しゃちドラ~もしブラック企業で疲弊しきった社畜が異世界最強のドラゴンに会ったら~

さめしま

第1話 ドラゴン、社畜のベッドになる

 薄暗くじめじめと湿り気を帯びた洞窟の中。人影どころか動く生き物の姿も見えず、響くのは天井から垂れた滴が立てる音のみ。


 世界の最果て。山の中腹に作られた出口のない空洞。洞窟と言うよりはただの檻のようなその場所には、一匹のドラゴンが眠っている。


 ドラゴン。世界最大にして最強の魔物。その爪は大地を裂き吐く炎は全てを燃やし尽くす。


 牛の何倍もの大きさを誇る巨体に、悠然と空を舞う翼。人語を解するほどの高い知性を持ち、人では到底扱いきれないほどのあまりある魔力を使いこなす。


 おとぎ話の恐るべき怪異でもなく、この世界では現実に存在する脅威だった。


 そしてその偉大な魔物は今、一人の人間と対峙していた。


「ははははは!我を討伐しようなどという愚か者が現れたか!だが全ては無駄なこと、この我の威容を見るが良い!」


 洞窟中に響く唸り声。ドラゴンの口から漏れ出した吐息に混ざって僅かに炎が漏出した。

 その炎は黒く、洞窟の薄闇の中に紛れてしまいそうな色合いをしている。しかしどうしてか炎は煌々と辺りを照らしだした。


「どうだ、恐ろしいだろう、怖いだろう!我が炎はお前の全てを焼き尽くす!後には灰すら残らぬだろう。愚かな人間よ、一度だけチャンスをくれてやる。我の姿に恐れをなしたというなら疾く立ち去るが良い!」


 黒炎の残滓として、火花がきらきらと降り注ぐ。黒々とした異様な色合いのそれははじけた途端に本来の炎の色を取り戻した。洞窟の薄明かりの中、鮮烈に輝く橙の灯火。


 目の前の人間は、それを呆然と眺めていた。


 火花、黒炎、その奥に座すドラゴン−自らの何十倍もの大きさを誇る巨体を前に立ち尽くしている。

 この世界では珍しい黒目が揺れている。瞳に映るその威容を写して。


 ふ、と人間の口から吐息が漏れた。

 人ならざる偉大な脅威を前にして、その人間はゆっくりと口を開いて、一言。


「いや上司の方が怖いですね…」


「えっ」


 ぼわん、とまたドラゴンの口から黒炎が漏れた。



 ドラゴンは困惑した。必ず、この突然目の前に出現した意味不明人類を畏怖させねばならぬと決意した。

 ドラゴンには人間がわからぬ。ドラゴンは、世界最凶の魔物である。炎を吐き、人に恐れられて暮して来た。

 けれども自分の威厳に対しては魔物一倍に敏感であった。


「じょ、ジョーシ?なんだそれは、なんの魔物だ?そんな奴の方がこの世界最凶にして最悪たる我より怖いだと!?」


「魔物…あー確かにそうですね…言葉通じないし…」


「はっ!言葉も通じない低級モンスターだと!そんな下等生物よりも我の方が余程強」


「朝の挨拶を無視されるのはデフォルトその後席に着いたときからぼやきと嫌味のオンパレード社内の誰かが席を立ったら即座にその人の悪口を言い始め対面でもぐちぐちと嫌味を言い仕事上の相談をしたら即座に罵倒の嵐知るか俺の責任じゃないお前がやれの三種の神器発動私の机に山と積まれる業務繰り返す残業俺の監督責任になるだろと家に帰らされ持ち帰り業務でサビ残に次ぐサビ残出勤時にはひたすら悪口罵倒もう疲れた」


「なんて?」


 突然流れるようにあふれ出した言葉の嵐にドラゴンの脳内は処理が追いつかなかった。

 目の前の人間はまっっったく瞳を動かさず、ひたすらぶつぶつ何かを呟き続けている。


「度重なる理不尽指示と罵声の嵐に改善要望を繰り返し送るも動かざること山の如しの人事部全く音沙汰も連絡もアフターケアもなく果ては人事部への相談がどこからはバレたせいか増える罵声人格否定この世は地獄」


