第129話 無間迷宮(中編)
「はっ、はっ、はっ、はっ…………」
歩くと前方に扉が出現する。しかし歩いていても扉との距離は一向に縮まらない。俺たちが歩いた分だけ扉も遠ざかるからだ。
なので走る。ソダル翁がジョンポチ陛下を背負い、俺がディアンチュー嬢を背負い、バンジョーさんが侍女さんを背負い、走って扉に近付いていく。
すると距離がどんどん縮まっていくが、俺たちが走る分、扉が後退する速度が多少早くなっているのか、走っても走っても、全力で走っても、扉にはあと一歩で触れられず、アニンやオルガンを腕にして伸ばしても、それは変わらなかった。
「はあ……、はあ……、はあ……。疲れた」
何時間と走っただろうか? 子供を背負って全力疾走を続けるには限界を迎え、一旦地面に降りてもらう。
「大丈夫ですか?」
と優しいディアンチュー嬢は、俺の為に『空間庫』から水筒を取り出して、中のお茶を飲ませようとしてくれたが、俺はそれはディアンチュー嬢が飲むべき、と辞退して、自分の『空間庫』からペットボトルの水を取り出し、ゴクゴク飲み干す。
それがとても美味しそうに思えたのだろう。ディアンチュー嬢とジョンポチ陛下がごくりと喉を鳴らしながら、こちらを見ていた。
「ただの水ですよ? 飲みますか?」
俺の問いに全力で首を縦に振るう幼い二人。どうしたものか、とソダル翁と侍女さんを見遣ると、
「そうじゃのう、皆疲れたであろうし、そろそろ食事休憩とするかの」
と発案してくれた。
一国の帝と、孫とは言え侯爵家令嬢に、地面に座って食事を摂らせる訳にはいかない。そうは言ってもソダル翁も侍女さんも、まさかこのような状況になるとは想定していなかったらしく、テーブルと椅子の用意はしていなかった。なので俺が提供させて貰った。
折り畳み式の簡易なものだが、ないよりはマシで、そこに白いテーブルクロスをふわっと掛けて、水とクッキーをテーブルに置く。水もクッキーも日本から持ってきたもので、ペットボトルや個包装のクッキーは珍しがられた。
「この透明で柔らかいガラスのビン。便利そうじゃのう。落ちても割れそうにない。どうにか売ってはくれんかの?」
とソダル翁からの相談。
「ペットボトルをですか?」
まさか空のペットボトルを売って欲しいと打診されるとは思わなかった。
「後で良いですか? まさか元将軍に中古品を売る訳にもいきませんし」
「確かにのう。まずはここから脱出するのが先決じゃな」
とソダル翁が見ている先では、バンジョーさんが未だに逃げていく扉に向かってアタックを仕掛けていた。
俺たちも一緒になって走っていたから気付かなかったが、一旦離れて傍から見ていると、その異常さが分かる。
走っているバンジョーさんの速度は一定だが、扉の方がバンジョーさんが近付く程に後退する速度を上げていっているようだ。しかも扉に触れられないギリギリの速度で。良く出来ているし、嫌らしい。カヌスの要塞らしい仕掛けだ。
「まるでアキレスと亀だな」
俺がぽつりと呟いた言葉に、耳聡い陛下が食い付く。
「なんじゃそれは?」
聞いた事のない単語に目をキラキラさせるジョンポチ陛下に、俺は休憩中の小話のつもりで語りだす。
「俺の
「馬鹿にしているのか? 追い越せたに決まっている」
ジョンポチ陛下の答えに、ディアンチュー嬢も侍女さんも、ソダル翁も首肯する。まあ、普通に考えてそうだよね。
「しかしアキレスは追い越す事が出来なかったのです」
「なんだと!? そんな馬鹿な!?」
全員が驚く中、俺はこのパラドックスの説明を始めた。
「アキレスが百歩進んだ時、亀はその十分の一の十歩先にいました。そしてアキレスが更に十歩進んだ時には、亀はその十分の一の一歩先に……、と言う具合に、アキレスがどれだけ進もうと、亀はそのほんの少しだけ先を進んでいるので、追い越す事が出来なかったのです」
「うむむ……」
俺の説明を聞いて悩み込んでしまうジョンポチ陛下やディアンチュー嬢。侍女さんは早々に考えるのを放棄したのか、水をジョンポチ陛下やディアンチュー嬢のカップに注いでいる。
「だが、実際には亀はあっという間にその英雄に追い越されているはずで、だがハルアキの言った事に間違っているところも見付けられないし」
悩むジョンポチ陛下。
「今の我々の状況に似てますな」
それに対してこう答えを出したのはソダル翁だ。
「むむ。確かにそうだのう。走っても走っても追い付けない扉は、その例え話に出てくる亀のようだ」
ジョンポチ陛下の言葉に全員首肯する。
「して、ハルアキ殿よ。そのアキレスと亀と言う例え話は、どのようにして攻略すれば良いのかな?」
と尋ねてくるソダル翁に、しかし俺は首を横に振る事しか出来ない。
「あの例え話は思考実験、あくまで例えであって、現実にそのまま組み入れる類ではなかったはずなのですが……」
「それが現実になってしまった訳か」
ジョンポチ陛下の言葉に俺は首肯するしかなかった。困ったものである。未だにバンジョーさんは先へ先へと走り続けていて、だが
「あっ」
「どうしたハルアキよ」
クッキーをむしゃむしゃ食べていたジョンポチ陛下が、俺が声を上げた事で話し掛けてきた。
「いえ、俺たちは首都に来る前に、同じカヌスの要塞である『幻惑のカイカイ虫』を攻略したのですが……」
と説明を始めた。
やってみる価値はあるかも知れない。と言う事でクッキーに水、テーブル、椅子を片付けて、先程と同じようにソダル翁がジョンポチ陛下を背負い、俺がディアンチュー嬢を背負い、バンジョーさんが侍女さんを背負う。
「バンジョーさん大丈夫ですか?」
「問題ない」
さっきから走りっぱなしで肩で息をしているバンジョーさんだったが、まだ目は死んでいなかった。
「では行きますよ」
俺たちは前に歩き出した。俺の作戦とは簡単である。『幻惑のカイカイ虫』のように、前に前に進んでも、ゴールにたどり着けないのなら、後ろに進むのも手ではないかと。
俺たちが前に進んだ事で扉が出現。その瞬間に踵を返して、逆方向に走り出してみた。これで扉の方から寄って来るのではないか? と言う期待があったのだが、
「駄目だ、ハルアキ。扉はすぐに消えてしまった」
後ろを振り返り、状況確認をしていたバンジョーさんが教えてくれた。この作戦は駄目だったか。
では第二の作戦。
前に歩いて扉が出現したところで、後ろに後退ってみる。この作戦の先程との違いは、さっきは百八十度身体を反転させていたのに対して、こっちでは身体はそのまま、目は扉を見据えたままである。
そうして後退ると、扉は近付いてはこないものの、消えはしなかった。それどころではない。なんと扉が開き始めたではないか。おお! これはもう少しこの策を練り直せば、どうにか脱出出来るかも知れない、と思った矢先。
開け放たれた扉から、二体の魔物が出現したのだった。爬虫類を思わせる鱗のある身体に、背中にはコウモリのように皮膜のある翼。俺たちの前に現れたのは、二体の飛竜だった。
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