第20話 残念だけど俺もこれは最終選考の出来だとは思わないな

 決勝当日。僕たちはいつもの御影邸ではなく、都内にある審査会場にいた。例年であれば予選も決勝も人数に応じたキャパシティの会場を貸し切って行っていた。しかし、今年は感染予防の観点から予選は候補者の近場で審査員と一対一で行い、候補者をふるいにかけたあと、決勝のみ大がかりに行われることになった。予選のときアリスは自邸を会場として指定していたが、どうにか決勝まで辿りついた僕たちはこの大きな会場に関係者として招かれたのだった。

 僕はぐるりと辺りを見回した。

 そこはイベントの形式によって座席配置が変わる大きな会場だった。コンサートだったらステージに対して放射状に、格闘技だったらリングを囲む形で座席が配置される。しかし、今日は審査を兼備した一般向けの香水のイベントが開催されるので出入りがしやすいように座席は撤去されていた。座席の代わりには各社のブースが展開されていて、関係者が設営のために慌ただしく行き交う。

 審査を終えたあと、イベントにそのまま移行するとアリスに教えてもらった。イベントとは世界各地の香水が集まる催しであり、この順での開催になったのは審査対象の香水にイベントで出品される香水の香りが混ざらないようにするためだ。だから当然、この会場に出入りする者は香水はおろか、整髪料や化粧も最小限にするように指示されていて、入り口のスタッフが目ならぬ鼻を光らせている。時折、こんなのもダメなのと声を荒らげる者もいるけれど、イベントがイベントなので例外は認められない。

 僕たちは会場のちょうど中心部、一際目立つ特設スペースにいた。ここで審査と発表がまとめて行われる。審査員だけじゃなくて評論家、雑誌編集者などのマスコミも来ていた。所属ごとに色違いの腕章をつけているから分かりやすい。お目当てはPerfume of the yearに選ばれる香水だ。結果は審査員の口から即時発表され、そのままニュースサイトなどへ掲載される。

 決勝には十種の新作香水が進み、ガラスケースのなかに二段に分かれて整列されていた。ケースは間もなく始まる審査で初めて解錠される。そのなかに『Alice』もあった。アリスの集大成。そして、バロン社の香水も当然のようにあった。豊富な資金力を背景にバロン社の香水は派手な装飾が施されており、ガラスケースのなかでも目を引いた。

 僕は唾液の塊を飲み込んだ。他の香水は外観だけならば見劣りしていると言わざるをえなかった。大人的な威圧感のあるバロン社の香水が、他社の香水を見下ろしているように見える。

 それに、バロン社の香水はさっきからフラッシュを浴び続けている。すでにマスコミはバロン社が受賞するものとして取材しているふしさえある。

「バロン……」

 アリスはそれだけ言って、香水を睨んだ。その目つきはとんでもなく怖くて、黙っていると手が出そうなほどである。

「アリス。ここは堪えて」

 僕はアリスを諫めた。会場には警備員も多数配置されている。もしものことだけど、アリスが何かしたらただでは済まされまい。

 と、バロン社の香水のもとにスーツを着た人が集まる。バロン社のスタッフは社章を胸につけているからすぐに分かった。そこで、僕は見覚えのある人物を見つけた。

「あっ」

「どうしたの」

「あれ、アリスのオーディションにいた人だ」

 僕が言うと、香水を見ていたアリスの目線がそっちに飛んだ。アリスはバロン社にとても敏感だった。会場に入ってきたときのナイフのような目つきが弾丸のような目つきに変わった。

 なのに、男は楽しそうにスタッフと話している。その表情がまたアリスを無意識に煽ってしまう。僕は嘆息した。そういえば、やけに内部事情を聞こうとしてきた面倒な男だった。人の心情を慮るスキルなど持ち合わせていないに違いない。

