第3話 月鬼

 月の公転周期が約27.3日なのに対して、月の満ち欠けの周期は約29.5日。つまり平均して一ヶ月に一回は満月になる。

 当然といえは当然なのかもしれないが、雪月に出会うまで僕は月というものにさほど興味がなかったから、この事実はそれなりに新鮮だった。

 雪女にしてもそれは同じで、調べてみれば、彼女の云うように室町時代には何とかという法師がそれらしい怪に遭遇した、という伝承が既にあったから少女も本当にそうであったのかもしれない。


 あれから僕は取り憑かれたように雪女について調べた。

 総じて雪国と呼ばれる地域では多少の差異はあれ、似たような伝承や寓話が残されていた。

 それらと遭遇する誰もが山里の独り者の男であったり、また子の無い老夫婦であったりした。つまり人生に於いてそれらは侘しさを纏った者達なのだ。

 当時、高校生だった僕が山里の独り者というくくりに含まれるかどうかは疑問の余地が残るが、死を表す白装束といい、初めて出会ったときのあの儚さといい、なかなかどうして、雪月は雪女然としていた。

 しかし、伝承や寓話のそのどれもが「待ち望んだものと一緒に暮らす幸せを雪のように儚く幻想した話」なのである。そしてそれは、待ち望むものの訪れと恐怖の物語でもあった。


