第130話 白の葛藤(※クラウス視点)
アスカ達が帰っていくのを廊下の窓から見据える。またエレンが絡んでる。アスカが怒ってる――もう、どうでもいいけど。
「ソフィア……アスカはテレパシーで何て言ってたの?」
チラ、と振り返るとソフィアは少し顔を俯かせて頭を押さえながら呟く。
「……禍々しい感じがして、何を言ってるか分からなかったわ」
「そう……まあ餌付けなんて汚い事する位だし、聞こえなくて良かったのかもしれないね」
想像してしまって一気に頭が熱くなってしまった程の感情の高ぶりを繰り返さないように首を横に振る。
(触れられないように頑張って、って言ったのに……自分から触れにいく真似するとか……理解できない)
一節も黒の公爵の元にいて全くの無事でいられるとは思ってなかったけど、まさかたった1週間ですっかり黒に染まるなんて――
洗脳されたような形跡はなかった。あの真っ黒な服を着たのも、お揃いのブローチを付けずに来たのも、黒の魔力を使ったのも――全部アスカの意思だ。
その上、ダグラスといかに仲が良いか聞かされただけでも限界に近かったのに――黒の家臣に母様まで馬鹿にされた時、もう、言葉を止められなかった。
でも、アスカはあの家臣を止めてたな――って黒馬車が動き出した時に思い出したけど、それももうどうでも良かった。
「餌付け、ですか……私にはどうしてもアスカ様が人の手に乗った食べ物を口にするような方だとは思えないのですが……」
「そういう性癖だったんでしょ……」
窓に打ち付ける雨がどんどん激しくなっていく中、リチャードの呟きに力無く返す。
ダグラスに、そんな事を積極的に提案するなんて汚らわしい。そんな人だと思わなかった。
そんな積極的にしたかったのなら、何で僕には提案してくれなかったのか――
「そういう秘すべき性癖をこんな所で暴露されてしまう事自体、おかしい気が……」
「リチャード、あまりクラウスの傷を抉るような真似をしないで」
リチャードの声を制するようにソフィアが声を上げる。今はこの付かず離れずなカップルを見てるだけで心が痛む。
僕も、数時間前までアスカとそんな風に近づいて笑いあえるような関係だったはずなのに。
「……あいつに心変わりした事を言い出しづらかっただけじゃないの? 僕が命かけてるの分かってるのに地球に帰りたくなくなった、なんてまともな精神じゃ言えないもんね」
アスカが穢れてしまった事を認めたくないのに。心を抉って紡ぎだす言葉が、痛い。
「うーん……アスカ様って真っ直ぐと言うか、お人好しと言うか……性癖はともかく、自分の保身の為に他人を使うような人じゃないと思うんですよね……」
他の男がアスカを語る事に酷い嫌悪感を覚える。嫌だ。他の男がアスカを理解している事が、たまらなく嫌だ。
アスカの事は、僕だけが理解していれば良かったのに。
(アスカの味方は、僕だけで良かったのに……)
目の前の騎士はアスカが地球に帰りたい事も、その為にこれまでどんな事をしていたかも、知ってる。
ここに来る前にソフィアが打ち明けたらしいけど――確かにそうしてくれた方がやりやすい面もあるけれど――何だろう、すごく、面白くない。
ソフィアの事が好きならソフィアの事だけ気にしていればいいのに。
「クラウス様、冷静に考えてみませんか? アスカ様には何かきっと事情が」
「君、アスカの事が好きなの……? そこまでアスカの事気にかけたら、ソフィアが妬くよ?」
「いえ、そういう感情は全くないのですが……あ、ソフィア様!」
僕の言葉を聞いたソフィアが去っていくのを慌てて追いかけていく。そうだよ、他に好きな人がいるんだから、アスカに目を向けないでよ。
嫌だ。他の男からアスカの名前が出てくるのが。
他に好きな女がいようがいまいが男からアスカの名が紡がれるのが嫌だ。アスカが、僕以外の男の名前を呼ぶのも嫌なのに。
まして黒の髪の、黒い衣服を身にまとう男がアスカの名を呼び、アスカもまた彼の名を呼ぶなんて――想像しただけで虫唾が走る。
黒の服を纏って、黒の魔力を使って――黒に染まりきってしまったアスカ。