 この人間が何を言っているのかドラゴンにはてんでわからなかった。単語の意味がところどころわからなかったし、そもそもなんかめっちゃ怖かったのだ。


 気迫で押されてドラゴンはちょっと悲鳴が漏れそうになった。しかし堪えた。この程度で怯んでどうするともう一度気を持ち直した。


「い、いやいや!そのジョーシとやら、察するに使えるのはせいぜい呪詛程度の貧弱な低級魔物であろう!そんなもの我の炎でひとたまりも無い!ジョーシより我の方が余程恐ろしいはずだ!」


 ドラゴンの声に人間が顔を上げた。こちらを見上げて瞳をまあるく見開いている。

 ようやく見たかった反応を得て、ドラゴンはわりと機嫌を良くした。

 ふふんと鼻を鳴らしながら大きく鎌首をもたげる。


「見るが良い!これが世界最凶にして最悪、災厄の化身と謳われた我の力だ!」


 がぱっと大きく口を開けて、ドラゴンは息を吸い込んだ。空気が送り込まれて肺が大きく膨らみ、喉の横にある火袋が発火のために弁を開ける。

 ドラゴンの体の周囲に淡い緑色の粒子が発生した。それらがドラゴンの口元に収束し、そして燦然と輝きを放つ。


 ドラゴンは勢いよく息を解き放った。

 発火性の体液と魔力を帯びた呼気が混ざり合い、爆発的な黒炎を巻き起こす。

 洞窟の中は黒炎の怪しい輝きに包まれて煌々と照らし出された。


「どうだ!恐ろしいだろう、怖いだろう!世界を滅ぼす我の威容思い知ったか!わかったらお前も疾くここから立ち去」


「いいなあ炎…。火事になったら明日出勤しなくていいんだもんなあ、会社燃えないかなぁ…」


「なにて?」


 ドラゴンは思わずもう一度問い返した。

 黒炎は未だ魔力を帯びて燃え残っており、ドラゴンと人間の顔を明るく照らしている。


 堅牢な魔法の鱗で守られているドラゴンはともかく、ただの人間にしてみれば単純な熱と高濃度の魔力でかなり身体に堪えるはずなのだが…人間はそんなこと気にもしていないようだった。

 わけのわからないことを言いながら火を見つめている。


「よく燃えてるなあほんとになぁ…契約書も仕様書も受注書も評価も全部全部燃えてくれればいいのに…」


「おいちょっとちょっと待て何を暖かいなあみたいな目で見つめてるんだ。ドラゴンの黒炎だぞ。水や風では消せない永劫に燃え続けると謳われる呪われた炎。怖がれ畏怖せよ恐れ敬え。そして早くここから立ち去れ」


「そうか、そもそも私が今ここで燃えれば明日会社行かなくていいのか」


「何言ってんの!?!?!」


 人間がふらふら歩き出す。明らかに炎の中に身を投げようとしていた。

 ドラゴンは慌てて魔力で炎をかき消した。人間がきょとんと目を瞬いた。


「一体何を!黒炎の中に身を投げ出すなど、死にたいのか!?」


「会社に行きたくなくて…」


「お前バカァ!?」


 カイシャとやらがなんなのかはわかんないけど他にやりようあるだろ!ドラゴンは吠えた。

 人間は相変わらず感情の動きのない瞳でドラゴンを見上げるばかりだ。

 なんなのこいつ怖い。思考回路が何一つ理解できず、ドラゴンはちょっと涙目になってきた。


 人間はドラゴンの困惑を尻目に平然としている。

 先ほどからドラゴンを見ても黒炎を見ても恐怖することはなく、どこか遠くを見ているような茫洋とした表情で佇むばかり。


 挙げ句の果てには大きくあくびを漏らし始めた。

 眠いなどと呟いて、目をごしごしこすっている。


「こ、この我を前にして眠いだと…!?随分と舐めてくれたものだな!?」


「すいません、でも本当に眠くて…。叶うなら今すぐこの場で寝たいぐらいに…」


(こいつ僕を完全に舐めやがって…!それとも僕なんか相手にならないって言いたいのか!?ドラゴンに単身で勝てる人間なんか聞いたことないぞ!?でもそうでもなければ態度に説明がつかない…!)


