3 這い出る影
活気だった街は、非日常に包まれていた。
鳴り響く音楽、食欲を唆る肉の匂い。ミュージックホールで今年流行の曲が其処彼処で流れている。祭りに合わせて旅の一座も街にやって来て、曲芸を披露しているのが見える。子供達も思い思いの衣装で街を練り歩いていた。
十一歳から暮らして来たこの街で毎年繰り広げられる景色。
決して贅沢の出来る生活ではなかったけれど、命の危機に怯えることのない平穏な毎日を、私は何よりも愛していた。子供達に囲まれ、これからも彼らの成長をシスターと共に見守っていけるのならどれほど幸せか。
でも、時々立ち止まって考え込むことがある。
私は老いさらばえるまで、この街で此の儘の生活を送ってゆくのだろうか。
夢を抱くことを許されるようになって、我武者羅に勉学に励んだ。
爆撃機から落とされる爆弾に怯える日々がカストピアでの日常であったというのに、読み書きすら出来ない孤独な親無し子だった私は、今となっては遥か昔のことのようだ。
母は穏やかで笑顔を絶やさない人だった。仕事で月に数えるほどしか家に帰らない父に文句ひとつ垂れることなく、日々家を守っていた。絵に描いたような良妻賢母だったと思う。そんな大好きな母は空襲で肌も髪も焼かれ、苦しんで死んだ。
母の死を知ったときの父は、人目も憚らず泣いた。結局それも数刻のことで、すぐに父はカメラを手に戦場へと戻って行った。
思えば、父が泣くのを見るのはそれが最初で最後だったと思う。
戦場カメラマンだった父は、戦火の中でも自分の仕事に生きようとした。父の最後の記憶は、破壊されて瓦礫の山と化した街でカメラを構えたまま、川へと私を突き落とす顔だ。その頭上には、まるで槍のように無数に降り注いでくる爆弾が見えた。無意識のうちに伸ばした手は届かず、私一人だけが安全な水の中へと逃げおおせたのだ。
背中から突き落とされ、川の中から見上げた私の前に広がったのは目を焼くかのように明るい炎と瓦礫で、急いで水面から顔を出そうと足掻いても、水流の激しさの前に子供の力など無力だった。
せせらぎと呼べるまでに穏やかになった下流の川縁に流れ着いた私は日が暮れるまで呆然としていて、意識が覚醒した時には無数の小石に手を叩きつけて慟哭した。
それは優しく、いつもそばにいてくれた母の死への絶望からくるものが殆どで、父にとっては間違いなく軍人に並ぶ「殉死」であっただろうと子供乍らに悟った。
悲しくなかったわけではない。でも、戦場カメラマンだった彼にとってはある意味で幸せな形の死だったのではないかと思ったのだ。
そして、私は孤児となった。
しかし難民となってオガールへとやってきて、衣食住に困らぬ極平凡な「普通の暮らし」を送れている今、私は有難くも生き方を選べる立場にいる。
世間様は取り柄の無いしがない小娘など、早々に嫁いで家を守るか、御屋敷に奉公に出てしまえと宣う。それが一つの幸せの形であることはわかっていた。
女性の社会進出が目立ち始めた激動の時代の中でも、難民が他国で職を得ることは難しい。だからこそ、身を固めることは安定した生活を得る手っ取り早い方法であることは間違いなかったし、何よりもオガールにきてから母親代わりに私を育ててくれたマザーを安心させてあげたかった。
最近頻りに
孤児院を出て自分で生活を立て始めてからというもの、養われていた時には想像もつかなかった苦労が身に沁みるものだ。結婚以外の道を模索し、足を止めて考えることは数え切れない程有った。しかしそれでも今の生活を手放してまで進む必要のある道は、どうにも闇に紛れて自分の前には開けて来ない。大人しく、なるように任せてみるべきなのだろうか。
だが見えずに前進出来ないだけで、間違いなく自分の前にはあるのだ。
その道が。
太く、舗装されている道なのか、将又枝分かれして荒れた別の道なのかはまだわからない。わかる日も、いつになるのか今の自分には見当もつかなかった。
まだまだ青臭い街娘だ。私は今日もその道を光で照らすことは出来ないようだと自嘲が溢れる。腕に抱いた今日の昼食のパンを抱えて裏道に入ったその時だった。
「痛てっ。気をつけろ!」
「あ、すみません。」
出会い頭に丁度角を曲がってきた男性とぶつかってしまう。そしてその拍子に、鞄から何かが零れ落ちた。男性が腰を曲げ、地面へ手を伸ばす。
「ごめんなさい、拾って頂いて…。」
落としたのは学生証と、難民証明書だった。自分にとっては、オガールでの平穏な暮らしを保証してくれる大事な物だ。まだ肩に残る鈍い痛みに顔を歪めながらも親切に拾ってくれた男性へ頭を下げた。しかし。
