従姉のために最高の魔法陣つくるわ

@aoyama01

俺は空が飛べない

 上を向くのは嫌いだ。見たくないものが見えるからだ。

 三学期最後の登校日、狭い教室で照明と暖房を兼ねた蛍火のようなフレイムライトが天井近くに浮かぶ。その白光の下で担任の話を聞いていた。

最後列の窓際の一番後ろの席に座り、怒ったような担任の声をBGMにラフ画を描く。火を模した文字を線画でいくつか書く。

その間先生は教室前方の教卓の前で、黒板に円を描き、その中にjikoと書く。その中に円を描き、Mを中に描く。

先生がそこに触れると図が光る。そこから立体映像のように粘土作りのような白い人が、羽のついたバイクのようなものから落ちる映像が浮かんだ。先生がわざわざ依頼して作ってもらった『先輩の事故再現映像』だ。

「高校生の時、調子に乗って飲酒した先輩が空から落ちて大変なことになってね。真夜中だったから目撃者は居なくて、意識が残ってたから自分で通報する羽目になったの、激痛の悲鳴が遠くまで聞こえたみたいで……耳から離れなくて、その先輩も骨が変な方向に曲がって戻るまでの数か月間激痛にまみれた日々を送ってたらしいわ。先輩は何とか生きていたけど、下手したら命を落としていたから……」

 真剣な顔で先生は何度目かの注意を始めた。心配しているのは良く伝わってきたが、流石に四度目だと聞き流す。

この後先輩は足を折ったまま部活を休みそのまま引退、飲酒運転という自分に非のある要因に同情する人も少なく、不完全燃焼なまま荒れた高校生活を送った。こんな風に自分の生活を無駄にしないためにも、未成年飲酒、飲酒運転は駄目だと落ちをつけるというのが先生の話だ。

初めて聞いた時は実際に身近に起きたことだから妙な生生しさがあったが、流石に何度も聞かされると威力は下がる。他の生徒も同様に、寝たり隠れてスマホを操作している。

教室中は休み前の興奮とテスト返却後のけだるさの混じった蒸気のようなじめっとした雰囲気に包まれていた。

 俺もその中の一人で、机上であくせく手を動かしていた。

ノートの上に鉛筆を走らせ、何度も丸の中に正三角形を書いていた。その三角形の真ん中に保と書く。そしてスマホにフォントのページを出し、様々な保を出力する。火を象徴する⊿を書いて、真ん中に描くことでバイザーの周囲の空気を温めて段々下げていくことで、気温の急落を防げる。

フォントは見出ゴシックA1ゴシックStd Rの方がいいな。対象のヘルメットの印刷がところどころはがれているから、高級そうなフォントや太くしっかりしたものだとフォントとのバランスが悪い。保温も数分で終わる設計だからこっちのがいい。後俺の魔力が持たない。新しい魔法を実験しなければ使用申請通らないし、小遣い稼ぎの魔法陣のネット販売もできない。

 今回の依頼は、飛空のための。相談者は17歳高校二年生、俺と同じ学年で身長もほぼ同じ172cm。ヘルメットのバイザーを補強してほしいとの依頼だ。報酬は鯖缶三個。いつも通りだ。

 飛空機は基本的なスクーターの形をしている。風を切って、空を飛んでヘルメットのバイザーの方が最近の寒さのせいで簡単に割れるらしい。ヘルメットは風化を防ぐために部屋の中に入れるらしいから、暖房の効いた部屋から突き刺すような寒さの外に出たら温度差で膨張したプラスチックが一気に縮小したのだろう。

今作っている魔法陣は外部の気温差を埋めて段々温度を下げていくというものだ。応急処置でしかないが、そもそも来月ヘルメットを買い替えるまでの代わりになればいいらしいからこっちも少し気楽に描ける。

 ラフ画のうちから一つ選ぶ。赤いヘルメットに合いそうなゴシック体の○に△を入れて、その真ん中にゴシックを少し丸く加工した保を入れたものだ。最後に○Jを入れて終わり。これをシールにして貼り付ける予定だから、想定の大きさは直径一センチでカラーリングはできるだけ運転中に目立たない透明でいい。本体よりも周囲の空気を温めるから軽い透明のものがいい。細かいところはいいとして、とりあえずはこれが発動するか確認するのがまずだ。

 顔を上げると、先生が背筋を伸ばして普通のトーンで今年度の総括を述べていた。そろそろ話が終わりそうだ。

「……では、三学期は今日でおしまいです。高校二年生になったら進路のことをそろそろ考える時期ですから、この冬休み様々な経験をて・き・ど・に・してください。それでは、一年間ご苦労様でした」

 先生が頭を下げ、俺は軽く頭を下げる。頭を上げるころには喧騒が始まる。

 スマホを取り出し、魔法陣を利用した立体戦闘スマホゲーを始めたりホログラムの動画を見始めたりしている。

俺は手元のメモを持ち上げてじっと見、違和感のないデザインだと一旦結論付けて立ち上がった。

前の席の設楽が振り向く。どんな服でも良く似合う中肉中背の体格に快活そうなはずの黒い短髪の髪の毛が今日はずいぶんくすんでいる。黒縁のメガネ越しに、俺の手元を見ていた。

