第4話 斎藤
俺は斎藤の顔を見る。
口元にわずかに浮かぶ微笑。
思わず反射で頷きたくなってしまうほどに魅惑的だった。
川野から話を聞いていなければ、何も考えずに頷いていたに違いない。
「焼きそばパン?」
俺は確かめるように聞き返す。
「そう。大沢君が欲しいだけ、用意できるわ」
艶やかな甘い囁き。ちょっとウェットな声に、胸がドキドキする。
これって、川野が最初に俺にやって見せた『囁き』と同じだ。
どうしよう。
もし、川野の話が正しいとしたら、斎藤は『焼きそばパン買い占め』を行っている側なのかもしれない。
だとしたら。
異世界云々は別として、焼きそばパンの買い占めが現実に行われている可能性は高い。
斎藤は俺をじっと見つめている。勘違いしたくなるような、熱いまなざしだ。
「どういうこと?」
呼吸が苦しい。彼女の望まぬ言葉を紡ごうとすると、無言の圧を感じる。彼女はイエスかノーだけを求めているのだ。質問はいらないのだろう。
「好きよね?」
くすりと、斎藤が笑う。動悸が止まらない。
「ああ。好きだ」
俺は大きく息を吸い込み、斎藤の瞳を見つめ返す。
斎藤の目が大きく見開かれた。唇がわずかに震え、頬がわずかに紅潮したようにみえる。
「大好きだ」
好きか嫌いかと言われれば、大好きだ。
高級な味とは違い、あくまでもチープ。何料理かと言われても、よくわからない。そもそもソースまみれの麺は、中華の焼きそばとは全然違うものだし、当然イタリアンでもない。しかもその焼きそばをパンではさむという荒業。炭水化物の塊だから、カロリーは高く、しかも栄養価は非常に偏っている。料理の色も茶色ばかり。せいぜい上に散らした紅ショウガがアクセントになる程度だ。
それでも、うまい。そして屋台の食べ物のような高揚感をもたらす不思議な食べ物である。
「そ、そうなのね」
なぜか斎藤は俯いた。
急に彼女から感じていた圧がなくなる。
よくわからないけれど、俺の『焼きそばパン』への想いが彼女の囁きの力を上回ったのかもしれない。
「斎藤さん」
「……待って、呼ばないで」
斎藤は耳まで赤くして手で顔を覆う。
彼女の身体から僅かに虹色の光がにじんで見えた。
二宮金次郎の時見た光とよく似ている。
ひょっとして、何かがキーワードになっていたのかもしれない。
「
思い切って、彼女の名前を読んでみる。
「ああっ」
周りに気づかれないくらいの小さな声で、彼女は叫び、机の上につっぷした。
虹色の光が消えると、ちょうど始業開始のチャイムが鳴った。
扉を開く音がして、教師が入ってくる。
「負けたわ」
俺から目を背けて、立ち上がった斎藤の顔は、まだうっすらと赤かった。
三限目の教師である、地理の
黒板全体に書き終えると、ほんの少しだけ補足説明をし、再び板書に戻る。
授業は非常につまらないのだが、テストは黒板に書かれた内容がそのまま出るので、テスト勉強は楽だ。俺は好きじゃないけれど、ひとによっては、好きだという評価の分かれる授業である。
そんな感じだから、まったく私語をすることはできない。ゆえに焼きそばパンの話はあのまま保留になっている。
時折視線を感じるけれど、目を向けると顔を背けられてしまう。単純に俺の回答が保留になっているせいだろうか。
斎藤の態度はちょっとおかしい気がするけれど、何を考えているのかはわからない。
川野に聞いてみたいけれど、そもそも俺と川野の席はかなり離れている。
隣の斎藤と話すこともできないのに、川野と会話するのは無理だ。
とりあえず、自分で考えてみる。
正直、焼きそばパンの買い占めをして、どうやって世界征服できるのかはいまだに全く分からない。だが、一部の人間だけが焼きそばパンを購入できるというのは間違っている。全ての生徒に平等に購入チャンスがあるべきだと思う。
斎藤が俺に話を持ち掛けたのは、たぶん偶然だろう。
高校生男子の場合、焼きそばパンを嫌う者は、少数派だ。なりふり構わず、手に入れようとすることはないにせよ、一定の需要はある。
声掛けが斎藤クラスの美少女なら効果は抜群。パンに興味がなくても、ホイホイついていく男は多いだろう。実に巧妙な手口だ。
なんにせよ。
ホイホイついていく実に『誰でもいい大勢』の役割が回ってくるあたり、俺って本当に『モブ中のモブ』ってやつかもしれない。
「ということで、モンスーン気候の……」
教壇の教員が話し始める。いつも通りに脱線一つない語りだ。俺はノートをとるのを忘れていたことに気づいて、慌てて黒板を写し始めた。
チャイムが鳴り、授業が終わる。
「大沢君、ちょっといい?」
「ああ」
斎藤に言われて、俺は廊下に出る。
廊下にも人は多いけれど、教室で隣同士で話すよりは目立たないということなのかもしれない。
「さっきの話、忘れてくれない?」
「どうして?」
「大沢君、私を軽蔑したでしょ?」
斎藤はうつむき、苦笑いを浮かべる。
「え?」
どういう展開なのだろう。話が飛躍しすぎな気がする。
そもそも、焼きそばパンを欲しくないかって言われて、理由を聞いて。
焼きそばパンが好きだって答えただけだったはずだ。
彼女が買い占め行為に加担している可能性が高いと思ったのは事実にせよ、それは俺が勝手に推測しているだけであって、二人のやりとりには、軽蔑するような出来事は何もない。
「ひょっとして、斎藤さん、何か辛いことを抱えているんじゃない?」
俺は彼女の顔を覗き込む。
「俺で良かったら、話を聞く。助けられるかどうかはわからないけど」
「……うん」
斎藤は小さな声で頷いた。
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