「お前、カストピアの難民か。」
男性の発したその声は背筋が凍るほど冷たかった。
「は…?」
であればなんだと云うのか。何とも云えない違和感に襲われて男性の顔を見た。
昼間であっても日光の差し込まない薄暗い裏道で目を凝らすと、彼の後ろで襤褸を纏った兵士風の男達が3、4人息荒く屯しているのが目に入った。祭りの日に不釣り合いの彼らは私の姿を視界に捉えると不気味に口角を上げ、ゆらりと此方の方へと向き直る。
限りなく嫌な予感、否寧ろ自らの本能が確実に危険信号を鳴らしている。大通りへ戻ろうと彼らに背を向けたのが仇だった。
頭がガクンと引かれ、転倒しそうになるのを踏ん張って堪える。耳元近くに男の生ぬるい息遣いを感じて恐怖に背筋が仰け反る。髪を掴まれたと理解するのに数秒かかった。
「痛い!離して!」
怖い。恐い。痛みに顔を歪めながらも両手で男の手をひっ掴み抵抗の意を示すと、今度は右頬に走る衝撃。口一杯に鉄の味が広がり、鈍い痛みが後から熱を伴って襲って来た。殴られたのだ。
「大人しくしろ。殺すぞ女。」
組み敷かれて口を塞がれ、酸欠から視界が揺れる。頭がガンガンする。
どうして。何故私がこんな目に。
この男達は何をしようとしているのかわからなかった、否わかりたくもなかったが、間違いないのは彼らは人を殺すことに躊躇がないことだ。
「んん…っ!」
不図、電流が走ったかのような既視感に襲われた。何だこれは。心臓が脈打つ。息が早い。過呼吸寸前になりながらも脳へと意識を集中させる。
彼らの纏っている襤褸。何処かで見たことのあるものだった。色褪せた外套の下に覗く煤けた釦。元々は濃緑だったと思しき重厚な生地。
まさか。まさか。
そんなはずはない、そんなはずであってはいけないと思いたかった。
しかし、越境規制の張られていないオガール。「奴等」である可能性は十分過ぎる程だった。私は恐怖で目を見開きながら、涙で滲む視界を瞬きを繰り返して開かせようと必死だったが、胸元に覗く汚れた紋章が目に入った瞬間、喉の奥が詰まった気がした。
それは、十年前に見た、忌まわしいモノだった。
赤い空を覆う黒い悪魔の機体にも、街で子供に銃を向ける奴等の胸にもあったモノ。胸を覆っていくドス黒い感情。両親を焼いた、悪魔に違いなかった。
「…リス、ベニア兵、…っ」
そうだ。悪魔の鳥があしらわれた紋章を忘れる筈がなかったのだ。
彼らは我が祖国を土足で汚し、血で汚したリスベニア兵だったのだから。
「あく、ま…呪われろ!あんた達…なんか、あんた達なんか死ねばいい!地獄に落ちろこの…っ人殺し!」
塞がれていた口から手が離れたその刹那、次々と出てくる憎しみの言葉。
子供達の顔など頭の中からすっかりなくなっていた。命の危機さえも感じなくなって、目を剥いて彼らを罵倒した。自分が、自分ではなかった。
そんな私の様子を見て、男は口角を下品に引き上げた。
「いいねぇ。お前みたいな呑気そうな女見てると縊り殺したくなるんだよ。」
虫唾が走るような、女を品定めする男の顔。何故かその目には明らかな憎しみも見え隠れする。
私がこいつに何をしたと云うのか。
殺してやりたいのはこちらの方だと云う怒りが頭を支配しながらも、私は自分の置かれた状況を思い出して再び喉の奥が詰まった。
いや、それは怒りだけが理由ではなかった。気がつけば彼の無骨な黒々とした手は私の首へと下り、少しずつ力を入れ始めたのだ。
「難民の癖に小綺麗な格好しやがって…いい身分じゃねぇか。本当に世の中は不条理だよなぁ…不公平だよなぁ。」
「ぐ…っ、うぅ…!」
何を言っているのか。とてもじゃないが彼の言葉の意味するところを理解出来る程、冷静にはなれなかった。
どうしたらいい。
音楽にかき消されて助けも呼べない。
誰もいない。
武器も持っていない。
しかもこの状況。殺されない方がどうかしている。男が振り上げた右手。その右手に握られていた何かがサバイバルナイフだということは、すぐにわかった。
なんて馬鹿なのだろう。
自分はいいお笑い種だ。親を犠牲にして生き長らえた我が身が、戦後十年を経て在ろうことか異国の地で潰えようとしているのだから。
よりによってリスベニア兵の残党によって。
「かは…っ、やめ、て…っ助け…っ」
非力だ。非情過ぎる。男に組み敷かれ、殴られ、首を絞められている自分がひどく情けなかった。しかも目の前に掲げられている手が振り下ろされるたったそれだけで一生が弾け飛ぶのだ。
「お前はここで死ぬんだよ。馬鹿な女だぜ。」
悔しい。
何故私なのか。
私でなければいけなかったのか。