 宿の前に車を停めた僕は、しばらくフロントガラスに舞い降りる雪を見つめていた。

 三つ四つの破片となり、やがて水滴となって滑り落ちる様はまるで小さな花火のようだ。

 あれからもう七年になる。

 しかしついに雪の降る月夜が現れることは無く、それどころか雪の降る日さえ無かったのである。


 車を停めても一向に降りてこない僕を心配したのか、昇さんが迎えにやって来た。

「颯也君、本当なら今夜は満月です。それに今年は十年に一度の大雪なんですよ。さあ中へどうぞ。夕食の支度も出来ていますから」

 そうは言ったがそれ以上は何も口にしなかった。


 僕は食事を済ませると客室に戻り外を眺めた。

 数年ぶりに降る三月の雪は分厚い雪雲を伴って、月の光をこれでもかと遮っていた。

 はじめの数年こそ希望と絶望を繰り返していたが、僕は諦めることにもすっかり慣れてしまっていた。

 せっかく来たんだ。せめて釣りくらいは楽しんで帰ろうと、道具の手入れを始めた。


 慣れない雪道の運転で疲れていたのか僕はうとうとし始めた。

 戸を叩く音がする。

「颯也さん、颯也さん、ちょっといいですか?」と、部屋の外で鈴子さんの声がする。僕は慌てて戸を開けた。

「あっ、すみません、お風呂なら今入りますから」

「いえ、違うんです。そと、外を見てください!」


 雪の降る月夜──。


 そこには待ち望んだ光景が、あった。

「あっ、でもどうして」

 そう言う僕の口を鈴子さんは人差し指で、そっと制した。

「さあ、早く!」

「早くって、どこへ?」

「宿を出て、左に曲がったその先に古い神社があります。その境内に大きな岩があるんです。そこへ!」

「えっ、岩、ですか?」

「はい、その岩の名を"月鬼岩"というんです。地元の人間は月夜の晩には誰も恐れて近付きません。特に満月の晩は。どうぞ、安心して」

「でも、どうして、鈴子さんが?」

「いいから、早くお行きになってください!」

「ありがとう、鈴子さん!」

 僕はコートをつかむと夢中で部屋を飛び出した。


 境内へと続く階段は雪のせいで恐ろしく滑る。何度も何度も転びそうになりながら、どうにか境内までたどり着いた。

 息が上がっている。

「はあ、はあ、はあ」

 肺が凍える。

 冷えきった空気で今にも破れてしまいそうだった。鎮守の杜の中央にその岩はあった。満月の光が静寂のなか降り注いでいる。

 雪も充分なほど舞っている。

 そして、その岩の上に彼女は、いた。


「雪月!」

 僕は叫んでいた。 

 月光と花のように舞う雪とをその身に浴びるように、そして踊るように彼女は両手をかかげ、長い銀髪をなびかせてそこにいた。

 上を向いたままこちらを見ると、その唇は「ソウヤ…」と言ったように見えたがその声はまるで吐息のようだった。

 近づく僕に雪月は言う。

「遅かったわね。颯也」

「遅いも何もあるものか。僕はこの日を七年も待ったんだ」

 僕はそこに幻のように立つ雪月を見た。

「わたしにとってあの日は、まるで昨日のこのよう」

「そんなとこに突っ立ってないで、あなたもこちらへ、いらっしゃい」

 雪月はそう言って僕を手招いた。

 いいのかい?と言いながら僕は恐る恐る月鬼岩の上へと登った。


──そうだ、月鬼岩。


「雪月、君は月鬼さま、なのかい?」

 ちっ、と雪月の小さな舌打ちが聞こえた。

「誰から聞いたのその話?答えなくていい。だいたい想像がつくから。あれだけ颯也には話さないでって言ったのに。怖がるといけないから」

「あっ、でも、その話を聞いたのは、君と初めて出会ったその日のことで」

「そうなの?」

「あなた、それでよく来てくれたわね。しかも七年も待って──」

 僕は雪月にこの七年間の想いを話した。雪月を忘れられなかったこと、努めて侘しく在ろうとしたこと、そしてあの日から変わらぬ僕であり続けようとしたことを──。


「でも、随分と凛々しくなったわね、颯也」

「雪月こそ、その、ずいぶんと立派に、成長して。もしかして、その姿も僕が想像したものだというのかい?」


 そうよ、と雪月は真顔で言った。


「わたし、自分も含め外見にはあまり興味がないのだけれど、あなた、なかなかいい趣味してる、とは思うわ」


 あの日の少女の面影は無かった。そこには美しい一人の女性が立っていた。


「僕は、雪女である君に取り憑かれたんだとはじめは思っていたんだ。でもあるとき気が付いたんだよ。これは恋なんだって」

「はあぁ?」と言いながら、雪月は白い頬を染めた。

「颯也、恥ずかしいことを平気で言えるようになったのね。あの頃はうぶな少年だったのに」

「うるさい」と僕は言った。


 少しの沈黙のあと、雪月は言った。

「ほら、もうすぐ満月がこの岩の真上にくるわ」

 言いながら、雪月は僕の両手をそっと握った。その手は意外にもとても温かい。


「こうして、あなたの願いは叶った訳だけど、これからどうする?」

「どうする?って」

「再会を果たした今、わたしにはこれからどうしていくのかを決める自由意思が与えられるの。わたしはあなたとこの先ずっと一緒にいたいのだけれど、嫌かしら?」


 僕は驚いて声が出ない。

 再会することばかり考えていて、その先のことなんてこれっぽっちも思い巡らせてはいなかった。


「嬉しいよ、雪月。僕も一緒にいたい。いたいのだけれど君は月鬼さま、なんだろ?怪みたいなものなのだろ?年とか取らないんじゃないのかい?大体そんな話が多いよ」


「この期に及んで質問が多いわね」


──ひとつ、わたしは月鬼よ、ほら。と言って雪月はゆっくりと口を開けた。緋色の瞳が僕を捉えて離さない。その口には牙が二本生えていた。

「や、やっぱり!き、牙が、それで僕を──」

 雪月はくすくすと笑っている。

「バカねえ、これは八重歯よ。や、え、ば。颯也の内に潜む鬼なんて精々この程度ってことよ。安心しなさい。それに年なんてどうとでもなるわ。ほら、わたしちゃんと成長して見えるでしょ。颯也にちゃんと合わせているのよ」

「そして、あなたのお陰で今のわたしは、老いて死ぬことだって出来る。本当にありがとう」

「そ、そうなんだ。でも、何でそこまでして?」


「あなたが好きだからよ、颯也──」


 雪月は優しく、その美しい緋色の瞳で僕を見た。

「ほら、月がわたし達を照らしているわ」

 雪月はそうして握った僕の両手を二人の胸の高さにまで上げた。

 二人の手の上に降った雪は水滴となり、ひとつ、またひとつと月鬼岩に滴り落ちる──。


「さっ、儀式はこれでおしまい。契りを結んだとたんに、わたしお腹が空いてきちゃった」

「は?儀式?契り?なんだいそれ?」

「えっ?颯也、あなた、わたしの格好を見て何も気がつかなかったわけ?」

「今、ふたりで想いを互いに確かめ合ったじゃないの」


 僕はしばらく考えた。


──あっ、まさかその白装束って!


「あたり!」と雪月はピッと僕を指差すと、さあ帰りましょ、と岩からひょいと飛び下りた。

「帰りましょって、一体どこへ?」

「そんなの決まってるじゃない。あなたの泊まってる宿よ」


 僕の手を引くように少し前を雪月は歩いていた。今はこの瞬間だけで充分なのかもしれない。


 あの日のように僕の心を読んでいるのではと、たまに雪月の顔を覗いて見ても彼女はただ微笑みを返してくるばかりだった。


 何かを伝えたくても僕には言葉が足りないのだ。いっそのこと心を丸ごと読んで欲しかった──。


「あのね、一つだけいいかしら?」

「なんだい?雪月」

「前にも言ったのだけれど、颯也の想いがわたしを造り上げていると云うのは本当で、あなたの想いが消えるとき、わたしも静かに姿を消すわ。そう正しく湯船に浮かぶ氷柱のようにね──」

「だけれども、あなたが願うのならわたしは一生あなたの側にいるわ。そして一緒に死んであげたいの」


 儚さこそが雪女の真骨頂なのだと、雪月は言った。


「儚さだったら僕ら人間も同じだろ?君がどれだけ生きられるのかは知らないけれど、僕らの寿命はあって百年足らず。儚いといえば、それもまた儚いと思うのだけど──」

 と、僕は返した。

「そんなあなたがやっぱり好きよ」

 雪月は僕の手をやさしく握りしめる──。


 人は幸せを追い求め、それと同時に恐れと儚さを知る。この先にあるものがやはり「儚さ」だったとしてもそれが僕と雪月の「待ち望んだもの」なのだ。

 結局のところ彼女が何者かなんて僕に分かるはずも無いのだけれど、それは人間だって同じことだろう。

 どこから来てどこへ向かっているのかも知らない僕らよりも、自分自身のことさえ理解が出来ていない僕らよりも、雪女だと名乗る彼女の方がよほど自己理解の進んだ存在だと思う。

 

 僕はただ、雪月といつまでも一緒にいたかった。

 そう、あの日からずっと。

 本当にただ、それだけなのだ──。

 

 宿に着くと二人が僕らの帰りを待っていた。







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雪月鬼 秋野かいよ @kaiyo0102

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