第269話 天秤と軽重

 サリィでは至る所で煙が上がり、爆発が散発していた。悲鳴と叫声がない交ぜとなり、そこが日常ではなく戦場だと告げていた。これを未然に防げなかった事に焦燥感が募り、肌が粟立ち、それでいて身体が芯から熱くなるような、感覚も感性も情緒も不安定になるのが、心の陥穽かんせいに落ちるようでとても怖かった。


「私は塔を立ててくるから、闘技場で落ち合いましょう。それまでに用事を済ませておきなさい」


 こんな時でも冷静なバヨネッタさんは、自分が今何をするべきなのか理解している。そのままサリィの端へと飛んでいくバヨネッタさん。きっとこのサリィ全体を塔で囲うつもりなのだろう。


「僕は伯爵邸を見てくる!」


 一緒にサリィ上空まで来たジェイリスくんは、その声音に動揺を隠さず、飛竜に乗せてくれた竜騎士に頼んで、直ぐ様ベフメ伯爵家別邸に向かった。


「私も家の様子が気になります!」


 後に続くように、ミウラさんが飛んでいく。


 残されたのは、俺と武田さんとアネカネと複数名の竜騎士たち。


「ひとまず商会に向かおう。あそこが落とされたら不味いだろ?」


「そうですね」


 武田さんの提案に、俺は力なく同意する。先程『聖結界』を使い過ぎたためだろうか? 全力疾走後のような倦怠感と靄がかかったような思考の低下を感じる。いや、人と人が、一般人と一般人が殺し合いをしていると言う状況に、身体と脳が拒否感を抱いているのかも知れない。



 幸いな事に商会は無事だった。と言うよりも、周辺住民の避難場所となっていた。商会のある建物に、結界が張られているからだ。何かあった時の為に、オルさんが気を回してくれていたのだ。しかし商会の中にいる住民たちは悲しそうに外を見ていた。外で暴れている住民たちを。


「大丈夫ですか!?」


 飛竜から降りて商会に駆け寄ると、男性社員が一人窓へ駆け寄ってきた。


「社員は全員無事です。ですが……」


 彼が見詰める先は、俺を通り越して、暴れている住民たちを見ていた。窓に反射して、暴れている住民たちと男性社員や店内の人たちが重なる。


「知り合いですか?」


「この界隈の方々には、懇意にさせて頂いておりますから」


 悔しそうに手を握り、歯噛みする男性社員。


「そうですか。ならちょっと待っててください。荒療治だけど」


 そう告げた俺は、暴れている住民たちへと振り返る。武田さんとアネカネ、付いてきてくれた竜騎士たちが、こちらへ住民たちがやってこないように防いでくれている横を、するりとすり抜けて、止められない狂気に支配された住民たちと対峙する。


「うらあッ!!」


 襲い掛かってくる住民たち。武器は包丁やら角材やらレンガやらそんなところだ。だが侮れはしない。全員手袋を付けているからだ。


 ここは魔法が存在する世界だ。だが魔石を加工した、インクや魔道具がなければ一般人は魔法を使えない。だから一般人たちは、必要に迫られた時にいつでも魔法が使えるように、魔石インクで魔法陣の描かれた手袋を常時持ち歩いている。だがそれは、決してこのような場面で使う為ではない。


 俺は住民たちの攻撃を躱しながら、右手に『聖結界』を展開する。そしてそれで住民を殴れば、グジーノの『狂乱』が霧散した。


 続けざまにその場で暴れている住民たちを、どんどん殴っていくと、暴力に慣れていない住民たちは、もんどり打って道路に倒れ込んでいく。


「さあ、今の内にこの人たちを商会の中へ」


 俺の指示で、皆で商会の中へと動けなくなった住民たちを押し込んでいく。商会の中の人たちも運ぶのを手伝おうとしてくれたが、それは危ないのでお断りして、ポーションを渡して、中へ入れた人たちの傷の手当てをお願いした。外にいた人たちは、皆俺が攻撃する前から、互いに傷付け合って傷だらけだったからだ。


「これで、ひとまず周辺で暴れていた人たちは回収出来たかな?」


 商会の中をぐるりと見回すと、まるでテレビで観た震災の避難所のような有り様だった。


「戸田さんは?」


 俺は近くにいた社員に、転移門が使える社員の居場所を尋ねる。


「丁度今、日本に戻っているところなんです。後一時間は戻ってきません」


 タイミング悪いな。転移門こと『超空間転移』もそれなりにレアだ。店に何人も常駐させるのは難しい。ここだけならともかく、他の国にも展開しているので尚の事だ。ここでこの人たちだけでも、俺の転移門で日本に連れて行くべきだろうか? しかしそれをすると、『聖結界』に割く魔力リソースがなくなる。