「若澄、今日は新しいやつか」

「あれ、依頼のこと話したっけ」

「昨日の魔法陣とは違うからな」

「一応隠してたのに」

「悪い」

 ばつの悪そうに顔の前に垂直に手を出す。見られてなかったと勝手に思ってただけだ。

それでも仕事内容は黙っておきたい。軽く話題を変えた。

「他の人に言うなよ。それで、どうだったテスト」

「それはどうでもいい。新作魔方陣の方が大事だ。昨日テストなのにもう新しいの書いてるんだな」

「書いてたのは四限目だよ。テスト返却中」

 頑なに自分の点数を話そうとしない。多分、そんなに悪くないがそんなに良くもないのだろう。流石に一週間続けてのテストで疲労が浮かんでいる。

 そこから目線を逸らす。テスト解き終えた後にも書いてたとは言わない。依頼者に成績に影響してしまったと勘違いさせたくない。生物のテストが赤点ギリギリだったのはただ苦手なだけだ。来年は選択科目になるからもう関係ない。

 しかし設楽が驚いたのは別の点だったらしい。

「どっちにしろテスト期間中に二つも描いてたのか。凄いな流石若澄プロ」

「そんなんじゃない」

「いいや」

 設楽が勝手知ったるように眼鏡を上げて語る。

「学校中に知れ渡ってるってことじゃんか。俺細かいの苦手だからそういうの憧れるわ」

「描いてみればいいじゃないか」

「ダリ風でいいなら」

「……どんな魔法陣?」

 目玉焼きのように解けた壁時計が頭に浮かぶ。本気で取り組めば可能なものの、ろくな用途がない。作られても困る。これ以上誘うのはやめておこう。

 話していると、設楽の背後でノートの上に手を置いてスマホに手を触れている生徒がいた。数人いるのを見てとれた。気になって表情を伺うと、誰も友人と会話をしているため楽しそうな表情をしていた。使用にあたって不快感はなさそうだ。

 なんとなく安心して肩を下ろす。

「やっぱ使用者の反応は気になるか」

 視線を前に戻すと、設楽がにやにやして話しかけてきた。

「まあ」

「自分の作った魔法陣を使ってもらえるのは製作者冥利だな。俺も誇らしい」

「なんでお前が」

「友人の作ったものが評価されるのは嬉しいんだ」

「そうなんだ」

 彼らが使っている魔法陣は、スマホの画面の文字を触れている別の場所に転写するものだ。

 以前依頼で描いたものだが、気が付いたら広まっていた。

 個人で魔法陣販売サイトに登録して小遣い稼ぎしている身としては、リアルでの反応が見られるのは貴重な経験だった。

 そこから教室前にかけられた時計に目が行く。時計の長針が四十五度傾いていた。雑談しているうちにもう十五分も経っていた。

「すまん、そろそろ予約した時間だから行く」

 メモと筆箱を急いでリュックに入れて立ち上がる。

「俺も帰る」

設楽も配布プリントを適当にたたんで赤いスポーツバッグに入れた。

立ち上がり、二人で教室を出る。

「実験施設か」

「ああ」

 魔法陣を正式に使用するためには、専用実験施設で認可を貰う必要がある。

 職員にコンセプトを説明して、実際に自分で発動する。そこで職員の方に太鼓判を貰った後、書類を魔法陣管理局に送り登録するというのが一連の流れだ。早いときは三日四日くらいで帰ってくる。都心に近い場合は、郵便の到着も早いからもっと早いらしい。

 今日はこれから魔法実験施設に行って制作した魔法陣を試しに行く。もし通ったらすぐに先輩と依頼者の同級生の横浜に連絡してデザインを送る予定だ。先輩も横浜も近所に住んでいるから何か問題があればすぐに行ける。

先輩の方はテストがあるから少し余裕を持った日程で待ってくれていた。急かすこともなかったから、感謝の気持ちとしてできるだけ早く送りたい。

 一方設楽は落ち込んでいた。

「俺は帰って家の手伝いだよ。出前しないとな」

「前言ってた飛空機代?」

「それ」

「何度も言うけど、設楽も魔法陣作って売ってみたら」

「無理無理。フォントに対する繊細とかぜんぜんない」

 悲しげに顔の前で手を振る。俺は首を傾げた。

「少し頑張ればできると思うんだけどな」

「いや不思議なことに興味を持てない。つか作っても売れる未来が見えない」

 考えこむように眉に皺が寄る。自分が魔法陣を描く姿を考えようとして浮かばないらしい。これ以上擦ってもあまりいい雰囲気にならないだろう。ここで話題を終えた。

 階段を下りて教室を横切る。俺のクラスと同じような光景がところどころ広がっていた。思ったよりも広まっているようだった。もう少し利用料金貰っておくべきだったか。少しの後悔が頭をよぎった。

 俺と設楽は玄関を抜けて校舎の外に出る。

 校門前の発着場は休みに沸く生徒で混みあっていた。学校の真横の空き地には、百メートルほどのトラックがある。そこに飛空の専門の先生が防寒具で丸くなり、パイプ椅子に座っている。厳つく筋肉質な先生は、プールのウォータースライダーの監視員のように、一人が飛んでいくとピッと口の笛を吹いていた。

多くの生徒がバイクのような飛空機で走り、一定速度になると空に浮いて、鳥のように高く遠くなった。

 事故防止のためにも十列のトラックには各列ごとに一人だけが利用できる。

設楽がちらちら俺を見る。気を遣っているのかもしれない。気にしてないことを伝えるためにも、平然と話す。

「混んでるな」

「……外の飛空場に行くわ」

「結構遠くない?」

「こんだけ混んでたら近所の発着場に行った方が早い。そっち行こう」

 がやがや喧騒にまみれた飛空場から踵を返す。半分空になった駐輪場に入り、設楽は一昔前の白いスクーターのような飛空機を引き出した。新品で傷一つないスクーターを慎重に取り出して置き場から機嫌よく出てきた。

