水中花

文月瑞姫

二年くらい前

 二年くらい前、私には好きな人がいた。太陽の生まれ変わりみたいに陽気で、いつでも私の手を引いてくれるような、そんな男の子。本名はもう覚えてないけど、名前のどこかに水の字が入っていたっけ。

 最初は興味なんかなかった。教室の後ろで女子とばっかり話す軽い男。彼が私の小説をいくら褒めようとも、何かナンパの類だと思って無視した。顔が良いだけの存在、需要なんて顔しかない。嫌い、嫌いって叫んでた。


 その嫌悪が好奇に変わったのは、彼がネットの小説賞で受賞したと聞いた時。え、何、小説なんか書くの? って声を掛けちゃったんだ。どうせ大したことない作品だろうって思ってたのに、作品も私好みだった。女を食うための口からこんな美しい言葉が生まれるんだって思うと余計に悔しくて、意地でも褒めてやらないと決心した。


「花さんって今月の賞に出すんだよね」

「そんなこと言ってません」

「前に花さんから聞いたよ。僕もその賞に出すから怖いや」


 何が怖いんだ。私の作品なんてほとんど読んでないくせに、何故か上手い上手いって褒められる。しかも同じ賞に出すなんてやめてほしい。彼から二キロメートル離れるつもりで廊下に出て、校内を一周して戻ってきた。

 私は今絶賛スランプ、放課後の教室でずっと書いてもろくなものが書けない。


「今、何書いてるの?」


 彼は隣の席で見ていた。なんで? さも当然のように、教室で二人。それは恋愛の場面でしか許されないはずが、こいつは顔が良いから許されてきたのだろう。百歩譲って顔を許すとしても、せめて美術室の彫刻みたいに物言わないでほしい。


「何も書いてないです」

「そっか。もう暗くなるし一緒に帰らない?」


 言われてみれば完全下校が近い。どうせこのまま書いても落ち葉で作ったモザイクアートみたいなものしかできないだろう。


「帰りますけど、一人で帰ります」

「家まで送るよ。可愛い子を放っておけない」

「はあ?」


 私がもう少し恋愛経験に恵まれていれば、そんな言葉で頬を緩めることなんてなかった。彼くらいとは言わないから、せめて可愛いなんて言葉を言われ慣れてみたかった。荷物をまとめてカーデガンを着る時、絶対に顔を見せないようにしていた。

 校舎を出ると秋の声。家との間の丘を上るとき、私には月を見る癖があった。しかもこの日は真正面に映える日で、つい口から出てしまったのだ。


「今日は月が綺麗ですね」

「そうだね、死んでも良いくらいだ」


 まるで告白のような言葉だったと気づいて、彼がまるで告白のような言葉を返したと気づいたとき、私は走り去っていた。傘の先で突かれたような痛みが胸を襲う。鼓動がどうしても速くて、息が苦しくて、そして、嘔吐するみたいに小説を書いていた。

 私の初恋だった。頭の中に言葉がいくらでも流れ込んできて、こんな幸せな感情は他にないと思わせてくれた。女たらしを許したわけではない。ただ、彼が見せてくれた一夜の夢を、もう一度見たいと願ってしまった。


「水さんはどんな小説を書くんですか」

「花をテーマにした作品だよ」

「え?」

「花さんじゃないよ、普通の花。それとも花さんを書いた方が良い?」

「やぶさかではないです」


 彼をスイと呼ぶようになったのは、彼がそう呼んでほしいと言ってきたから。他の女は彼を名前で呼んでいたし、私だけが許された呼び名だと思うと得意げになれた。

 彼は私の小説が本当に好きらしくて、この間の作品を読ませてみたら大絶賛してくれた。頭を撫でられるとは思っていなかったけど、彼はそういうことを当たり前のようにする人間。そういうところは嫌い。


「今日の放課後、一緒に書きませんか」

「良いよ。花さんなら」


 私から彼を誘うようになっていた。自然とそうしたいと思えた。恋の力と言えば頭の悪そうな言葉で、もっと綺麗な言葉を探そうとしたが、無理だった。彼はそういう言葉選びに長けているから、こんな風に悩むこともないのだろう。

 彼の書く示唆的な短編はいつも私を書いているように思えたし、事実そうなのだと信じられる。彼は女にこそ困らないが、小説の話ができる相手には困っていて、そこに私だけが寄り添えるのだ。そんな愛おしさを抱きしめるとき、私の心は疼いた。私が小説を書けるのは、この衝動を得たときだけになってしまった。胸の血管が半分消えたような痛みが、私の小説。この痛みが欲しくて、私は彼を求め続けた。


「水さん、今度の休みにお出かけしませんか」

「良いね。行く宛は?」

「ありません。でも、水さんと一緒ならどこでも楽しいです」

「そんなに僕のこと好き?」

「はい」


 そっか、なんて、彼はそれ以上を返してくれない。意地が悪いし、きっと本命の女がいるのだろうとは察していた。私は小説のついでに存在する女で、女という側面での価値なんて、彼にしてみたら何もないのだろう。

 それでも良かった。私の初恋はこんなにも無謀だった。初恋だから、とも言えるだろう。こんなにも夢みたいな時間を楽しんでいられるのは、夢が覚める瞬間に立ち会ったことのない稚拙な人間の特権だ。


 だから、私、あなたが好きです。この胸の痛みをあなたが教えてくれる限り、ずっとあなたに寄り添い続けましょう。なんて、それを本人に言ったか、言ってないか、どっちだっけ。

 あのお出かけの日、彼が私に好きだと言った。途端に、私の中で輝いていた言葉たちが、その日どこかへいなくなってしまった。私の初恋はそんな風に終わって、彼と話すこともなくなってしまった。さようなら、私の大好きだった言葉たち。

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水中花 文月瑞姫 @HumidukiMiduki

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