マスクの神様

美鶏あお

第1話 神様!

 午前八時十五分。

 通学路を歩く俺の視界に、いつものようにセーラー服のよく似合う彼女の姿が現れる。名前は知らない。知っているのは彼女の通う女子高が、この長い土手を挟んで俺の高校とは反対側にあること。あとは、襟元に留めた学年章が俺と同じ一年生だってことだけだ。


(ドキドキがやばいよ。今日こそこの音、聞かれちゃわないかな)


 一歩踏み出すごとに、彼女との距離が縮まるごとに、鼓動が高鳴る。まるで耳のなかにもうひとつ、小さな心臓でもついてるみたいだった。

 世界中で暴れ回ったウイルスが収束し、そろそろ半年が経つ。今やマスクはお洒落アイテムのひとつとして、日本人の生活に定着していた。百貨店や有名アパレルショップの売り場には必ずマスクコーナーがあって、様々な色や柄の商品がところ狭しと並べられていた。

 男も女同様、ピアスやネックレス感覚でつけてる奴がいる。でも、俺はそうじゃなかった。俺にとってマスクは、大事なセーフガードだ。マスクをしていると表情を読まれにくくなるから、周りの視線が前ほど気ならなくなった。誰に話しかけられても気持ちをうまく言葉にできず、みっともないぐらい必死になる自分を人前にさらす恥ずかしさからもずいぶん解放された。


(マスクばんざい! だ)


 おかげで俺はそれまで俯き加減だった顔をジリジリと上向け、いつの頃からか、普通に前を向いて歩けるようになった。もしそうでなければ、毎朝通学路ですれ違う彼女を、同じネイビーブルーの制服を着て登校する女の子たちのなかに見つけることはできなかっただろう。

 一瞬で惹かれたのは、あの目だ。淡いピンク色のマスクから覗く彼女の両瞳は、長い睫毛のせいで余計にくるんと大きく見えた。


 か、可愛い!


 まるで雷に撃たれでもしたように、その言葉に貫かれてしまったが最後、俺の目には彼女の何もかもが可愛く映った。どことなく頼りなさそうに縮こまった両肩も、その両肩の上で二つに分けてまとめられた髪も、手足の細い、痩せ気味の小柄な身体も。笑っても可愛いんだろうな、とか。しゃべってる時もご飯食べてる時もやっぱり可愛いんだろうな、とか。可愛いに違いない妄想は勝手にどんどん膨らんだ。


 彼女との距離━━あと三メートル!


 鼓動が床に打ちつけたピンポン玉さながらに飛び跳ねている。

 彼女にひと目惚れしたのは、雨に濡れた土手が土の匂いにぼんやり煙っていた梅雨の頃。あれから夏が過ぎ、秋を迎える間に、俺はセーラー服の襟元の学年章を読み取ることができるぐらいは、彼女に視線を向けられるようになっていた。目が合ったと思った瞬間も、二度あった。

 でも、それだけだ。すれ違うだけ。今日もきっとそうだろう。俺はマスクの力をもってしても、「おはよう」の一言も声にできずにいた。

 言葉はいつも喉の奥に引っ掛かり、どうしてもうまく出てきてくれない。彼女が相手では越えるべきハードルはさらに高く、険しくなる。おはようのたった一言に、マスクでもごまかしきれないぐらい顔中を赤くしてシドロモドロになる自分を想像するだけで、俺は果てしなく落ち込んだ。

 とうとう彼女がすぐ目の前までやってきた。


「おはよう」


 突然、耳に飛び込んできた聞き覚えのある声に、俺はギョッとして立ちすくんだ。彼女も足を止め、驚いたように俺を見ている。

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