〝ヤツ〟と少女とバスタオル

武部恵☆美

〝ヤツ〟と少女とバスタオル

「あー、気持ちいいなー」


 少女は学校から帰ると、真っ先にシャワーで汗を流していた。

 特に夏場は汗がべったり張り付いて気持ち悪かったから、少しでも早くさっぱりしたかった。

 きゅっと蛇口を閉めてお湯を止める。

 水滴をぽたぽたと垂らしながら脱衣所に出る。

 ふわっふわのバスタオルでさっと体を拭いた後、わしわしと濡れた髪をぬぐう。

 そのとき、ふと視界の中に廊下を横切る黒い影を見てしまった。

 短い悲鳴を上げ、身体を強張らせてしまう。

 背中をなんともいえないむず痒いような、寒気のような、嫌な汗がにじみ出るような感覚が支配する。

 弾力のある肌を、つつっと流れ落ちる水滴。

 肩に掛かるくらいの髪からも、ぽたぽたとしたたっている。

 足拭きマットにじわりとシミが広がった。

 一瞬とはいえ、見てしまったものは仕方がない。

 〝ヤツ〟を放置する訳にもいかない。

 今現在、この家で〝ヤツ〟に対抗できるのは少女しかいなかった。

 こんな時は、共働きで一人っ子な環境を恨むしかない。

 まずいことに少女はいつもの癖で玄関からお風呂に直行していたから、着替えを持ってきていない。

 先ほどまで着ていた制服や下着は、洗濯機の中でぐるぐると回っている。

 とりあえず、バスタオルで身体を覆うことにした。

 〝ヤツ〟が向かったのは、確か廊下の右手だ。

 脱衣所から右手というと、玄関と階段がある。

 階段を上った先には少女の自室があり、着替えはそこにしかない。

 取りに行くには〝ヤツ〟と対決しなければならないようだ。

 となると、まずは武器が必要になってくる。

 少女は、左手のリビングに武器が置いてある事を思い出した。

 〝ヤツ〟が去った方を警戒しつつ、脱衣所から廊下に出る。

 〝ヤツ〟に背を向けないよう、注意してリビングに向かう。

 突き当りの扉を後ろ手で開き、中に入って扉を閉めると思わず安堵の息が漏れた。

 気を取り直して少女は部屋を見渡す。


 ……あった。


 緑色したそれは、通称ジェットといい、毒薬を噴出するタイプだ。

 大型の〝ヤツ〟には、6秒から8秒ほど浴びせればいいと使用方法に書いてある。

 少女は軽く振って毒薬の残量を確認する。

 どうやら十分入っているようだ。

 少女はジェットを構え、ゆっくりとリビングを出ようと扉に手をかけた。

 その時、少女の耳元でけたたましくインターフォンが鳴り響いた。

 二階にいても聞こえるよう、

 最大音量にしていたのが災いした。

 ただでさえ緊張していたところにこの攻撃だ。

 少女は思わず尻餅をついてしまった。

 心臓が跳ね上がる。

 鼓動が加速する。

 カラカラとジェットが床を転がる。

 深呼吸をして壁に手をつきながら、ゆっくりと立ち上がる。


「どちら様ですか。……、はい分かりました、ちょっと待ってて下さい」


 厄介なことに小包が届いてしまった。

 一刻も早く着替えを入手しなければならなくなった。

 そのためには玄関の脇にある階段を上り、自室に行かなくてはいけない。

 しかし、その途中には〝ヤツ〟がいる。

 手っ取り早く母のものを借りようにも、両親の部屋も二階にある。

 下には父のスーツがハンガーに掛けられているだけだ。

 裸にスーツで人前に出る勇気は、少女にはない。

 もちろん、キッチンにあるエプロンも同じだ。

 ジェットを拾い上げ、いつでも噴出できるよう片手に構える。

 気を引き締めて扉を開け、廊下に出る。

 〝ヤツ〟の影は見当たらない。

 ゆっくりと、それでもできるだけ急いで警戒しながらを進める。

 再び脱衣所の前まで来た。