 ドラゴンは困惑のままにその人間を見下ろす。

 眠いというのは本当のようで、今も又落ちそうなまぶたを必死で開けながら、目をこすって睡魔に抗っていた。

 目の前に居るドラゴンのことを脅威とも思っていない様子である。


 ドラゴンの頭の中で一気に怒りの炎が燃え上がった…が、途中でドラゴンはふとあることを思いついた。

 そして、それを想像して機嫌良さそうに鼻を鳴らした。


「おい、人間。お前そんなに眠いのか?」


「ええ、はい…。三日ぐらいちょっとろくに眠ってなくて…」


「三日?おい馬鹿言うな。人間がそんなに眠らずにいられるわけないだろ。まあいい。そんなに眠いというなら寝かしてやる。ただし、僕の身体の下でだがな!」


 狭い洞窟の中で、ドラゴンは勢いよく前足を持ち上げた。


 ドラゴンの巨躯相応に大きく太く長いその足には鋭い爪がついており、薄明かりの中でも僅かな光を反射してきらめいた。


 人間の身体なんか容易に貫いて内臓を引きずり出せる鋭利な爪。

 いや、そもそもそのまま振り下ろすだけで人間の身体を叩き潰すには十分すぎる。


 ドラゴンの持ち上げた足が、人間の身体へと振り下ろされていき−。


「えっ、寝ていいんですか?」


 いやに平和な声音のせいでそれが止まった。


「は?」


 ドラゴンの足が人間の頭上でぴたりと止まった。


 彼我の距離はおよそ数十センチと行ったところ。

 人間はおそらく数秒と持たずにぺちゃんこになるような危うい状況にいるのだが、そのことを全く気にしていない声音だった。


 どころか、人間はこれでもかと顔を輝かせた。


「寝ていいんですか!?!?!ほんとに?!?!?!!?」


「えっ」


「寝て…寝ていいんですか!?!?納期は明日案件が三日続いてきちんと納品確認できるまで粘れ責任取れって言われてここ最近ろくに睡眠もとれてなくて…!それなのにいいんですか、寝て!?」


「え、あ、うん」


「も、もしかして、なんですけど。横になっても…?」


「す、好きにすれば…?」


「横になって眠っていい!?!?!?!?!!?」


「ひぃっ!?!?」


 ドラゴンは引いてしまった。うっかり人間の頭上に掲げたままだった足も避けた。


 人間はずずいとドラゴンに近づいてくる。ドラゴンの口から悲鳴が漏れた。

 らんらんと目を血走らせた人間は、ドラゴンのことなんか知ったこっちゃなさそうだった。


「ありがとうございます本当にありがとうございます!!!横になって眠るなんて何日ぶりだろう!ああ〜ドラゴンさん本当に良い方ですねえ!あなたが上司だったらよかったのにな〜!」


「え、あ、うん、そう。ヨカッタネ…?」


「それで何でしたっけ、ドラゴンさんの身体の下で眠れば良いんですか?」


「あ、はい。僕の身体の下で眠れるモンなら眠ってみてください」


「わかりました!!!それじゃちょっと失礼しますね!」


 そう言って人間はドラゴンの真下に突っ込んできた。


「いぃ!?」


 ドラゴンの尻尾の辺り、地面とドラゴンの身体の間に匍匐前進の要領で分け入ってきて、更にずるずると地面を這い回っている。


 気持ち悪い虫の挙動だった。ドラゴンは背筋にぞわわわーっと何か気持ちの悪い感覚が走るのを感じた。そして。


「やめやめやめやめちょっとまてそこはダメだってばやめっ…アーッ!!!やめてぇぇぇ寝るならせめて背中にしてぇぇぇ!!!」


 結局。


「ぐごー」


「あ、あんなところ…あんなところを人に触られるなんて…!もう人前に出られない〜!!!」


 幸せそうに久しぶりの横寝をむさぼる人間と、心に深い傷を負ったドラゴンがいた。

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