「覗きだけじゃなくて、入っても来てたのね」

 アリスは口惜しげに言った。

「あのとき僕が止められていれば」

「いいの。悠は悪くない。悪いのはアイツだから」

 そう言ってアリスは歩き出す。それ以上そこにいたら爆発しそうになるからだろう。僕はアリスの後ろを追った。足を庇うように歩いているのは靴擦れしているからか。

 アリスはフォーマルな格好をしていて、僕も慣れないスーツなんぞ着ていた。学生だから制服でいいじゃんと僕が言うと、アリスはなめられるから止めましょうと僕を強引にお店に連れていった。アリスからもらったお金は大事に取っておきたかったから気乗りしなかった。でも、アリスは報奨の前払いとして僕にスーツをくれた。

 僕がアリスの抱えているトラウマを知ったあの日から、アリスはすごく優しくなった。前なんかは機嫌の悪い猫みたいだったのに、思いなしか穏やかな顔を見る機会が増えた。それはたぶんアリスが香水を作る動機の属性が変わったからだと僕は思った。お母さんの才能を取り上げたバロン社への復讐から、お母さんに届く香りを作りたいという切なる思いへのシフト。暗い感情は覆われて、明るく頂点を目指すようになったアリスはいい意味で好戦的だった。

 僕はワイシャツのなかに空気を送り込む。新品だから着心地がまだよくない。でも、大人の入り口に一歩踏み入れたようで気分は悪くなかった。

 会場は人が多い上に、ドアは換気されていて空調が効きにくい。それでも時勢を考慮した判断に文句を言うことはできない。

「そろそろね」

 アリスが言った。人の流れが早くなる。観客が一カ所に集まっているためだ。僕たちはそれを避けるように候補者席に向かう。

 放送が流れた。

 いよいよ審査が始まる。


「お集まりの皆様、お待たせしました! 今年は大変な一年となりましたが、皆様のご協力のもとなんとか開催することができました。さて、記念すべき第五十回Perfume of the yearに輝くのは、どの作品でしょうか。審査員の入場です。拍手でお迎えください」

 明るい音楽が流れ、司会者が前口上を述べる。袖の方から審査員の一人がちらと見え、観客は拍手で迎える。大声を出せないから身振り手振りで感情を表している。僕たちも含め候補者も三者三様に手を叩く。

 審査員はしかつめらしい表情で各々の名前のある椅子に着席した。観客席から向かって左側に僕たち候補者が、中央に司会者、右側に審査員が位置している。僕は審査員を見ていた。宇緑さんもいた。名前の分からない二人についてアリスは簡単な解説を加えてくれたけど僕の耳はそのほとんどが素通りしていく。

 Perfume of the yearは三人の審査員の一致による。一つの香水を嗅ぐごとに一人ずつ論評を加えるが、その時点では順位は分からない。分かるのは最後の香水の審査を終えたあとだ。そこで三十分間の審議を挟み、上位三つの香水が口頭で発表される。一位のPerfume of the yearに輝く香水がトレンドになるのは論を待たない。

 それほどの影響力のある称号だったけれど、過去には後日書面のみの発表で済ませていたようだ。しかし、これは審査員への賄賂という不正の温床となったり、不正がなくても十分な時間は読み手に何らかの忖度を想像させた。業界は対応を考え直す必要があった。そこで、オープンな場での発表とした。これであれば観客の目に晒されているから忖度されづらい。さらに、観客にも製品化するより一足先に試してもらうことで批判を躱す狙いがあった。副次的な効果として、調香師にとってお金がかからなくて済む香水のプロモーションにもなった。

「一番目の香水の登場です」

 司会者が甲高い声で言うと、再び会場が沸いた。スタッフ二人が車輪のついた台を舞台に運んでくる。先ほどのガラスケースに保管されていた香水の一つが鎮座している。中央でスタッフが静止した。小さな瓶のなかで液面が揺れる。