まだ一週間しか経っていないのに僕を蔑ろにした、アスカ。
彼女と過ごした全ての想い出が、黒に歪められていく。
やめてよ。母様を奪った上にアスカまで奪って――その上僕の想い出まで汚していかないでよ。
大切な人が僕を置いて去っていく経験なんてもう二度としたくなかったのに。
別れるならせめて笑顔で別れたいから――今までずっと我慢してきたのに。
フラついた足で純白の部屋に戻るとソフィアが嫌がった一面の純白が僕を迎え入れてくれる。
僕もこの部屋はあまり好きではないけれど――傷ついた今の僕には不思議とこの部屋が馴染んだ。
大きなベッドに寝転がり、ペンダントのチャームを開く。そこに納まったメイド服姿のアスカはとても可愛らしい。
「フルルル……」
テーブルに乗った毛皮のひざ掛けの上で、寂しそうに泣く薄灰の鳩。
「ねぇ、ラインヴァイス……アスカと喧嘩したよ……アスカにとって僕は、何だったのかな……? ダグラスと汚い事する時、僕の事思い出してくれなかったのかな……?」
「クルル……」
「……お前の名前がピィちゃんのままだったら、今の鳴き声聞いたらどう思うのかな……」
「フルルル……」
「ねぇ……灰色の雛が薄灰の鳩になったよ……アスカ……」
余計な人間が来なかったら、見せてあげたかったのに。
アスカは何て言ったかな? 喜んでくれたのかな?
『敷物のお陰ね!』って喜ぶアスカの笑顔を見たかったのに。
「アスカ、本当にダグラスの事が好きになっちゃったのかなぁ……」
心で思った事がそのまま涙を伴って外へと紡がれる。
あの時――皇城のアスカの部屋で、私の事好きなのかと聞かれて。
自分の中にある好意をアスカに知られたら、アスカが離れていってしまう――そう思って勘違いだと咄嗟に言ってしまった事。
でもそのお陰でアスカとの距離がずっと近づいた事。友情だからこその接し方が、とても心地よかった事。
その先を求めたい気持ちは日に日に増していったけれど、離れていってしまう事が辛くて。
どの道この世界でアスカをまともに守る事が出来ない以上、別れた後にお互いに良い想い出にできる今の関係が一番良いんだと――そう思うようにしていたのに。
アスカが離れてしまった今は後悔しかない。
もし、最初から正直に好意を明かしていたら、ダグラスに奪われる事は無かったかもしれない。
それだけじゃない。エレンに痛めつけられて悔し涙を流していた時に抱き締めていれば。
ブローチを渡す時、友人としての意味でお揃いにした訳じゃないと言えていれば。
露天巡りした後の馬車の中で、この想いを伝えられていれば――
アスカと離れたくなくて飲み込んできた言葉が、喉の奥を震わせる。その感覚がどうにも辛くて、体の外に開放する。
「アスカ、好きだよ……好きだ……愛してるんだ……」
言えなかった言葉は何の意味もなさない。だけど言わずにはいられない。
もう体の中に、心の中にとどめておくにはあまりにも痛くて苦しくて。
空に出した言葉の分だけ楽になるけれど、また心の中でその感情が膨れ上がって、苦しくて、言葉にして吐き出すのを繰り返すうちに、薄闇の眠りに落ちていった。
日付けが変わる頃に目覚めてぼんやりと天井を見上げる。
ようやく落ち着きを取り戻した頭で思いだすのはアスカが怒っていた事。
黒の家臣に母様を馬鹿にされた時――アスカが怒ってくれていた事。
冷静になって思い返せばそれは全然どうでもいい事じゃなかった。
黒の服を纏っていても、黒の婚約リボンをしていても、黒の魔力を使っていても、アスカは僕の為に怒ってくれていた。
それに――仲良くしているという割にはアスカの中に黒の魔力は殆ど溜まっていなかった。
愛を交わしたというなら、餌付けで手と口が触れるような行為をしていたというなら、最後に会った時よりずっと黒の魔力が溜まっている筈なのに。
あの黒の家臣とアスカが纏う黒の衣服に惑わされてしまったけど、冷静に考えればリチャードが言う通り、確かにおかしい。
そう思って<もう一度会って話がしたい>と綴った手紙を夜勤の騎士に手渡しに行った後、純白の部屋の前にある窓によりかかり夜が明けていくのを眺める。