 〝ヤツ〟はこの先に居るはずだ。

 緊張が高まる。

 洗濯機の回る音がするにもかかわらず、心音が聞こえてきそうなほど躍動する心臓。

 ねっとりとした汗が柔肌を濡らす。

 髪からは相変わらず水滴がしたたっている。

 ジェットを握る手が汗で滑る。

 いったん脇に挟み、バスタオルに手のひらをこすりつけてぬぐうと、再び握り締める。

 廊下には〝ヤツ〟の影が見当たらない。

 となると、玄関か階段か。

 先に玄関を確認する。

 階段を上っている時に、後ろから襲われたらひとたまりもない。

 四つん這いになり、靴を一つ一つどけて調べる。

 万が一、靴の中に〝ヤツ〟がいたら……

 そう考えただけで、再び背中が悪寒に襲われた。

 最後の靴を恐る恐る持ち上げる。


「ひっ」


 顔をそむけ、目をつぶって毒薬をたっぷり噴出する。

 ゆっくりと片目を開け、そしてしっかりと両目で見定める。


「な、なんだ。ゴミか」


 それは昨日、少女が階段の上からひっくり返してしまったゴミ箱の中身の一部だった。

 少女はそれが〝ヤツ〟ではなかったことに安堵して、座り込んでしまう。

 胸に手を当てると、普段の倍以上の勢いを感じられる。

 安心してばかりもいられない。

 なぜなら、〝ヤツ〟はまだ健在だからだ。

 少女は気を取り直して立ち上がると、階段を見据えた。

 ここに〝ヤツ〟がいるんだ、と。

 ざっと見上げた範囲に〝ヤツ〟の姿は見えない。

 再び手のひらの汗をぬぐい、バスタオルの端を持って額の汗もぬぐい取る。

 深く息を吸い込み、2階を見上げて覚悟を決める。

 少女は手すりに手を掛け、階段を上が――


 ぷちっ


 踏みしめた足を思わず浮かせてしまう。

 足の裏には嫌な感触。

 まさか、そんな訳ない。

 絶対に違う。

 そんなこと、あるはずがない。

 あってはいけない事態。

 きっと、さっきと同じ片付け損なったゴミ箱の中身だ。

 そう少女は思った。

 いや、願ったと言った方がいいかもしれない。

 そんな少女の願いを乗せ、ゆっくりと足をどかす。

 息をするのも忘れるほど、神経を注ぐ。

 つばを飲み込む音が、異様に大きい。

 手のひらは今まで以上に汗ばんでくる。

 心臓はせわしなく鼓動を繰り返していた。

 そして、足の下にあったものは……


「いーやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

「どうしました!」


 勢いよく玄関が開かれる。


 やばっ、鍵掛けるの忘れてた!


 少女がそう思った時には遅かった。

 反射的に振り向くと、小包を抱えた男性が駆け込んできていた。

 振り向いた拍子にバランスを崩して倒れそうになる。

 手を伸ばして廊下の壁に手をつこうとしたら、肘をぶつけてしまった。

 男性と目が合い、お互いそのまま固まってしまう。

 バスタオル一枚の姿なんて、家族にしか見せたことがなかった。

 それがまさかこんな形で、しかも好きなあの子でもない男性に見られてしまうなんて。


 ぱさっ


「え?」


 一瞬、頭の中が真っ白になる。

 次の瞬間、事態を理解した。

 そして二度目の絶叫。


「し、失礼しまがっ」


 少女は座り込むと、急いでバスタオルで身を隠した。

 玄関には小包を抱えて仰向けに倒れている男性と、ジェット缶が転がっていた。

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〝ヤツ〟と少女とバスタオル 武部恵☆美 @takebee-mi

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