかったはず。
いつの間に
後は声だ。相手に届かない声でも、魔法さえ発動すれば――
「……
僅かに空気を動かすだけの声でも発動してくれた魔法に感謝する。
腫れが引いたのを確認して、魔力が潰えない内に手を酸が触れた傷痕の方に移す。
「飛鳥……」
治したかった。ずっと、治したかった。貴方を傷つけた時から、ずっと。
「……ありがとう、ございます……」
(後は、ナイフを握りしめた時の手を……)
届かない――と思ったら、向こうから私の手を優しく握ってくる。手に向けて治癒を続けていく内に白の魔力が尽きる。
役目を終えて離そうとした手を追うように掴まれる。やはり皮膚がズレるような手の痛みに顔が歪むと、すぐに手が離される。
「すみません……」
手を離したダグラスさんの、私をじっと見つめる目が潤んでいる。
「貴方は、どうすれば……あの時みたいに笑ってくれますか……?」
難しい事を聞いてくる。あの時ってどの時?
そんなの分からない。分かったとしても、もう――
寝返りを打って顔を逸らす。今更、なんて思ってる姿を見せたくない。
でも背後の気配が消えない。しばらくしてセリアが戻ってきても消えない。
ずっとそのまま。言葉を交わす事もなく。ただただ時が流れまた両手がジクジクと痛み出してきた頃、ノック音が響く。
「そろそろ薬の塗り直しが必要な頃かと」
ルドルフさんの声が聞こえる。何だか私、本当に何も言わなくても生きていけそう。
「私がやります。手順は見てましたので」
セリアの声が重なり、手を綺麗に洗われて新たに薬が塗られ丁寧に包帯を巻かれる。
その間、ダグラスさんはじっとこっちを見ている。何を言うでもなく。じっと。敵意も悪意もない目で私を見つめている。
セリアに包帯を巻かれ終えた後、浮かされて私室のベッドに運ばれる。
「……良い夢を」
何処かで聞いた、懐かしい言葉。その言葉には、素敵な想い出が付いていたはずなのだけど。酷くボンヤリとしか思い返せない。
そして実際あまり良い夢なんて見ていない。ここに来てから悪夢に分類されるものばかり見る。眠るのが怖いとすら思う。
夢なんて見なくていい。ただただ、穏やかに眠らせてほしい。
(そんな事より……明日のパーティー、どうするんだろう……?それと、ペイシュヴァルツに謝らなきゃ……)
ペイシュヴァルツにどう謝ろうか、上手くエンジンがかからない頭で考えていたけど――その夜、いつも来る時間にペイシュヴァルツは来なかった。
眩しい日差しがバルコニーから注がれる。やはりペイシュヴァルツはいない。
ダグラスさんが魔力を安定させてるから来る必要がないと判断したんだろうか? それとも私に愛想をつかしたんだろうか?