「新品は目立つな」

「最新型だからな!AKIHAデザイン最新製品だからな!」

大げさに見せつけられた。設楽が必死に家業を手伝って苦労して手に入れたものだ。だから苦笑しつつも俺も嬉しかった。友人の魔法陣が広がる気分というのはこんな気分なのかもしれない。

飛空機を守るように右端を歩き、俺はその横に並んで歩き出した。

学校横の蔦や木で囲まれた坂を下りつつ、俺は飛空場の光景が目に浮かんでいた。

 高台にある校舎から降りて徒歩三十分、そこが俺の自宅だ。飛空機に乗れば10分くらいだが、飛空機に乗れないから仕方ない。

 理由というのも、俺の魔力が非常に少ないからだ。

 設楽が複雑そうな顔をしたのもそういうことだった。

 この世界は魔法界と呼ばれている。魔法の使えない人間界と比較してこう名付けられたらしい。

 俺たちのご先祖は元々は人間界に居たらしい。

 妖精が見え、彼らと交渉して超自然的な力を使いコミュニティの保持に勤しんでいたらしい。現代でいうシャーマンや、アニミズムみたいなものだ。

 そんな人々も新しい宗教の伝播によって広まったことで一気に社会から追い出された。

 当然魔法使いが消えることはなく、山奥にひそかに集まり各々錬金術や魔法の研究に勤しんでいた。奉仕精神ではなく好奇心と自分の力の自制のためだったらしい。

 産業革命が起きるとさらに魔法の需要は減った。誰でも使えるという長所は個人の魔力に依存する魔法よりもはるかに利用しやすかった。

 18世紀ごろ、魔法使いたちが小さな街を作れるようになっていたころに大発見があった。

 もう一つの別世界に行ける魔法陣が発見された。

 人間界では生息しないようなありえない生物が跋扈する世界だ。

 人口の増えすぎた魔法使いの人々はここに希望を持って、念入りに調査した後に移住した。

 この世界は不思議なことに地形は人間界とほぼ同一だったらしい。

 違うのは魔法を使う生物と、川の流れのように魔法界の地面に流れる『地脈』という魔力の流れだ。

 地脈は未発見のことばかりが多いが、わかることは、魔力の代わりになる、流れる場所と流れない場所がある、日によって地脈の流れの大きさは変動するということだ。

 ということで、人間界と魔法界を行きかう方法を確立した後に全世界の魔法使いは異世界に移住した。

 別世界から来た連中をこちらの生物は勿論歓迎しなかった。

 しかし魔法は使えた。この世界の地中に流れる自然エネルギー、通称地脈を利用して結界を張り魔法使いの生活圏を作った。

 それから約三百年程経ち、機械と魔法を組み合わせたものを作るなど独自の文化を築きながら魔法界は発展していた。

 人間会から追い込まれるようにこちらの世界に来たようなものだが、現代の人々の大半はあまり人間たちに対して敵意を持ってない。

 恐らく関わりがないからだろう。一部の過激な人々は絶縁すべきとのたまっているが、スマホなど人間界の技術がはびこる昨今は人間界の技術なしに生活するのは難しい。建物は木造や鉄骨など人間界とあまり変わりないが、普段の生活は少し異なる。

 この世界では主なエネルギー源は電力、地脈、魔力だ。魔獣は非常に強力なため、必要が無ければ人間界のように自然を切り開くことは難しい。だから電力は主に川や滝など地形や自然の力を利用したものが多い。

冷蔵庫のように維持が必要な場面では電力を使うが、料理の加熱など一時的にエネルギーが必要な場合は個人の魔力が必要になる。

 だから魔力が少ない場合、一日に使えるリソースが非常に限られる。

 魔力というのは体力や生気とはまた異なったものだ。魂からこぼれる余剰の雫が魔力らしい。未だに細かいところはよくわからない。ただ、時間比率で回復する、もし魔力が切れたら魔法が中断されるということくらいだ。回復量は個人の体調や体力で異なるらしい。

水をコップに入れるか風呂桶に入れるのと入る量が異なるように魔力の持つ量は異なる。

俺の場合は器が小さいらしく、平均が桶なら、俺はペットボトルの蓋くらいの量だ。もし市販の魔法陣を使えば、一回で終わる。上限値に回復するのは二時間くらいかかる。普通の人は大体十時間で回復する量だ。使える魔法が少ないのは非常に面倒だ。しかも魔法陣で消費される魔力の半分くらいが本当に必要な機能の保持に使われるため、正直短時間で終わらせたい俺には必要ないものだ。

だから俺は六歳の頃から自分で魔法陣を描き始めた。必要な機能だけの単純な魔法、最低限で最大の機能を果たすものを作るためだ。それを続けて十年程になる。それでもスマホゲーの豪華演出版を使える日は来ない。