自分の人生の結末が此れ程迄に下らないものになろうとは露程にも思わなかった。
全ての終焉を覚悟したその時、一筋の涙を置き土産に、私は静かに目を閉じた。
衝撃に、備える。
その時だった。
衝撃音と同時に、一気に自分の身体が軽くなるのを感じた。空気を劈く程の音で、身体が大きく震える。恐怖で目が開けられない。
何?今度は何が来るの?崩れ落ちそうな我が身を必死に支え、後退る。
耳に入って来るのは、先程の男達の雄叫びと、刃物がぶつかり合う鈍い音。私が座り込む石畳から伝わって来る振動。人が投げ飛ばされたのだろうか、地面に内臓が叩きつけられる衝撃に耐えられずに発せられた潰れた声も私の目と鼻の先で聞こえた。
ほんの数十秒の出来事だった。
その筈なのに、時の流れが止まっていた気がした。
私は、舞い上がった埃に軽く咳き込み乍らもゆっくりと立ち上がり、固く貝のように閉ざしていた目をゆっくりとあげた。
「あんた、街の娘か。」
そこには、武装した若い男女が五人。そして地面に呻きながら倒れるリスベニア兵たちだった。
誰一人重ならない、こちらを見遣る綺麗な目の色。暗い路地にいても、それはよくわかった。
一人の銀髪の男性が外套の襟を正しながら私に問う。なんて耳障りのいいテノールなのだろう。私よりも少し年上だろうか。髪と同じ透明感のある銀色の目は私と同じだ。微かに風が吹いて、風下にいた私の方へ香ってきたのはどこか懐かしい匂いだった。
応えずに呆けている私を見て、「大丈夫かいご婦人。」ダークブラウンの髪を持つ男性がこちらに近づき、「あなた怪我してない?」豊かな黒髪の女性も心配そうにこちらを見つめていた。「おい。」先程の銀髪の男性が、眉間に皺を寄せたのがわかった。
「聞こえてるのかお前。」
眼光がなんと鋭いことか。自分の身体が一回り以上小さくなったような錯覚さえ覚える。
「ご、ごめんなさい…。」
じわりと滲む視界。ギョッとする彼ら。私は今日何度泣けば気が済むのだろう。
「一般人なんだから仕方ねェだろォ。凄むんじゃねェ。悪ィな姉ちゃん。」金髪のお兄さんがまるで子供をあやすかのように、私の栗毛をくしゃっと撫でる。
…う。温かい。
今日一の安心感に包まれて更に私の涙を誘う。
「こちらどうぞ。落ち着いてください。」涙で濡れる目元に当てられた、ハンカチの柔らかい感触。主は優しく笑う中性的な少年だった。年はおそらく私よりも年下だろう。
「本当にごめんなさいね。あなた本当に大丈夫?」
「だい、丈夫です…。危ないところを助けて頂き本当にありがとうございました。」
ずび、と鼻を鳴らしながら深々と頭を下げる。漸く状況把握が追いついたようだった。
銀髪の彼はふむ、と顎に手を当て、地面に目を向けたかと思うと何かに気付いたのか、腰を曲げて薄汚れた小さな包みを拾う。
「これあんたのか?」
「え?…あ!す、すみません。嗚呼、私のパンが…。」
マザーに頂いた今日のお昼「だった」もの。
男たちに踏まれたせいで、中身は派手に溢れてしまっていた。はぁ…と小さな溜息をついてしまう。私の様子を見た女性が、察したように私に声をかけた。
「ねぇ、お昼まだなんでしょう?私達もこれからなのよ。よければ一緒にどうかしら?」
ニッコリと柔らかく笑いながら「おい勝手に…」と不機嫌な男性を片手で制す。
「殺されかけたんだもの。誰かと一緒にいて気持ちを落ち着かせた方がいいでしょう。」
「え、でも」
確かにこの状況で一人で家に戻るのは精神的に辛いものがある。命の恩人である彼らと一緒にいられるのであればこれ以上心強いことはないが、見た所この集団で決定権を持っていそうな銀髪の彼の様子だと恐らく自分は厄介者のはず。二つ返事でハイ喜んでとは到底言えそうにない。一緒にいてもしこれ以上の厄介ごとを持ち込むようなことがあれば、彼のご機嫌は急落直下してしまうだろう。
「あの、大変ありがたいのですが、これ以上お会いしたばかりの方々にご迷惑をお掛けするわけにはいきませんので…。」やんわりと断る他ないだろう。
「それなら、むしろ協力して貰えないだろうか。君に尋ねたいことがあるのだよ。それなら君も気負わず私達と共にテーブルにつくことができるだろう?」
協力?
小娘の私が武装した彼らを相手に一体何ができるのか。決めあぐねている私を見兼ねたのか、隣から聞こえてきたのは「好きにしろ。」と溜息交じりの声だった。
しかし、私は確かにその声に安心を覚えたのだった。
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