第189話 潰される自我・2
テーブルの上に黒いケースを置くとペイシュヴァルツはケースの中にある銀色の自分を象ったブローチを興味深げに覗き込んでいる。
「明日って、ダグラスさんの、誕生日でしょ……? これ、プレゼントしてくれない?」
声を出すのがかなりしんどくなってきた。それでも吐き出した言葉にペイシュヴァルツから今いち理解できない困惑感が伝わってくる。
「ほら……この状況で、私から送っても、媚売ってるとしか思われないじゃない? それじゃ、意味が、ないのよ……でも、誕生日って……年に一回だけ、じゃない? せっかくだし、祝いたいのよね……私からじゃ、また何か裏があるとか、思われそうだし、でも……ペイシュヴァルツからなら、ちょっとは、嬉しいと、思ってくれるんじゃないかなって……あ、それともペイシュヴァルツ、何かもう、プレゼント……用意してるの?」
休み休み声を紡ぐ私の問いかけにペイシュヴァルツは小さく首を横に振る。
「そう。それなら、きっと、喜んでくれるわ」
このプレゼントをきっかけに少しは態度を軟化させてくれるかも――という打算が全く無い訳じゃない。
私から直接渡せば警戒されたり服従する意思として捉えられたり――嫌な方向に捉えられる可能性が高いけど、ペイシュヴァルツを間に挟む事で<素直になれない女>感を演出する事が出来る。
でも、それだけじゃない。
「でもあの人、誕生日を祝われた事って、あるのかしら……何も、気づかれないのも寂しいし、<誕生日おめでとう>ぐらいの、言葉はあった方が、分かりやすいわよね……」
ノートから1枚紙を破り、羽ペンとともにテーブルの上に置く。
「ね、ペイシュヴァルツ……貴方、文字、書ける?」
そう問いかけて、しばらく――羽ペンが独りでに浮き、紙切れに何か書き込んだそれを眼鏡をかけて確認する。
<ダグラス 誕生日おめでとう>
「わぁ……万能すぎるわ、ペイシュヴァルツ……! 後、名前も、添えましょう」
文字の下に新たにペイシュヴァルツの名が記される。
紙切れにシンプルなメッセージを書いただけの紙はあまりに殺風景に感じ、華美にならない程度に星やリボンを書き込んで周囲を縁取る。
喜んでくれるだろうか? 贈り物で人が喜ぶ姿は想像するだけでも温かい気分になれる。
彼がこちらの意図に気づかず、これを純粋にペイシュヴァルツからのプレゼントとして受け取るならそれはそれでいい。
あの人が喜んでくれるなら、それでいい。プレゼントって本来、そういうものだから。
心躍る感覚が、酷く懐かしい――楽しい。
「よし……こんな感じかな。後は、明日ダグラスさんに、届ければいいから」
丁寧に折り目をつけて綺麗に破り、小さく畳んで黒いケースにしまう。
<いいのか?>
残った紙切れに書かれた、初めてのペイシュヴァルツからのコンタクト。
「……いいのよ。もう」
私が直接渡して喜んでもらえたら何より嬉しいけれど――喜んでもらえないのが分かっているから。
(勘ぐられて受け取ってもらえなかった場合の事も考えておかないと……)
受け取ってもらえる事ばかり想定していたら、万一受け取ってもらえなかった時のダメージが測り知れない。
冷たくはねつけられた時に(やっぱり)って思えるか思えないかだけでも、だいぶ違う。
「……私のせいで、受け取ってもらえなかったら、ごめんね? その時は、ペイシュヴァルツから、改めて何か、贈ってあげたら、良いわ。そうしたら、流石に伝わるだろうから……」
打算に巻き込んだ罪悪感からペイシュヴァルツの頭を撫でる。お腹の辺りのモフモフ感と違い、すぐ骨に当たるちょっとしたゴツゴツ感。これはこれで気持ち良い。
「貴方がいるなら……私の想いなんて、本物だろうが紛い物だろうが、どっちでもいい気がしてきた」
私は勘違いしていた。彼も孤独なのだと。
でも彼にはこうやって気にかけてくれるペイシュヴァルツがいるのだ。
何だかんだでヨーゼフさんもいるし、ランドルフさんやルドルフさんだってダグラスさんの事を気にかけているだろう。
私が本物の想いを届ける事に固執しているだけで。
彼が私の本物の想いを求めているかどうかなんて分からない。
純粋に彼を心配する誰かがいるのなら、その誰かの想いに気づいてくれたらそれでいいのだ。その誰かが私である必要はない。
そう思うと、彼の言葉が、想い出が自分の中で急速にぼやけていくのを感じる。
あの人にとって私の本当の価値は、綺麗な子どもを産める所にある。私の感情なんて、どうでもいい。
どうでもいい人間の感情が本物だろうが偽物だろうがどうだっていい――私だってそう思う。
こんな遠回しな手段に出るよりさっさと服従した方がいいのだろう。そうすれば価値相応の待遇が約束されている。
あの人も、皆も、それを望んでいる。私だけがそれに逆らっている。
誕生日プレゼントに機嫌を良くする彼が見れたら――なんて、まるで寒さに凍える中で火を灯して、一時の温かな夢を見るマッチ売りの少女のよう。なんて、不幸で、健気で、報われない私。
大人しく従ってればいいのに悲劇のヒロイン気取って悪魔相手に自分の想いが伝わらないと嘆く――私はその辛く甘い立場に酔いしれているだけ。
誰にも分かってもらえない可哀想な自分を嘆くのが好きなだけ。
だってこれまで、ここまで誰かに執拗に構われた事がなかったから。
父や母が亡くなった時のように酷く心配される機会なんて本当一時だけで。
この世界に来るまで前を向き続けるのに必死で、甘える事が出来なかったから。
(違う……違う!)