身を起こす事が億劫で、ボーッと日差しを見ている間にセリアが入ってくる。
ジュースを飲み、トイレを済ませた後寝心地の良いマットレスがまた眠気を誘う。眠る。ノック音がして、目覚める。
「……おはようございます」
ダグラスさんの声だ。視線を向けると腫れは完全に引いたようだ。そして彼の胸元に何かが煌めいた。
好奇心に少し視界が開く。よく見ると、それは――羽の部分が歪んでいるペイシュヴァルツのブローチ。
「……どうしました?」
ダグラスさんが問いかけてくる。声が出ないから指で指し示す。
「ああ、これは……昨日寝る前にペイシュヴァルツが持ってきたので……」
ブローチに手を当てて、酷くバツが悪そうに答える。
「これは本当にペイシュヴァルツからのプレゼントだったようです……貴方にはあらぬ疑いをかけて、酷い事を言って……貴方にもペイシュヴァルツにも悪い事をしました。本当にすみません……」
深く頭を下げられる。謝る姿を見たい訳じゃない。ただ、聞きたい。
『嬉しいですか……?』
聞きたい好奇心が私に黒の魔力のテレパシーを使わせる。頭がズキズキと痛むけど、何処か遠い感覚。
「そ……そうですね。こういう物は初めてもらうので気恥ずかしい気もしますが……嬉しい、です」
『……良かったですね』
「……はい。良かったです……」
ああ、今。彼に釣られて少しだけ笑えた気がする。
でも貴方が喜んでくれる姿が見たかったはずなのに。嬉しいはずなのに――どうしてだろう? 心が、思ったほど動かない。
「飛鳥さん、無理をしなくていいです……私にぶつけるように念話してください」
優しい声で、さん付けで。私を気遣ってくれる貴方が戻ってきてくれたのに。
これ以上貴方にかける言葉も思いつかない。
「本日分の薬は……?」
言葉が途切れたのを見計らってか、セリアがダグラスさんに問いかける。
「……今日から私が塗る。治癒師もしばらく見つかりそうにないからな」
ダグラスさんが指を鳴らすと治療道具が入った箱が現れる。何で治癒師見つからないんだろう?
それに薬塗ってくれるならセリアが良いのに――でも何か言ったらまた不機嫌になるんだろうな。
私の想いが紛い物ならこの優しいダグラスさんだって紛い物。でも本当のダグラスさんよりこのダグラスさんの方がずっといい。
大人しく手を差し出す。ダグラスさんが手袋を外して私と自分の手を浄化する。
あれ? 手袋……何だっけ? ああ、そうか、記憶とか思念読まれるんだっけ?
――別に、いいか。隠したいような事情や感情は、もう何処にもない。
ひやりとする薬を塗られる。ゆっくりと。昨日以上に付け過ぎなんじゃないかと思う位ベタベタに。
「……体調はどうですか?」
優しい声で問いかけられるけど、別に、テレパシーの頭痛がまだちょっと残る位で体調自体は良くもなければ悪くもない。
そう言えばいいんだけど言う気になれなくて沈黙が流れる。
「……体調が酷くないようであれば夕刻、少しリアルガー家の懐妊パーティーに顔を出そうと考えているのですが……いかがですか?」
昨日ああいう流れになったから行かざるをえないんだろうけど――こんな状態の私が行っても迷惑なだけなんじゃないだろうか?
新聞でも面白おかしく書かれていたし。貴族達の噂の的になってしまう。
「飛鳥さんの友人と最後の会話……になるでしょうし。気晴らしになるかも知れません」
ああ、ダグラスさん気づいてるんだった。優里とソフィアが帰る事。アンナも心配してるみたいだし、皆に大丈夫だって言って安心してもらわないと。
小さく頷くと、ホッとしたような顔をされる。
そしてまた沈黙が流れる。薬塗るのに時間かけ過ぎじゃないだろうか? 塗るという割には多分鎮痛作用が無かったら痛みに耐えられない位肌が擦れ合っている。
昨日のように皮膚がズレるような感覚はないけれど。ヒリヒリする肌を刺激されるような不快感を覚える。
『もういいのでは?』
「いいえ」
相手にぶつけるように念じると薄く防御壁を貼られ、悪意も敵意もなく、穏やかな声で流される。
『付け過ぎでは?』
「いいえ」
あ、これ、私の話聞かないパターンだと思って諦める。
「ダグラス様、付け過ぎです」
セリアにハッキリ言われダグラスさんは自分の手についた薬を綺麗に拭い取った上でガーゼを宛て、包帯を巻き始める。
グルグルと巻かれるそれは、何も言わないでいると段々厚みを帯びてくる。
「ダグラス様、巻き過ぎです」
セリアが冷たく突っ込むと、ダグラスさんはわざわざ全部ほどいてから改めて巻き直す。
丁寧に巻き直すダグラスさんの手は少しだけ震えていたけど、気づかないフリをした。
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