第105話 ツケを払う
暗闇の中にぼんやり人影が浮かぶ。感覚としてはサーモグラフィを見ているようだ。
人影は二つ。剣を正眼に構えている者と、腰に両手を当てている者。剣を構えている方がジェイリスくんで、もう一方がリットーさんだろう。他の人の姿が見れないのは、ここが結界内だからか。
スンと鼻で呼吸をすると、それに呼応して肌が匂いを感じ取る。まあ、感じるのは自分の汗臭さと握る鉄の棒の鉄臭さだ。同様に唾を飲み込めば、唾の甘さを感じ取る。そして、まとう服の何とも言えない苦い味に少々の嗚咽を伴う。
リットーさんはレベルが上がれば、この辺の不快感は解消されるようになると言うが、プレイヤースキルで共感覚を磨いた弊害であるらしい。
俺はなるだけ嗅覚と味覚を感じないようにしながら、肌感覚に視覚と聴覚を重ねていく。
「いくぞ!」
水底で声を聞いたような、ぼやけた声が肌を刺激する。ジェイリスくんが気合を込めて発した声だ。と同時に、ジェイリスくんが剣を振り上げ向かってくる。
俺はその剣を棒を横にして受け止め、更に斜めにする事で受け流すと、そのまま攻撃に転化する。
今までの俺であれば、防御、攻撃、防御、攻撃、と二つの行為は分けられていたが、武術操体を学んだ事で、防御と攻撃が連続した一つの流れの中にある。と身体が覚え始めていた。
俺の反撃の袈裟斬りをバックステップで避けるジェイリスくんは、避けながら斬り上げで下から攻撃してくる。が、これは苦し紛れの牽制程度であると分かる。
俺は身体を半身にしてこれを避けると、更に突きを繰り出し、ジェイリスくんを追い詰める。
これを身体を捻って避けるジェイリスくん。連続してしゃがみ込むと同時に、剣で俺の足目掛けて薙いできた。
それをジャンプで躱し、上段から棒を振り下ろすが、これはジェイリスくんに前転して避けられる。
攻撃と防御が連続するようになると、体力の消耗も二倍三倍と膨れ上がる。俺とジェイリスくんは一旦相手から離れると、呼吸を整えるが、息をする度に汗臭いし、服の苦い味を感じて嫌になる。
と俺がそんな雑念に気を取られた隙に、ジェイリスくんがすぐ近くまで接近してきていた。
ジェイリスくんの鋭い刺突。俺はそれを首を横に反らして躱すと、同時に身体が自然と棒を振り上げていた。
俺の攻撃を脇腹に食らったジェイリスくんが、「ぐっ」と声を漏らして二、三歩下がったのを、俺は好機と感じ取り、棒を槍のように構えると、連続で突きを繰り出した。
「ぐはっ」
俺の読みは当たりだったらしく、ジェイリスくんは突きを躱し切れず、攻撃をモロに食らって片膝を付いた。
「そこまで!」
俺が更に追撃をする事もなく、リットーさんが試合を止める。俺は直ぐ様マスクを外すと、天井を見上げて思いっきり空気を吸い込んだ。
「はあああ。空気が美味い」
しっかり空気を吸い込む事が、共感覚から普通の五感に戻る良い切り替えになっているのだろう。さっきまで感じていた自分の汗臭さや、服の苦さは感じなくなっていた。
「痛っつう」
などと俺が開放感に浸っている横で、ジェイリスくんが身体をさすりながら起き上がる。
「大丈夫? やり過ぎたかな?」
そう口にすると逆に睨まれてしまった。
「は? 馬鹿か君は? 手を抜かれていた方が屈辱だ」
そう言うものなのかな? と思いながら、俺は頭を掻くしかなかった。
「二人とも、良くここまで己を磨き上げた! 私の訓練はここまでだ! あとは己で己を磨き上げよ!」
「はい!」
リットーさんの訓練もここまでのようだ。一ヶ月くらい共感覚と武術操体の訓練をしてきた。プレイヤースキルは十二分に上がっているだろう。あとはレベルを上げるだけだ。
「晴れてんなあ」
もうすぐ夏休みの土曜日、日本も、ベフメルも晴れだった。
「暑い」
そしてもう夏である。ここまでさんざん雨が降って湿度が高くなっているからだろう。蒸し暑い。湿度百パーセントな気分だ。
「今だけですよ」
とドイさんが教えてくれた。この雨季明けのジメジメも一、二週間ですっかりカラッとした気候になり、そこからが本当の夏の始まりらしい。