違わない。私が反発すればするほど彼はこっちを見てくれる。固執してくれる。だから私は抵抗してる。
先程からずっと自分の中にもう一人の自分がいるかのように、今の自分を責める声が聞こえてくる。理性と対立するそれは酷く攻撃的で、的確に急所を突いてくる。
(やめて……私の想いを、穢さないで……!)
私の想い? 何で私は、私の想いを綺麗なものだと決めつけているの?
打算の上でとりあえず好意的に接して欺いてないと、と思っている内に芽生えた想いは綺麗なの?
(ああ、もう……私の想いもどうでもいい、何でもいい。だけど)
彼に、今まで私に向けてくれていた好意と優しさを恥だと思ってほしくない。それが何でかもう、分からない。だけど、譲れない。
ごちゃついていた理性と感情と何かが少しずつ混ざり合っていく感覚が怖い。私が私じゃなくなっていく感覚が――恐ろしい。
せめてどうか明日まで。あの人が喜んでくれる姿を見るまで、私は、私でありたい。
――朝。天気を確認する気力すらない。左手左足でペイシュヴァルツの毛並みを堪能しながらボンヤリと天井を見上げるうちにノック音と共にセリアが入ってくる。
「飲みやすいジュースを用意しましたので、どうぞ」
ベッドから起き上がる様子を見せない私の目の前にコップが差し出される。行儀が悪いのは分かってるけど少しだけ身を起こして口をつける。
色は橙。味はよく分からないが、酸っぱい系なのは何となく分かる。
せっかく用意してくれたんだし――と何とか飲みきってセリアにコップを返してまた横になる。
傍にそっと新聞を置かれたけど広げる気力もない。心地良い温かさと感触がうとうとと眠気を催し、また眠る。
しばらくして頬にザリザリした感触を感じて目を覚ますと、ペイシュヴァルツが目の前にいた。
私が起きると黒いケースをくわえて部屋から消えていった。
(触れてる物質もすり抜けさせる事が出来るのか……)
とぼんやり思いながら微睡んでいる間に、これまでで一番激しい動悸が襲ってくる。
動悸はどんどん強く速く脈打ち、布団を掴んで息を吸って吐き出すのを繰り返している内にドアが激しく開かれた。
身を滑らせるように動かしてドアの方を見やると息を乱して、怒りの形相で、ダグラスさんがこちらを睨んでいる。
その手には――さっきペイシュヴァルツが持っていった黒いケースがある。
「こんな稚拙な策略で私の心を動かせると思ったか?」
酷く冷たい言葉が、失敗を告げる。
(やっぱり。やっぱり……)
必死に心の中で復唱して、涙が吹き出すのを防ぐ。
「ペイシュヴァルツの名まで利用して……浅ましいにも程がある……! それに、こんな安っぽい物を身に付ける程私は落ちぶれていない!!」
1万円を安っぽいとか落ちぶれとか言う価値観の人に、私は合わなくて当然なのだ。
「私に素直に謝るのがそんなに嫌か……!? そんなに私に屈するのが嫌か!? 私を油断させてクラウスの所に行きたいか!? 地球に帰りたいか!?」
分かってた事じゃない。こうなる展開、予想してたじゃない。
傷つかなくていいの。だから、これ以上自分の心を締め付けるのはやめよう?
「私は……貴方が私を……くれれば……私を、必要な存在だと、……くれれば……!!」
ダグラスさんが何か言ってる。何を言ってるのかよく聞こえない。
でも怒ってるのだけは分かる。
(怒らせたい訳じゃなかった)
何をやっても伝わらない。耐えてみても駄目だったならもういいじゃない。
私も相当厄介な性格してるけど、この人はそれ以上に厄介だってだけ。
(喜んでくれたらと思った)
ごめん。ごめんね、ペイシュヴァルツ――さっきの貴方、ちょっと嬉しそうにしてたのに。私、貴方にとっても疫病神だったね。
私の自己満足の為にあの子の純粋な好意までこの人に踏み躙らせて、私は――
(ああ、駄目だ。想像していた以上に、ツラい)
彼の手に浮かんだブローチの入ったケースが、黒い炎に包まれたのが見えた。
「あ、ああ……!!」
口から勝手に声が出る。このままじゃ、駄目。何もかもが消えて灰になってしまう。
私の想いはともかく、あれには、ペイシュヴァルツの――
やつれきった私に手を伸ばせる力があった事に何より自分が驚いている。
これが火事場の馬鹿力――というものなんだろうか?