 スマホが震えた。画面を見ると、魔猪の目撃情報だった。結界をすり抜けて人里に降りてきたらしい。

 摩耗するインフラのように、結界も更新しなければこのように魔法生物が入り込んでくる。地方都市はここの辺りの動きが遅い。

「また魔猪か。あいつ弾丸みたいに加速して突っ込んでくるから怖いんだよな」

「最悪飛んで逃げればいいよ。それに駅前辺りだから関係ない」

「何も無かったらいいな……てか、涼は春休みどうする?」

「魔法陣描いてると思う」

「いつも通りか」

「結構稼げるからな」

「そんなに売れてるのか」

「最近は妙に売れてる」

 首をひねる。特別宣伝もしてないのに、末端の素人の作品がランキングに乗るのも珍しい。

 この世界において魔法を使うには、魔法陣か呪文の詠唱が必要だ。

 魔法陣というのは図形を文字を組み合わせて妖精に動いてもらうための仕様書だ。

 風を吹かせたり、ものを浮かせたりするために必要なものだ。

 二百年より前は魔法陣を作る需要は無かった。新しい魔法陣の研究を進める人は居たが、現在の精密機器のような複雑な挙動を必要しなかったかららしい。普通に一千年前の魔法陣を使っていたし、異なるといっても地方の気候ごとに適応した魔法を作るくらいだった。

現在は意識の変化や、情報伝達の高速化によって昔の魔法陣だけでは適応できなくなった。刻々と変化する技術やそれぞれの要求に合わせるために魔法陣制作の職業がある。

 文字の基本形が変わらないように、魔法陣の基本形は多角形と円(今回は区別する)と文字でできている。そこに付加要素を付け加えるために図形の太さや、フォントの種類の判別が必要になる。

 ここで重要なのは使われるフォントや図形の印象だ。力強さが必要な場面で丸文字フォントを使ったり、繊細な作業の時に大筆で丸を書くなど使用するシチュエーションに反する魔法陣になると十分な結果が得られない。

 だから魔法陣を作るためには図形やフォントの取捨選択が必要であり、これは一晩で身に着くものじゃない。そもそも二千以上あるフォントから最善を選ぶ時点で一気に難易度が上がる。

 最近は複雑化した魔法陣を区別するために、登録した単純な図形のようなシンボル化することも増えている。ピクトグラムやガイドシンボルのようにこの魔法陣は何の魔法のものか一見でわかるようにするためだ。もし魔法陣の勉強をはじめるなら、魔法だけでなくUIデザインなども学ぶ必要がある。会社の雇われデザイナーであるインハウスデザイナーになる場合、マーケティングや法律についても知識を身に着けた方がいい。

 一方呪文詠唱の場合は、非常に場所が限られる。

 魔法陣と比べて再現性が低い。本人の喉や体調でトーンが変わるためだ。だから必ず同じ挙動を求められる日常の場面で使われることは少なく、例えば神社の舞や祭など場や雰囲気を構築することに意味がある場合は使われることが多い。

 そもそも魔法とは精霊の力を借りるための仕様書のようなものだ。何をしたいのか、どこへするのか、そのために何をしてほしいのか、それをまとめたのが魔法陣だ。仕様書を基に、魔力を報酬に、精霊に超自然的な現象を起こしてもらう。それが魔法だ。

 魔法陣に使うのは基本は妖精言語と幾何学的図形だ。基本的に、円は結界、正三角形は。

 フォントも重要だ。妖精言語を人間言語に翻訳する手法はトマス・クルトンが19世紀に発見した。言語を一つずつ解析し、それを当てはめるという地道な方法で妖精言語を英語に翻訳し、翻訳する魔法陣を作り上げた。

これは書いた文章の最後に○に目を横にして入れたものを描くだけで翻訳される。昔は一々描く必要があった。今ではillustratorを使ってパソコンで描いて、印刷またはスマホ画面に表示して使う。

 印刷技術の発展につれて、フォントも増えた。20世紀当時まで魔法陣は全てボドニ体または手書きが常識だった。約百年間なじんできたフォントを変えることも難しく、区別化する点もあった。そこである研究者がフォントを変えて魔法陣を書いたところ、不思議なことにフォントによって魔法の中身が異なった。

大雑把に言うと、フォントの見た目通りの魔法になった。例えばへルべチカでは安定感のある見た目である。太い文体から、力強い、一定時間必要なゴーレムを使役する場合などはこれを使う。ボドニ体は繊細な印象を持たせ、短時間発動、または儀式など神秘的な要素の強い魔法、繊細な要素の必要な魔法では非常に効力が高い。

例えば地脈の力を儀式に使う場合では、精霊は指定した分の地脈の力を導いてくれる。これをサンセリフ体の魔法陣を使うと、地脈の力をものすごく多く持ってくる。量は大雑把で指定は難しい。魔弾を打つ場合も同じ魔法陣でありながらボドニ体なら銃弾のように数秒で消えるが、ヘルべチカでは発射から何秒も残るビームになる。逆に、ボドニ体でゴーレムを作り出すと、ヘルベチカよりも線の細く数分で崩れるものになる。

 このようにフォントによって効力も発動時間も違う。利用する魔力はインクの使用量に比例するため、効率的に魔法を使うためのフォント選びは重要だ。リズム感も必要で、自然を相手にした儀式では流れるような手書きが一番魔法の相性がいいなど、利用法や見た目に合ったフォント選びは必要だ。

 しかも呪いの書の文体をフォントにしたり自爆を誘発するような法的に違法なフォントも存在する。制作過程で何人もの犠牲が出たり、人の魂を捧げて作ったりしていたらしい。呪いに対し抜群の威力を出したり異常な規模の魔法が可能になるらしい。