青白い星の光が一切届かない嵐の闇夜がゆっくり、ゆっくりと鈍い明るみを帯びていく。
さっき馬に乗った人間が門から入ってきたが、僕が待ち望む一番嫌いな色の馬車は来る気配もない。
暗い感情が沸き渦巻く中で、それでもこの場から動けない。この暴風雨の中彼女が来るとも、来させるとも思えない。
部屋に戻った方が良いのは分かっている。だけど、足も顔も動かない。
「クラウス」
呼びかけてくる彼女の声が心地よいと思ったのは、いつまでだっただろう? 今はもうその声が忌々しくすらある。
「さっさと部屋に戻って横になった方が良い。もう立っているのも辛いだろう?」
エレンには直接婚約破棄を突きつけたはずなのに平気な顔で変わらず世話を焼こうとしてくる。それが酷く煩わしい。
僕がもっと早くエレンを見限っていたら、他人になれていたら。エレンがアスカに絡む事もなかったはず。
アスカがあんな悔しそうに涙を流す事なんてなかったのに。
「……何の用?」
「そう厳しい顔を向けるな。手紙を届けに来ただけだ」
この場を去らないエレンに用があるのなら早く言うように促すと、ヒラ、と手の指に挟んだ白い封筒を見せつけてくる。
「手紙……アスカから!?」
「違う。皇家からだ」
そう言って渡されたのは半透明な封蝋が施された封筒。急な案件かも知れないし早々に目は通さなくてはいけない。だけど――足が動かない。
「お前、今朝早く手紙を出したらしいが……そんなにあの女の事が気にかかるのか?」
いちいちいちいち、僕の行動を監視しては苦言を呈してくる。それを心配してくれているのだと思っていた時もあった。今はただただ、うるさい。
「エレンこそ、そんなに僕の事が気にかかるの?」
「……元婚約者として気遣っただけだ」
「戯言を……お互い、そういう感情は無かっただろ?」
今まで一度だって、エレンからその関係を口に出した事無かったのに。
「……私にはなかったな」
「まるで僕にはあったみたいな言い方をする」
「……悪かったとは思っている。だが今も昔も私にとってお前は世話の焼ける弟でしかない」
エレンに対して抱いていた淡い感情はこうやって振り回されて冷やされていくうちに諦めた――いや、諦めていたと言うべきだろうか。
僕の状態を把握している人間が傍にいた方が良い――そういう理由では騎士団長の娘であるエレンは最適な存在だった。
親同士が決めた婚約。政略でも恋愛でもない、ただ僕を見守り僕の抱える闇を周囲に知られない為だけの婚約。
そんな関係でも何だかんだ世話を焼いてくれるエレンが心地よくて婚約状態を拒絶しないでいた僕自身、幼い頃の初恋を引き摺っていたのかもしれない。でも――
「僕は、弟が大事にしてる物を徹底的に壊しにかかるような凶悪な姉なんていらない……そんな家族、いらない」
「あの女だってお前が大切にしていた物を壊したんじゃないのか? それなのにあの女が来るのを待ってるのか?」
「アスカは、何も壊してない……!」
黒を纏っていても、黒の魔力を使っていても、アスカは黒の家臣を止めようとしていた。
黒という色に翻弄されて、勝手に嫉妬して関係を壊したのは――僕の方だ。
だけどそれをエレンの前で言っても仕方がない。窓の向こうを見据え直すと、エレンから深い溜息が漏れる。
「ソフィアから聞いたが……お前『男に穢された女なんていらない』なんて辛辣な言葉を吐いておいてまだあの女がお前に近づいてくると思ってるのか?」
「思ってないから手紙を出したんだ! 僕が……僕がアスカを傷つけてしまった事位分かってるさ……!!」
感情のままに叫ぶ言葉はあらゆるものを傷つけるのだとアスカは教えてくれたのに。僕はまたそれを繰り返してアスカを傷つけてしまった。
最後に見たアスカは凄く悲しそうな顔をしていた。そして僕を<クラウス卿>と言った。
思い出したくない彼女の表情が、声が、罪悪感を伴って容赦なく僕の心を締め付ける。
彼女がもう僕を見限っていたらもう仲直りできないかもしれない。だけど、このまま終わってしまうのは嫌だ。せめて、僕が後悔している事だけでも知ってくれたら――