 特設スペースは熱気で満ちていた。普通なら審査後のイベントで一般の観客は入場する。サンプルが配布されるからだ。しかし、この時点で入場している一般人は並々ならぬ興味を持った人であり、だからこそ期待は裏切れない。香水マニアと言ってもいいだろう。下手したらそんじゃそこらの調香師よりも香りに手厳しい。

 そんななか僕たちの香水は十番目だった。事前にくじ引きで決まっていた。大トリである。僕は緊張していて、一番目の香水が審査員のもとに届けられても自分たちの順番のことを気にしていた。審査員の一人が銀のトレイに載った香水に調香羽を浸す。宇緑さんもそれに続く。これをあと九回も繰り返すのは身が持たないかもしれない。

 一方のアリスは落ち着いていて、その表情は冬の水面を連想させた。不幸にも席次がバロン社の隣だったにもかかわらず、アリスの怒りは見えなかった。それどころでないのかもしれない。なにせ、アリスはこの一瞬にかけているのだから。

 香水の審査をしているときも、審査員は何も言わなかった。僕たちの周りにまとわりつくような静謐が流れる。審査員は調香羽のみならず、空気中に噴霧したり体にかけてみたり試していた。

 やがて、審査員は着席する。顔を見合わせて誰からコメントするか合図している。宇緑さんが頷く。

「まずは苦労を労おうと思う。この最終審査まで来るのに膨大な時間を費やしたものと想像する。だが、作品に関して評価を述べれば……これは小品といった感じだ」

 瞬間、ドキリとした。自分のことじゃないのに僕の背中に汗が流れた。まるで自分が怒られている感覚。宇緑さんは厳しい評価を下した。

「私はそうは思わないわ」

 言ったのは真ん中に座る女性審査員だった。日本人離れした目鼻立ち。年の読めない女性だ。結婚式に参加するみたいな服装で花を添えている。

「万人受けしそうな香りよ。ティーンがつけるのにちょうどいい。香水使用者全体に波及しなくても、一つの層をまるまる掬い上げる地力はあるわ」

 宇緑さんは首をかしげているけれど、フォローにまわった女性審査員に僕は好感を持った。もしも僕がこの酷評されている香水の調香師だったら、好きになっているだろう。そう油断しているとさらに隣から、

「残念だけど俺もこれは最終選考の出来だとは思わないな。制汗スプレーを思い出しちまう、軽い香りだ。そういうのも好きな奴もいるだろうが、俺は苦手だね。制作者の意図が透けて見える」

 まさかの宇緑さんより辛口な審査員だった。カウボーイのような出で立ちで香水とは無縁に見えた。だが、人は見かけによらないことを僕は嫌というほど知っているので、こういう人こそが真に香水に知悉しているのだろうと推測した。

 女性審査員は困り笑い。これで味方がいなくなりそれ以上の援護はしにくくなった。

 僕がアリスに小声で尋ねる。

「あのカウボーイみたいな人、怖いね」

「さっき言ったでしょ」

 アリスが前を向いたまま話す。審査員がマイクで話す声があるから、アリスの声は聞こえていない。

「ごめん、聞いてなかった」

「あの人はね、宇緑さんより厳しい。現場主義で、審査なんかするか、って拒んでいたけどどういう風の吹き回しなのかしらね。今日は大変な一日になりそう」

 その後、調香師自ら香水についての解説が述べられた。悪いことなんかしていないのに自己弁護のような構図になっていた。話すたびに容赦ない突っ込みが入る。評価が覆ることはなかった。このコメントなら順位も期待できないだろう。幸先の悪い展開だった。

 調香師が候補者席に戻ると、司会者がその場をつなぐ。その間に審査員は水を飲んだり、消香水で鼻をリセットする。審査の際は、こうやって前の香りが影響しないようにリセットする時間を設けてある。以前、調香を教えてくれたときにアリスが説明してくれた。僕も一度試したことがある。お酢のような香りだった。

「さて、続いて登場しますのは――」

 暗くなった会場を明るくするように司会者が言った。

 僕の感情が落ち着く暇もなく、次の香水が運ばれてくる。

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