 だから、よくも悪くも現代において魔法陣はフォント選びが非常に大事だ。

そして日用品になった魔法の区別をつけるためにも魔法陣をシンボル化し始めたのもこのころだ。人間界の産業革命があり、此方の世界もその流れから科学技術をどうにかして取り入れようとしたが、此方の世界では石炭や木などは手に入れにくい。だからエネルギーの一部を魔力で代用できないかとこちらの世界では考えて、魔法陣として広まった。

そうなると、魔法の知識のあまりない顧客にもわかりやすい魔法陣が必要になった。

機械と同じく、動力機関に使われる魔法陣は基本的に非常に複雑な図形の隙間に細かい言語が沢山詰められている。しかもこの言語のひとつが違えば全然違う魔法が発動する。昔、顧客が写真機の魔法陣を描き直そうとframe(枠)とflame(炎)を間違えて書いてしまった結果、写真機が火炎放射器になったという笑い話もある。正直笑えないが、一文字でこれくらい大変なことになる。この失敗は魔法陣の中身が分からなかったことと、魔法陣がそもそも簡単に擦り切れてしまうという点によるものだ。

だから必要となるのは、魔法陣を消耗せず、一見してどんな魔法が発動できるのかわかるデザインだ。今でいうUIデザインみたいな考え方が当時からあった。それを解決するために考え出されたのが、シンボルデザインを魔法陣に変換できる魔法だ。これは○の中にMを描くだけで発動する。保護シートを貼るように、魔法陣に書き入れることで指定された魔法陣を特定のシンボルに変えることもできる。魔法陣に使われるインクの量以下のデザインなら、どんな魔法陣でもつなげることができる。一魔法につき、一魔法陣が適応している。国際規格で使われる○などの魔法は全て利用禁止されており、先にそのままの形で登録されている。

走るピクトグラムの中に○Mと書き、足の速くなる魔法陣と○Mと書いて、それぞれの○Mに同時に触れるだけで簡単に接続できる。このピクトグラムを靴に描いて、触れれば、早く走る靴が完成する。このように一目見て何が起こるかわかるシンボルデザインが必要になっている。

 これは今の時代でも重要であり、むしろ情報氾濫社会ではオリジナルの魔法陣も氾濫しているため、昔よりもかなり区別が難しくなっている。今の方が区別化として魔法陣のシンボルデザインは必要とされている。

人間界ではロゴデザイナーと呼ばれる人間が、魔法界でも魔法陣デザイナーとして活動している。こちらの世界で名の知られた一部のデザイナーは人間界でも評価されており、賞を取っているらしい。

一目見てどんな魔法か、どんな人が使うのか、どこで使うのか、じゃあどんなデザインなら使いやすい、事故を防止できるかなど考えるのが魔法陣デザイナーの仕事だ。デザインの仕事だから魔法の制作と魔法のデザインは分業か、一人でやるかなど様々だ。

 まとめると、魔法陣と言うのは妖精言語と幾何学模様によって設計されたもの、妖精言語を翻訳して作られたフォントを利用したもの、基本的な魔法陣を変形させてシンボル、ロゴデザインに変化したものの三つがある。

使用魔力量は使用面積に比例する。魔法が複雑化すると、魔法陣は一気に細かく複雑なものとなり一見してどんな魔法かわからないといったことだ。

 単純な魔法、○、△、一、二文字を使って書かれたものは魔力は全く使わない代わりに単純な作動しかしない。それでも必要なものはいくらでもあった。

 そんな中俺は地味にクリップのように目立たないがあったら嬉しい魔法を書いていた。

そもそも魔法界ではドラゴンなど特有の魔法を使う魔獣が幅を利かせていて、人間が生活するには盆地の木の生えていない場所のみだったがこれのおかげで盆地を少し開拓できた。山や樹海は毒草や竜の巣など危険なものが隠れているため現代でも切り開くのは不可能だと言われている。無理やり山を開拓しようとして竜の群れが村を滅ぼしたというおとぎ話が残るほどだ。

 じゃあ村同士の情報伝達はどうするのかと言うと、使い魔か、空を飛ぶことで手紙を送っていた。人間界で昔伝書鳩や飛脚が飛び回って手紙を運んでいたように、使い魔に文書を持たせて運ばせたり、空を飛んでもらい村と村の間を取り持つ役を担っていた。

現代では地脈の発見また飛行魔法の発展により安定した長時間の飛行が可能に。空気力学を参考にして、形状も箒からかなり発展した人間界の飛行機のように羽が付いて風向きを利用して魔力を軽減している。

ただ、それでも俺は飛べなかった。

だから早いうちから諦めて、自分で自分のための魔法を作りだした。俺のものは殆どフリーハンドで描けるものだが、正確さを求めるならやっぱり買って専用アプリを通して使うのが一番だ。

 六歳のころから魔法陣を描き続けていたものの、昔は売り物になるとは思ってなかったから周りにあまり見せたことはなかった。販売を始めたのは中学生二年生の二学期頃からだ。色々あって、少しの小金稼ぎのために描き始めた。illustratorの学生プランを導入して初めてネットで販売を始めた。今は新作を投稿すれば約一万アカウント中最高二百位にあがる。手早いおかげで、毎月二万くらいのお金が入る。