「あの女の事はもう諦めろ……黒の公爵があの女に執心でお前と共有するつもりが無くなったのなら好都合じゃないか。あの女が黒の公爵と子を成せば10年後に召喚されるツインのツヴェルフは正真正銘、お前だけのツヴェルフになる……黒の公爵と共有せずに済んで良かったじゃないか」
「良くない!!」
体中の怒りを込めて叫んだそれは、恐ろしい位の声が出た。だけどエレンは怯まない。少し眉をひそめて、重いため息をつく。
「他の男に……まして黒に穢されたあの女で本当に良いのか? 愛が無い、あるいは全てを包み込む程の愛があるならともかく、中途半端な感情であの女に関わると傷つくだけだぞ? あの女が黒の公爵と幸せに過ごすなら、お前の存在こそいらな……」
まるで、僕の中にあるこの感情が中途半端な物だと言わんばかりのエレンの言葉に耐えきれず、逃げるように純白の部屋に入り皇家からの手紙を乱雑に開く。
昨日のやり取りを知ったらしい皇家から『それでも彼女達の転送を希望するのか?』という確認の手紙だった。
皇家がツヴェルフの転送に乗り気じゃない事は分かっているけど――ああ、もう何もかも煩わしい。
だけど、ソフィアとユーリを地球に帰す――それはアスカと約束した事。絶対に守らなきゃいけない。
これ以上アスカを失望させたくないし、もしかしたらアスカも来るかもしれない。道を残しておかないとアスカが困る。
意思は変わらない旨を便箋にしたためて封をすると、残った便箋と封筒が視界に入る。
あの家臣は僕に強い敵意を抱いていた。アスカ宛てに送った手紙は燃やされているかもしれない。
(駄目だ……手紙を送るならダグラスにも送らないと)
元々はアスカがマナアレルギーを起こさないように、白の魔力を注げとあれだけしつこく手紙を送ってきたのだから、白の魔力を提供する事自体はダグラスにとっても悪い話じゃないはず。
白の魔力を提供する事はつまり――アスカと接触する事につながる。
それに、黒の魔力が注がれてないのはまだダグラス自身が積極的にアスカと接触しようと思ってない、とも取れる。
(……アスカの声が聞きたい。アスカの本心が聞きたい)
アスカが本当にダグラスに惹かれているなら諦めるしか、ない、けど。でもそう結論付けるにはあまりに状況がおかしい。
ハッキリしない今の状況が、酷く、苦しい。
綴った手紙に白の封蝋をしてメイドに渡し、また深い眠りについた。
「アスカ様の様子……見てきましょうか?」
リチャードがそう言ったのは、手紙を送ってから数日後――まだアスカからもダグラスからも返信が来ず、午前中ずっと純白の部屋の前で立ち尽していた時だった。
「リチャード、どうして……!?」
リチャードの提案に僕以上にソフィアが驚いている。
「クラウス様が行っても恐らくあの家臣に門前払いされるでしょうが、私とソフィア様だけなら会わせてもらえると思います」
「どうして……? やっぱり君、アスカが好きなの……!?」
僕の言葉に、リチャードは静かに首を横に振る。
「アスカ様が、というより……ここ数日クラウス様もソフィア様も元気が無い事が心配で……アスカ様があの館で過ごす様子をこっそり見に行ってお辛そうなら助ける方向で動けばいいですし、幸せそうなら色々スッキリするのでは、と」
「こっそりって……事前連絡もせずに公爵家に入れると思ってるの?」
家の主自ら人を引き入れるならまだしも、他人が簡単に入ってこれるほど有力貴族の家の警備は甘くはない。公爵家なら尚更だ。
「ソフィア様はアスカ様の友人ですし、僕もセレンディバイト公と全く繋がりが無い訳ではないので……1回位なら、突然の訪問も許してくれると思います」
穏やかな表情のリチャードの提案に渋い顔をするソフィアが気にかかるけど、アスカの気持ちが分かるなら――今の僕の感情にケジメをつけられるなら――託すしかない。
まだアスカが地球に帰りたいと思ってるなら――その手を取るのは、僕でありたい。
ああ、どうか――アスカが黒に心を奪われていませんように。
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