「あのッ!」


 俺が思考の海に沈んでいると、いきなり声を掛けられてビクッとなり、声の方を振り向けば、女性住民が真剣な表情をしてこちらを見詰めていた。


「何でしょうか?」


「ありがとうございます!」


「え?」


「夫を助けてくださり、ありがとうございます!」


 予想外の言葉だった。俺からしたら同郷の尻拭いだ。礼を言われるなんて思っていなかった。だが事情を知らない彼女からしたら、俺のお陰で彼女の夫が助かった。だから礼を述べるのも当たり前なのかも知れない。だが、それがとても心苦しかった。


「いえ、こちらは当然の事をしたまでですから」


「そんな事ないよ!」


 その声に振り返れば、店のそこここから住民たちがこちらを見ていた。


「ありがとう! お陰で息子を失わずに済んだよ!」 


「ああ! どれだけ感謝してもしきれない! 私の妻と生きて再会出来ただけでも奇跡のようだ!」


「お父さんを助けてくれて、ありがとう!」


「ありがとう!」


「ありがとうございます」


「ありがとうございました!」


 その場が感謝の言葉で包まれる。俺はこんな温かい言葉を受けられる人間じゃないのに。心が温かくなって、涙がこぼれそうだった。


「泣きそうになっているところ悪いけど、ここが無事だと分かったのだから、そろそろ出発しましょう」


 俺が感涙を我慢しているところで、アネカネが冷静に声を掛けてきた。


「行ってしまわれるのですか?」


 先程の女性は、俺がこの場から立ち去るのを不安に思ってか、胸の前で手を握り締めている。いや、女性だけでなく、この商会に逃げ込んだ全員が不安そうな顔だ。


「大丈夫よ。ハルアキは今からこのサリィを正常に戻しに行くんだから。すぐにこんな異常事態改善するわよ」


 俺が言葉に詰まっていたところで、アネカネがそう言って住民たちを諭す。


「流石は神の子だわ!」


「もう安心ね!」


 口々に安堵を漏らす住民たちの中、


「本当に? わたしのお父さんとお母さんにも会える?」


 俺を見上げてそう尋ねてきたのは、小さな女の子だった。


「その子の両親も、今外にいるんです」


 それはキツイな。俺はしゃがんでその子と視線を合わせる。


「ああ、すぐに会えるさ」


 不安そうだった女の子が、少しだけ笑顔になった。


「ああっ!」


 窓を指して女性が声を上げた。皆が窓を振り向くと、新たな住民たちが皆それぞれ武器を持ってこちらへと向かってきていた。


「良かったわね! お父さんもお母さんもまだ生きている!」


 女性が女の子を抱き締める。


「本当に!?」


 そう言って女の子が、女性の腕を振り解いて窓へと駆け寄った次の瞬間だった。いくつもの銃声とともに、外の住民たちの身体が穴だらけにされたのは。


 身体から血を撒き散らし、ゆっくりと倒れていく住民たち。そこに駆け寄るのは、冬季迷彩を着込んだ兵隊たちだった。彼らは何がそんなに楽しいのか、倒した住民たちを踏みつけにして、勝鬨を上げていた。


「ふうううう、はああああ」


 冷静になるには深呼吸が一番だ。俺は深呼吸を続けながら店の扉を開け、住民たちを倒して喜んでいるアンゲルスタの兵隊たちへと近寄っていく。


「アニン」


『良いのか?』


「踏みつけにされている人たちはまだ生きている」


『自分への誓いを破る事になるぞ?』


「お前から、そんな台詞を聞くとは思わなかったよ。…………覚悟は決まっている」


「…………そうか」


 そしてアニンは黒剣へと変化した。



 闘技場で冬のくすんだ空を見上げていると、バヨネッタさんが飛んでくるのが見える。バヨネッタさんは闘技場の中央に立つ俺たちを見付けると、ゆっくりと俺の十メートル程前方に降り立った。


「…………そう」


「何も言ってくれないんですね」


 今の俺は血塗れで、周囲は兵隊たちの死体に溢れ、右手には血を滴らせるアニンの黒剣を握っている。だと言うのに、バヨネッタさんはそんな事を気にも止めず、俺へと近寄ってくる。


「あなたが決心して、自らの意志で実行したのでしょう? ならば私はその全てを受け容れるわ」


「そうですか。…………俺だって、命の天秤と軽重は分かっているつもりです。つもりでした。つもりだっただけです。俺は…………!」


 そこで俺はバヨネッタさんに抱き締められた。


「誰かの為に、何かの為に戦った男が、なんて顔しているのよ」


 そこで何だか分からない感情が溢れ出しした俺は、泣きじゃくる事しか出来なかった。

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