第18話


「理事長、いますか?西条です」


 理事長の扉を叩きながら、声をかける。


「どうぞ」


 中からは、いつもより余裕のない理事長の声が聞こえてきた。


「失礼します……って、酷い顔ですね」

「女の子にそんなこと言っちゃだめよ」

「女の子って歳でもないでしょう」

「そうね……」


 自分で振ってきたネタだというのに、それをおざなりにしてくる理事長。

 その顔は、明らかに日々の疲労を語っていた。


「そういえば今日呼び出されてたじゃない……どうかしたの?」

「まあその件で来たんですけど……疲れてるんですか?」

「……私のことはいいから。由香ちゃんのことでしょう?」


 そういう理事長は、どこか寂しそうな表情をしていた。

 不意に、僕の中でその表情と由香ちゃんが別れ際にする表情が重なる。

 気のせいだったのかもしれないが、僕にはその表情を見逃すことはできなかった。


「……何があったのか、僕でよければ聞きますよ」

「生意気ね」

「でも、否定はしないんですよね?疲れてるってこと」

「……そうね」


 沈黙が流れる。

 しばらくすると、理事長は甘えるようにぽつりぽつりと弱音を吐き始めた。


「大人になるって、つらいのよ」

「はい」

「誰にも甘えられないの」

「旦那さんは?」

「……逃げられたわ」

「そうだったんですか……」


 何の気もなしに聞いたことが、藪蛇だった。

 さらに空気が重くなる。

 僕にはカウンセリングの才能がないのかもしれない。


「元々ね、私は仕事人間だったの。それでもたまに時間を作って二人で過ごしていたんだけど……由香ちゃんが生まれてからはそんな時間も無くなったわ」

「それは、仕方がないことなんじゃないですか?」

「私もそう思ってた。でもね、あの人はそうじゃなかったのよ」

「……」


 なんて酷い旦那なんだ。などと軽く言うことはできなかった。

 何も知らない僕には、理事長に声をかけることすら憚られたのだ。


「最初の頃は何も思ってなかった。いえ、思う暇もなかったのよ。私も忙しくて、由香ちゃんもまだまだ赤ちゃんだったから。でもね、由香ちゃんが嬉しそうに西条くんの話をしていると思うのよ。やっぱり、父親って必要なのかなって」

「僕は……父親代わりってことですか?」


 その言葉は、喉を滑るように出ていった。

 そこに怒りはなかったし、喜びも悲しみもなかった。

 自分でも、どんな感情を抱いているのかがわからなかったのだ。


「……違うつもりだった。最初は由香ちゃんから助けられたって話を聞いて、どんな人か気になっただけだったわ。それで西条くんに話を聞いて、素直でいい子だなって思ったから、由香ちゃんの遊び相手になってくれればなって思っていたの。由香ちゃんも信頼してるみたいだったから」

「それが、保育部ってわけですか」


 淡々とした声が出る。

 やはりそこには何もなく、僕は自分が人形になったような感覚になっていた。

 まるで自分のことなのに他人事のように感じられたのだ。

 そして、理事長はその時、下を向いて自分を抑え込むような表情をしていた。


 ───由香ちゃんが甘えたがる時と、同じ表情を。


「ええ。あの時から、西条くんをそういう目で見ていたのかもしれないわ。……最低でしょう?」


 僕は、やっぱり自分の気持ちがわからなかった。

 理事長がしたことが悪いことなのかどうかも、わからない。

 どこかにふざけるなと思っている自分もいるし、別に構わないと思っている自分もいる。

 理事長を糾弾したい自分もいれば、抱擁したい自分もいる。

 だから僕は───


「最低だと思います」


 理事長の肩がビクンと跳ねた。


「……だから、今度からはきちんと甘えてください」

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