黒の炎に包まれた手は後で物凄く痛い目みるだろうなとは思ったけど。取り返す瞬間さえ痛くなければ、もうそれでいい。
燃える黒いケースを手に取って中を開き、中のブローチを放り投げる。
「ふっ……うう、う……」
ケースが手からこぼれおちる。落ちたケースは火が消えて絨毯に燃え広がりはしなかった。
「いっ……っ、ああああああ――っ!!!」
手が、指が、熱くて、痛くて、痛い――遅れてやってきた激痛は、どんどんその痛みを増していく。打撲や切り傷の痛みと違う、焼けるような痛みが。
自分でも恐ろしい位醜い声が喉の奥から溢れでる中、誰かに抱えられて両手が水に包まれる。ひんやりとした感覚に痛みが吸い取られて少しだけ楽になる。
「貴方は、本当に……!!」
彼の物凄くイラついた言葉が怖い。怖い。痛い。本当に、怒らせたい訳じゃなかったのに。
「おい、ルドルフに治療道具を持ってくるように伝えろ!!」
恐らくセリアに向けて言っただろう言葉も。怒らせなければセリアだって怒られなかったのに。
ああ、もう嫌だ。もう何もかも嫌だ――
(消えたい……!!)
そう思った瞬間、私の中で、何かがいくつも千切れていった。
何かが千切れる度に少し心が軽く、楽になる。だけど手は、何処まで熱が染み入ってるのか怖くなる位痛い。
その後すぐルドルフさんがやってきて、物凄くベタベタする半透明の緑色の冷たいジェルのような物を私の手に塗りたくる。軽くなった痛みが、少しだけ冷静さを取り戻す。
これ何だろう? と思いながらルドルフさんに視線を向けていると、
「……様々な薬草のエキスを溶かし込んだ治癒軟膏です。後程治癒師を手配しますがひとまずこれで痛みと悪化を防ぎます」
ルドルフさんはそう呟いた後、手に薄いガーゼを当ててその上に包帯をグルグルに巻いてくれた。
熱と同時に痛みも吸い取ってくれるようなひんやり爽快感が心地良い。
「……その顔をやめろ」
冷たい声が聞こえた方を向くと、ダグラスさんがまだ怒っている。
あれ? 私――何か、おかしい。さっきはあんなに怖かったのにな。
ああ、色々有りすぎて頭と心が疲れちゃったのかな?
その顔をやめろと言われても、眉ってどうやって動かすんだっけ?
口元ってどうやってあげるんだっけ?
そう言えば私――何の為に意地を張ってきたんだっけ?
もう――何も分からない。分からなくて、いいんじゃない?
私は、ロクでもない事しか考えられないんだから。
「やめろ……母上と、同じ顔をするな!!」
また怒る。本当怒ってばかりだな、この人。
ああ、だから――セラヴィさんは――
私と同じ様に決定的な亀裂が入ってしまった後こんな目に合わされて。
色々やってみても駄目だったから――絶望して諦めたのかも知れない。
だって。何だか今すごく楽だもの。黒の魔力溜まってるはずなのに。絶望したら、諦めたらこんなに楽になるだなんて。
ペイシュヴァルツは私に教えてくれようとしたのかな?
このままだとセラヴィさんと同じ目に合うぞって。
――危ないと感じた時は刺激せずにやり過ごして、隙を見て逃げてください――
――引き所を見極めなければ取り返しの付かない事になりますぞ? あの方には力がある。貴方の精神など簡単に握り潰せる――
周りが皆心配してくれていたのに。我を通しすぎた私が愚かすぎて涙が出る。
何で涙だけ勝手に出るんだろう。もう私ここに来て1リットル位涙流してるんじゃないだろうか?
涙――地球にいた時はずっと、我慢してきたのにな。だって私が泣いたら皆心配するから。
でもここには私の事を心配する人なんていない。なら涙を流したっていいんじゃない?
「私に言いたい事があるならはっきり言え……!! 気に入らない事があるなら、ちゃんと言葉に出せ!!」
私が勝手に傷付いてるだけなのに貴方は怒る。本当に理不尽すぎて涙しか出ない。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい。
貴方が待ち望んだ女性がこんな疫病神で――ごめんなさい。
優しくて穏やかで清純で可愛くて美人で儚げででも芯が通った素敵な人――そんな女性が召喚されたら良かったのにね。
私が喋れば貴方を、皆をイラつかせ、私が動けば貴方が、皆が困る。
私が伝えたかった事なんて何一つ伝わらない。傷付くことすら許されない。
それならもう、何もせず、何も言わず。ただ子どもを宿して産んで捨てられるのを待つだけでいよう。
この人に捨てられるその時まで、私は、私でいるのをやめよう。
ああ、私って本当に……可愛くない。
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