最近は魔法陣の懸賞投稿も始めた。健勝の方は、優勝しなくても参加賞を貰えるから結構嬉しい。

 ここまで考えて、初心者には敷居が高いのかもしれないと気づいた。

 分野は広い分、課外の専門知識も必要だ。そう思うと設楽が簡単に描けないというのも分かる。

考え込んでいる俺に、設楽はまた気分よく話しかけてくる。

「みんな欲しかったんだろ。他はどんなのが売れてる」

「魔猿払いの警笛とか、鉛筆を駒みたいに直立させる奴とか実用的なものから一発芸まで結構幅が広い」

「あれ、スマホ写す方は」

「あれは懸賞で送った」

 去年の夏依頼されて作った魔法だ。スマホの画面の光の3色を利用した表示方法を利用して、スマホの光量で区別して、スマホに表示されるものの輪郭を別のものに写すという魔法を作った。これが意外に使われているようだ。

設楽が背を伸ばした。

「懸賞かー。結構みんな使ってるから、いいところまで行けるんじゃないか」

「オオモリの大会だからないと思う」

「オオモリ……ってあの魔法陣の!?」

 設楽が勢いよくこっちを向いた。

「あの魔法陣フォント『青山書体』を作った!?」

「そうだよ……ってか、プロアマ問わない大会だから誰でも投稿可能だったよ。今年もある」

 オオモリというのは魔法陣デザインで国一番二番に名の知られた企業だ。

 自社で独自フォントや魔法陣を販売している。フォント数は日本で一番多く、魔法陣のクオリティは毎年いくつか賞を貰っているように非常に高い。

 そこで毎年『オオモリ大賞』というコンペが行われている。

 プロアマ問わず応募可能で、魔法陣デザイナーとして一つの登竜門みたいなものだ。そして参加賞として今年新しく販売されたフォントの図鑑がただでもらえる。

 とはいえ適当なのを送ったら申し訳ないと思い、俺は一番反響の良かった魔法陣を送った。今のところ反応がないから、多分一次で落ちたのだろう。

少しだけ残していた期待が裏切られてさみしい気分だ。来年はもう少し力を入れて取り組もうと最近は必要なくても魔法陣を描いている。

「よく送ったな」

「参加賞でフォント図鑑貰えるから」

「まさかそれ目当て?」

「他に何があるんだ」

「それでよくプロの中に出せたな」

「だから結果じゃなくて参加賞目当てだって。ほら、見るか?」

 鞄から『フォント年鑑』を取り出して差し出す。設楽は足を止め、金品を受け取るように神妙な顔をして受け取り、ぱらぱらと見渡している。

「……フォントってこんなにあるのか」

 設楽は感心したように息を吐いた。

「あれ、授業取ってなかったか」

「そう……すまん、わからん……」

 俺は受け取って、適当なページを見つめる。

 基本的に使われるのはやっぱりHelveticaやFrudiger、小塚書体だが、魔法陣のような斜めや等間隔に置かれることを前提としたフォントMagicaファミリーや青山書体が最近では魔法陣自体のデザインでは使われている。最近は視覚的に難のある人たちのためのフォントも開発されている。

魔法界では人間界と需要が少し異なり、どんな風に傾いた文字でもできるだけ見やすく設計された文字が魔法陣デザイナーに愛されている。最近はスマホやパソコンで使われることを見越したMagica R1や明朝体の一味書体だったり、ファミリーも増えてきている。オオモリのデザイナーが豆知識を含めたコメントを付けているこの本は、無料とはいえかなりお得だ。特に人間界のローマ皇帝の碑文に使われた文字を基にフォントが作られた話はとても好きだ。これを読んで初めて知ったことだが、異界に旅している気分になる。人間界の歴史を授業で取っててよかったと思う瞬間だ。

 人間界と同じく魔法界でもフォント製作されている。特に魔法陣のためのフォントもある。可視性を高めたものや、立体化した時のことを考えたものなど特徴的だ。見るだけで面白い。

ページをめくると黒髪の女性が現われた。新進気鋭のデザイナー紹介ページに真っ先に現れたのは天願ミサオだ。

 この国でも有数の専門生の集まる学園『古野学園』の在学時に国際コンペで優勝。卒業後は芸大に入り、それからずっと人間界ではロゴデザイナー、魔法界では魔法陣デザイナーとして活躍している人だ。

まだ27歳なのに様々な賞を取っていて、普通に生きてるだけでも耳に入るくらいだ。

見た目も有名で、美しい黒髪と整った相貌、いつも着ているイヴサンローランのパンツスーツに黒いパンプス、左手首に銀色の腕時計といったファッションで固定されている。

 彼女のインタビューでは今後の展開や、時勢の変化に対応した魔法の内容、そして魔法教育の強化の要望などコメントが理論整然とした展開している。

彼女は魔法陣デザイナーでありながら、現代技術への展望やネット販売における著作権法の見直しなどを訴える現実的かつ先進的な人だ。そのあたりが俺を含めた高校生に人気のある理由だろう。彼女を目標にデザイナーになる人は多い。だが本人は自分を追うのではなく書く人自身の理想を形にしてほしいというのが主張だ。この言葉がさらに人気を高めている気がしないでもない。

それはそれとして、俺はこの人の主張は納得がいくし、結構勇気づけられた。オオモリに送ったのもこの人が所属するからだ。落ちているだろうが、他の懸賞に送ってもいいという自信にもなって最近は色々送っている。この前は二次に通って、缶詰セットが送られてきた。