「羨ましいですね。俺の国では夏はずっとジトッしてますから」
そして暑い。三十度を超える日がこれ程連続するようになるなんて、俺が生まれる前の人たちには想像もつかなかった事だろう。
「それは大変ですね」
テーブル越しに俺の対面のソファに座るベフメ伯爵が、甘いクッキーを口にしながら応えてくれた。
「それで、今度はどんなお願いなんですか?」
クッキーの甘さを渋いお茶で流し込み、ベフメ伯爵はやおら口を開く。
「食器なんですけど……」
「勘弁してください」
「早くないですか?」
こう言うのは先手先手でいかないと、後々とんでもない目に遭うのだ。いや、遭ったからこその先手である。
「まだ食器としか言っていませんが?」
「どうせバヨネッタさん辺りから自慢されたのでしょう?」
「うっ」
当たりらしい。
「だって、可愛らしいのやら、綺麗なのがいっぱいあったんですもの。ラガー焼きにも負けていません」
と胸の前で手を組んでお願いしてくるベフメ伯爵。そんな可愛く対応されても駄目なものは駄目だ。ちなみにラガー焼きとは、ビール川支流のラガー川周辺で作られている焼き物だそうだ。薄い青紫色をした磁器だとか。
「俺は流れの行商人ですから、そろそろ次の街に行く事になるんですよ。いつまでも伯爵の願いを叶えている訳にもいかないんです」
「じゃあこのベフメ領で、地場商人としてやっていくのはどうでしょう?」
「良いですね」
「じゃあ」
「お断りします」
ガックリ落ち込むベフメ伯爵。結構な落ち込みようだな。
「ベフメ様はハルアキくんの事を買っているのですよ」
ベフメ伯爵のお茶のおかわりを注ぎながら、ドイさんが教えてくれた。
「このベフメルが今年水害に見舞われなかったのは、ハルアキくんのアイデアがあればこそですから。住民たち一同を代表して、礼を言わせてください」
「あ! ドイ、ズルいわよ! お礼を言うのは伯爵である私の役目よ!」
などと言ってベフメ伯爵は俺に向き直る。
「ハルアキくん、この度は水害を防いで頂きありがとうございました。あなたのお陰で、今後の治水灌漑事業が百倍、千倍やりやすくなったわ。このベフメ領の代表としてお礼を言わせてください」
頭を下げるベフメ伯爵にドイさん。これは、俺、とんでもない事させているんじゃなかろうか。
「えっと、頭を上げてください。あれは俺だけの力で成し遂げた事じゃありません。バヨネッタさんの力に、リットーさんの力、何よりそれをすぐに実行したベフメ伯爵の采配に、手伝ってくれた住民たちのお陰があって、この短期間に成し遂げられた事ですから。ここで俺だけに礼を言われましても」
「いいえ。やはりきっかけはハルアキくんですから。感謝の念に堪えません」
何か俺が凄い事を成し遂げた錯覚に陥りそうだが、日本には既にある技術だ。何も威張れない。がここで俺が首肯しなければ話は先に進まなそうだ。
「分かりましたよ。その感謝は受け取ります」
俺が根負けしてそう応えると、ベフメ伯爵の顔がパアと明るくなる。
「ドイ」
「はい」
ベフメ伯爵がドイさんに声を掛けると、ドイさんが緑のカードを取り出し、ベフメ伯爵に渡す。あれは確か貴族が使うカードだ。
「ハルアキくん」
ベフメ伯爵がこちらの様子を窺っている。ああ、ここで報酬の受け渡しをするのか。と俺も鉛色の商人ギルドのカードを『空間庫』から取り出した。
カードとカードを重ね合わせ、お金の受け渡しをする。ベフメ伯爵のカードから俺のカードに、二億エランが振り込まれた。
二億エラン!? 二十億円!?
「は!? え!? き、金額間違えていませんか!?」
がベフメ伯爵は首を静かに横に振るう。
「ハルアキくん、あなたはそれだけの事をしたのですよ」
笑顔のベフメ伯爵。治水工事ってとんでもない事業だったんだな。今更ながら自分の提案した事の重大さを俺は実感していた。
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