「あー、んで、どうだった。なんか反応あった?」

 顔を上げると、設楽は様子をみつつ話しかけてきた。ついコメントを読みふけってしまっていた。本を折らないよう慎重にしまう。

「見ていない」

「自信ないのか」

「どうせ一次落ちだし見るだけ時間の無駄だ。去年の優勝作はアールヌーヴォー風の魔法陣で魔法も緊急時の脱衣室のための視界フィルターの作成だ。魔法陣だけでなくシンボルのデザインも細かいところまで凝っていた。俺みたいに実用性最優先のものはそこまで話題にならない」

「そうか?使い勝手がいいのは若澄の方だと思うけどな。書きやすいし目立たないから使いやすい」

「ありがとう。顧客の欲しいものを渡せるのが一番の喜びだ」

 口では肯定する。

 でも誰にでもかけそうな気はするんだよな。口に出さず黙る。なんだかんだ時間をかけて考えたデザインだ。手放しに称賛できないが、けなされると反論する位には愛着がある。それでも中々受け入れづらい。あまりにも広がりすぎて、もっといい解決法があるんじゃないかと考えてしまう。

 そうこうしていると人のあまりいない発着場に着いた。校庭の半分くらいの空き地に、小さな監視員室と鉄骨と鉄板で作った坂、発着台置かれている。そこから暇そうな監視員が外を眺めている。

設楽は自分のスクーターのエンジンをかける。ヘルメットを被りつつ、後ろの荷台をあごで指す。

「乗ってく?」

「ありがとう。でも今日は歩いてデザインを考えたい」

「ほんと凄いな……気が向いたら呼んでいいからな」

 設楽は心配そうにこちらを見ていた。こちらが空を飛べないことを気遣っていると思っているんだろう。

「ああ。その時は頼む」

 設楽はヘルメットを被った。

 エンジンを付けて、側面の羽のような魔法陣に触れる。魔法陣が光り、スクーター全体光り出す。

「また遊ぶときは連絡するわ。それじゃ」

「ああ。そっちも気を付けて」

 手を振って見送る。設楽は手慣れたようにスクーターを操作し、空にゆっくり飛びあがる。したらの姿は小さくなり、空路にうまく乗って一定の高度になった。高校生や乗用車など沢山の車が飛ぶ。俺はそこから目を逸らした。

「……行くか」

 俺は飛べない。だから前を向くしかない。

 発着場に向かう生徒に逆らって、一人発着場を去った。

 実験施設から帰ると四時くらいだった。着いたのは二時くらいだから結構うまく行った方だ。しかも実験施設で講演会のチラシを四枚貰えた。現地はここから半日ほど離れた霞市だが、学生料金で公演がネットで聴ける。いい時代になったものだ。

「ただいま」

 少し疲れた体で玄関を開ける。襖と板張りの廊下へ明かりが漏れていた。漏れているのは奥の部屋、従姉さんの部屋だ。

仕事中かもしれない。静かに少し暗い玄関の明かりをつけるとどたどたと足音がして、部屋から飛び出てきた。

「お、お帰り!」

 雪路姉さんの短い赤毛が跳ねている。シャツに適当なジャンパーを羽織り、ジーンズを履いている。大きな赤茶の目がこちらから視線を逸らさずにいる。この様子だとまたあの本を読んでたんだろう。靴を揃えて立ち上がる。

「そんなに急いでどうしたの」

「もうそんな時間だと思ってなかったから。あ~夕飯の買い物まだだ~ごめんね~」

 何度もスマホの時計とこちらを交互に見ている。雪路姉さんは在宅で仕事をしている。元々人間界に造詣の深い姉さんは、人間界と魔法界の文化のギャップから生まれる軋轢をなくすための相談役みたいなものだ。

ネットが魔法界にも発達し、人間界との交易も最近は盛んである。魔法界の人々は魔法使いであることを隠すのが常識のようだ。お互いの世界にあまり干渉しないためでもあるが、そもそも魔法を信じてないし『魔法界の人たちと商売しててさ』と言ったらどんな目で見られるかということらしい。

このような事情から、人間界の文化を隠れ蓑にするためにも人間界の文化や歴史に詳しい人が必要になっている。そういった仕事をしている。本人は人間界に最近は行ってないが、ネットなどで情報収集したのと大学での人間界文化論を研究した経験から結構ちゃんと仕事ができている。

ただ、本当は別の仕事をしたかったのを俺は知っていた。

 鞄を一旦部屋において下に戻る。台所に行くと従姉さんはじっと冷蔵庫の中を見ていた。こちらに気づいたのか、俺に顔を向ける。

「今日は終業式だっけ。テストどうだった?」

「生物以外は結構できた」

 奥のコンロに向かい、やかんを置いたコンロ手前の魔法陣に手を振れる。火の形をした魔方陣が鈍く光り、すぐに温まる。魔法陣が静かになると、やかんから湯気が上がっていた。

 地脈と魔力を使ってコンロの上のものを温める魔方陣だ。ちょっと許可を貰って、気圧を低くして最短時間で消費魔力を下げて使えるようになっている。ただその分このコンロはやかんと鍋しか使えない。もう一つはガスボンベを使うコンロだが、金銭的に考えると俺はこっちを使う。

 やかんを持ち上げて、保温瓶に入れる。電気を使うもので、保温とお湯を出す機能以外ない。

「すごい!魔法陣の方もどうだった?あ、ありがとう」

「俺の役目だから。成績の方は一発合格。簡単なものだけどね」

「それでもすごいよ!」

 従姉さんは冷蔵庫を閉めて顔を上げる。嬉しそうに笑顔になり、すぐにしょぼんとなった。

「どうしたの?何か足りないものある?」

「お祝いで今夜はとんかつにしようかと思ってたんだけど……キャベツがちょっと足りない」

「じゃあ買ってくるよ」

「え、でも帰ってきたばっかりじゃない。今日は涼を労う日なんだから私が行くよ。寮が居ないと料理もあまり進まないんだから」

「いい。肉はあるなら下ごしらえの方もあるよね」

 少し外の空気に触れたい。本音を言わずにいた。姉さんは気づかずに、頬に手を付けて数秒間考えて、折れた。

「じゃあ、任せたわ。お金持ってくる」

 従姉さんがいそいで自分の部屋に戻る。俺も目で追って、部屋の本棚の一冊が少し出ているところに気づいた。

『学芸員の仕事』

 何度も読まれて古びた本だ。本棚の一番高い段の一番端の取り辛いところにある。姉さんの夢の跡だ。

 目を細めていると、姉さんは財布を持って飛び出てきた。襖を閉じて、中は見えなくなった。俺はやかんを元のコンロの場所に置いた。

長い財布から千円を抜き出して渡した。

「そういえばソースもなかった。あと忘れないうちにパン粉も買ってきて。今日の分で終わるから」

「わかった」

 受け取った千円を財布に入れて玄関に向かう。

「キャベツは一玉ね。今日は安売りの日だから重いけどごめんね」

「一玉位変わりないよ。行ってきます」

 再び靴を履いて、玄関に置いた手袋と適当なエコバッグを持って出る。玄関横の自転車を引き出して、乗り出した。

 寒いからちょっとしたことで響く様だ。それでも考えることは止まらなかった。

 雪路姉さんは魔法が使えない。正確には使えるが、あんまり使いたがらない。

 十六年前、俺が一歳の頃、姉さんが十一歳の頃、魔法陣の暴走で街一つ消える事件があった多くの外からの来訪者が巻き込まれた。偶然久しぶりの遠出をしようと向かった俺の両親は巻き込まれて亡くなった。そして、従姉はその事故を偶然見ていた。

従姉の両親は隣町の別荘に居たため生き残った。だが従姉はトラウマとストレスで魔法が使えなくなった。従姉の両親は何とかしてトラウマを直そうとしたし、本人も人間界の文化の展示会を開催したいという夢があった。魔法が使えないと都会の方では仕事が絞られるため魔法を使えるように努力したが、魔法を使うと魔法事態も精神も不安定になる。その結果大学は卒業できたが、夢に関わるような仕事には就けなかった。

今は知識を活用した仕事についているが、本人が満足しているかはわからない。これで十分、とは言っているものの、本当かはわからない。そもそも四年前祖母と同居する俺たちの下に来たのは、人間関係、特に親戚関係が嫌だったからだ。

親戚関係は、俺の両親の遺産や父の作った魔法陣の版権の保管について争って泥沼の争いになったらしい。それで今でもぎすぎすしている。二年前の祖母の葬式でもぎすぎすは残っていた。姉さんの両親も姉さんと微妙な関係になっている。

噂だと魔法を使えなくなった俺の両親が死んだことへの複雑な感情を吐露していたのを聞いて、その人は悪くないと両親と喧嘩になったらしい。将来が閉ざされたことに不満を持つ気持ちもわかるが、姉さんが会いたくないのも分かる。そして俺が完璧に断絶させた。

そのせいか従姉さんはあまり人間関係が狭い。近所づきあいはしているし、祖母の人間関係を受け継いで色々手伝ってもらったり手伝ったりしてもらっているのはあるものの、それ以外の人と会うのは本当にまれだ。一人が好き、とは言っている。多分人との軋轢を見たくないのだろう。そんな姉さんを見るのは複雑だ。満足なのは本当なのか、そもそも俺の面倒を見るために人生を捻じ曲げていいのか。

 最近は特にそんなことを考えてしまう。進路を考えるべき時期、と何度も言われると困る。俺の将来は姉さんが満足するような会社に入って十分稼いで姉さんに安心してもらう。それだけでいい。そうしたら姉さんも自分の人生を歩めるはずだ。

 今魔法陣を描いていてもいつかは趣味になる。学年十番台に入ったとはいえ、県内ではまだまだ千番台だ。勉強にもっと本腰を入れる時期になったのかもしれない。

「……いいんだろうか」

 よぎった迷いを消すように頭を振る。それでいい。特別素晴らしい頭を持つわけでもなく、特別秀でた何かがあるわけじゃない。

周りの人たちは俺の魔法陣をほめるのは、酷い言い方だが二人が魔法陣を書かないからだ。書き始めれば誰でもできることだとわかる。ちょっとした手間をかければいいだけだ。他の魔法陣と比べるとデザインの差は大きい。ちょっとした趣味の範囲を出ないクオリティだ。

 それに人並みの魔力も、精神力も持ってないのにデザイナーとしてやっていけるとは思えない。

 余計なことばかり考えるのは、寒いからだ。俺は従姉に頼まれたものを忘れないように何度も呟きつつ、寒風を切って急いでスーパーに向かった。着いたら先輩と横浜に送らなければ。

 従姉さんは必要が無ければ愚痴を俺に言わない。暗いことをあまり話せない理由はわかっている。

 だからこちらも余計なことは聞かない、考えない。

 ミュートにしていたスマホが鳴っていることに気づかず、俺はペダルに力を込めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る